千年の古都で、博物ヴンダー散歩…益富地学会館(2)2011年10月19日 22時47分57秒



この展示室の空気。
これはある世代の人にはとても懐かしく感じられると思います。
端的に言うと、昭和40~50年代を、理科好きな少年少女として送った人たち。

スチール製の棚、チープな陳列ケース、手書きのラベルや説明ボード…こういったものに、一種の郷愁を感じることも可能ですし、それはそれで甘美な体験に違いありません。


ただ、私はそれに加えて、この展示に何か微妙な感じも味わいました。
「昭和40年代的チープさ」ということを上で書きましたが、しかしそのコレクションの水準は高く、規模の大きな科学館と比べても遜色ありません(と、素人判断ながら思います)。ただ、その展示原理や姿勢において、ここには最近の科学館とは明らかに違うものがある。…いったい何がどう違うのか?


個人博物館(に準ずる場所)の常として、その展示のトーンは「過剰」を旨とし、明らかに脱抑制が働いています。そして標本の配列は、秩序を志向しながらも、きわめて「混沌」としています。要は、その根幹にあるものは「理」ではなく、強烈な「情」だ…ということを、その場では言葉になりませんでしたが、私は漠然と感じ取ったのです。

こう書けばお分かりでしょうが、その意味で、ここはすぐれてヴンダーカンマー的な場所として、私の眼には映りました。


以上のようなことに思いをはせることができたので、ここをヴンダー散歩の起点にしたのは、正解だったと思います。

   ★

ところで、この展示室で、私はとても感動するものに出会いました。
と言っても、「見事な標本」ではありません(ある意味、見事な標本ですが)。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2011年10月20日 07時41分44秒

>脱抑制
同じようなことを繰り返し書いているようで恐縮ですが、また書きます。
 現代の科学展示は、科学博物館であれ、教育研究施設であれ、おっしゃるように「抑制」をしています。その理由は、「テーマと道筋をはっきりさせる」、「すっきりとしてわかりやすいイメージを優先」、「無駄な物を置かない」ということで、予算不足や物不足ではありません。(展示するという理由で廃物を集めてくることは難しくないですから) その最大の意図は、玉青さんおっしゃるところの「理」を、多くのお客さんに短時間で納得をしてもらうということに尽きるのではないかと思います。

私はこれを大いに疑問に感じます。テーマとか無駄とか、それは観る人には二の次で良いことです。観る人にとって展示物が多いということは、ひっかかる選択肢が多いということです。「わかりやすい」というのも疑問で(実際には「わかりやすそうな」ですが)、一つの展示室を10分やそこらで見て「わかる」ことが最優先事項だとも思いません。「あぁ、世の中にはこんな面白い物があるんだ」という感動を最優先すべきだということは明らかだと思うのですが、どうも、テレビの教育番組か何かと混同しているように思います。

_ 玉青 ― 2011年10月20日 20時27分07秒

この渋い話題に反応していただき、ありがとうございます。(笑)

ミュージアムを訪れる人の目的が、単に「分かる」ことならば「分かりやすくする」ことにも意味があるのでしょうが、必ずしもそうではない…というのが、ここでのポイントでしょうか。来館者の求めるものは、知的な興奮であったり、深い思索へのいざないであったり、驚異の感覚であったり、単に眼を喜ばせることであったり、さまざまなので、すべてのミュージアムが「分かりやすさ一辺倒」を指向すると、ちょっとおかしなことになりそうです。

それに、S.Uさんもおっしゃるように、「分からせる」ために、「分かりやすく」展示することが最良の方法である保証はないですよね。それは「分かった気にさせる」には最良かもしれませんが、本当に分からせるためには、あえて分かりにくい道を選ぶほうが良い場合もあるかもしれません。(これはたぶん歴史系の博物館において顕著だと思います。「分かりやすい近現代史の展示」はちょっと危ういです。)

_ S.U ― 2011年10月21日 07時12分08秒

>この渋い話題に反応
 このような渋い話題が大手を振ってまかり通っているところは、昨今他ではなかなか見つからないもので(笑)

>「分かりやすく」展示することが最良の方法である保証はない
 難しいところですね。私も仕事で展示する側に回ることがしばしばですが、いちおう「分かりやすく」と心がけます。でも「分かった気にさせる」というのはあまり意味が無いので、「分からないことをよりはっきりさせる」のが良いのかもしれません。理想的には、分からないところを説明員に質問してもらうようにしむける、というのが高等テクニックだと思います。それが出来る説明員が常にそばにいるならばの話ですが。
 
 ちょっと方向がはずれるかもしれませんが、思いついたことがあります。それは、年齢によって「分かりやすい展示」というのが違うかもしれないと言うことです。
 物理や工学の図解本で、イラストや手書きの文字が平面的にごじゃごじゃと書いているのがありますよね。または、子ども用の理科図鑑でも雑誌『ニュートン』のでもいいのですが、ああいう「ごじゃごじゃ式図解」は、年齢がすすんで理解しにくくなったように感じます。自分の経験では子どもの頃はよく分かったように思います。

 中高年には道筋を示すことが重要で、博物館でいうと「順路→」の表示がないと困る、ということがあるのではないでしょうか。近年は生涯学習がさけばれて、ミュージアム展示も壮年を意識しているのかもしれません。でも、それが功を奏さずに、子どもには理屈っぽいばかりでよく分からん、ツウの大人には浅薄でつまらん、ということになっているのかもしれないと思います。

>歴史系の博物館において顕著
 歴史系博物館も、かつては、遺物がごじゃごじゃと置いてだけだったように思いますが、最近は、歴史の流れがわかるように主張を込めて並べられるようになったのではないでしょうか。危険と言えば危険ですね。近現代史が本当に分かりやすく解けるものなら、世界のどこでももめ事は起こらんはずです。

_ 玉青 ― 2011年10月21日 21時42分05秒

>「分からないことをよりはっきりさせる」

ああ!これは本当に大事なことですね。
結局のところ、「分かる」とはそういうことだし、それ以外ではあり得ないと思います。

>「ごじゃごじゃ式図解」

これも目から鱗のご指摘で、そう言われるとそうですね。私もそんな気がします。
ああいう図解は、脳内における知識の表象形式が外在化したものでしょうが、成長とともにその形式が変化するということかもしれませんねえ。例えば、子ども時代は2次元的な表現をとっていたものが、大人になると単線化するとか?

そういえば、私の場合、最近は何かのストーリーを把握するのでも、いちいち時系列に沿って述べてもらわないとよく頭に入りません(現実の事件は必ずしもそうなっていないと思うんですが…)。S.Uさんの場合はいざ知らず、私の場合、これは単純にトシのせいかも。

…いやいや、こんな風に後ろ向きに考えてはいけませんね。この加齢に伴う変化には、必ずや何か積極的な意味があるにちがいありません。(たとえば冗長性と引き換えに信頼性を高めているとか、あるいはその逆とか。)

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