夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(2)2013年02月23日 10時55分40秒

賢治は3人の中ではいちばん早くに亡くなり、今でこそ世間的にいちばん高く評価されていると思いますが、生前は作家として十分認知されていたわけでもなく、将来自分が他の2人と並んで語られることになろうとは、全く予想もしていなかったでしょう。(そもそも賢治は、星座入門書を著した抱影の名は知っていたかもしれませんが、足穂の名を知っていたかどうかは、すこぶる怪しいと思います。)

では抱影と足穂は、賢治のことをどう見ていたか。
まずは抱影編。

   ★

抱影の賢治評として何か公になった文章があるのかどうか、寡聞にして知りません。しかし、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)を読んでいたら、抱影が私信の中で賢治に触れているのに気が付きました。

昭和28年、草下英明氏がその処女作『宮沢賢治と星』を上梓した際、抱影が同氏に宛てた葉書がそれで、上の本の291-2頁には、その全文が引用されています。以下にその一部を抜粋。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであつてはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。

〔…〕吉田源治郎氏との連想はいい発見で十分価値がある。〔…〕賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だつたやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか、「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかつたのだらう。「三目星」も知識が低かつた為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言つてゐる)「庚申さん」はきつと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

(左:抱影の処女作『星座巡礼』(大正14年初版、写真は昭和6年の第7版)、
 右:賢治に影響を与えた吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』(大正11))

抱影にかかっては賢治も形なしで、「未熟」の一語であっさり片付けられています。
まあ、相手が抱影ならば、賢治もあえて反論できないでしょう。
抱影としては、初歩的なミスを連発する賢治が「星の文学者」として祭り上げられるのを見て、まさに片腹痛い思いだったのかもしれません。

(ちなみに葉書に出てくる「三目星」とは、賢治が詩の中で「三日星」にカシオペアとルビを振っていることを指します。この「三日星」は印刷の際の誤植で、草稿では「三目星」になっていることを草下氏は発見しましたが、三日星にしろ、三目星にしろ、典拠のはっきりしない言い方であることに変わりはなく、抱影はあっさり賢治の無知のせいだと切り捨てています。)

とはいえ、仮に賢治の天文知識が「素人」の域を出ないものだったにせよ、賢治は別に天文啓蒙書を書こうとしたわけではなく、輝くような詩的世界の創造こそが、その身上だったわけですから、その点を抱影はどの程度認めていたのか、気になるところです。

重箱の隅をつつくと、抱影は文中、吉田源治郎のことは「吉田氏」あるいは「吉田源治郎氏」と呼んでいるのに、賢治のことは「賢治氏」と呼んでいます。これは少なくとも相手を文学者として認めていた証拠かもしれません。が、それにしても、あまり高くは買っていなかったのかなあ…と、抱影の口吻からは想像されます(まだ足穂の方を高く買っていたかもしれません)。

(この項つづく。次回は足穂の賢治評)

コメント

_ S.U ― 2013年02月24日 18時13分11秒

ご参照の草下英明氏の『宮沢賢治と星』に野尻抱影の短い序文があり、そこには賢治への褒め言葉としては通り一遍の短いコメントがあるだけですが、それに加えて「私(抱影)はかって藤原嘉藤治氏から依頼されて、全集の為めに天文関係の言葉を註解した」とあります。この「藤原他編、抱影註解」の宮沢賢治全集がどの本なのかわかりませんが、藤原氏の依頼ならば、昭和19年以前のものであることは間違いないようです。

 また、どの作品に註解をつけたのかもわかりませんが、全集を見てみるとそれらしいものが見つかるかもしれません。抱影は全集が出る以前に賢治の文学を「検討」し、それが世に出るのを手助けしたと言えそうです。

_ 玉青 ― 2013年02月25日 21時55分01秒

あ、S.Uさんは初版をご覧になったのですね!
学藝書林版では件の序文が割愛されているので、その内容が気になっていました。お知らせいただき大変助かりました。
抱影が賢治全集の註解を手掛けていたというのは初耳で驚きました(例の石田氏の評伝にもその記述はありませんでした)。

私は賢治のことに詳しいわけではないので、ちょっと覚束ないのですが、当時あった全集は文圃堂版(昭和9~10、全3巻)、十字屋版(昭和14~19、全6巻)、組合版(昭和21、全11冊うち5冊未刊)の3種で、藤原氏が編者に名を連ねているものは前2者、すなわちS.Uさんが仰る通り、昭和19年以前のものということになりますが、なんでも十字屋版は文圃堂と同じ紙型を使っているそうですから、結局、十字屋版を見ればはっきりするのではないかと想像します。

私なりにちょっと調べてみたいと思うのですが、しかし、そのためだけに十字屋版全集を買うというのももったいないので、もしお詳しい方がいらっしゃればご教示いただきたいところです。そしてまたS.Uさんの方で、何か判明したことがあれば、ぜひお知らせくださいませ。

_ S.U ― 2013年02月26日 07時44分33秒

のちほど初版の序文のコピーを私信でお送りいたします。乏しい蔵書がお役に立って嬉しいです。

 全集のほうは、大学の図書館にあてがありますが、お持ちの方からご連絡があるとよろしいですね。

_ 玉青 ― 2013年02月26日 20時54分24秒

御厚意多謝!後ほど新たに記事を起そうと思います。

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