夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(3)2013年02月24日 08時34分41秒

足穂には、賢治を正面から評した、ズバリ「銀河鉄道頌」という短文があります。
初出は「ユリイカ」1970年7月臨時増刊号で、この号は「総特集 宮沢賢治」と銘打っていました。雑誌の方は未見ですが、この一文は後に『タルホ入門―カレードスコープ』(潮出版社、昭和62)に収められ、私が読んだのもそれです。全文引いても、そう大した長さではないので、少しずつその内容を見ていきます。

(『タルホ入門』カバー(表・背・裏の全体)。装丁:戸田ツトム、装画:まりの・るうにい)

 「私は永いあいだ、名前は聞いていながら宮沢賢治を読まなかった。それは例の東北の泥臭い手かと思っていたからである。光太郎派の大ボスの草野心平が持ち上げていると云うし、めくら詩人のエロシェンコが感心したとか何とか耳にしたので余計にそうだった。私はゆらい生命だとか、愛だとか、美だとか、そんな曖昧なことを云う人間が大きらいである。そんな手合にろくな奴がいないことは確かである。政治関与なども同類項である。サルトルは参加によって自らの芸術的貧困をごまかしているし、ブルトンの堕落はその政治癖がきっかけになっている。」

ここで、足穂が「例の東北の泥臭い手」と、東北の地域性を問題にしているのは興味深い。足穂は明らかに東北を、そして泥臭さを嫌っていました。足穂は播州人を自称しており(明石出身)、別に都会人を気取るつもりもなかったでしょうが、東北の風土にはハナから合わぬものを感じたようです。そして賢治にも泥臭いイメージを重ねて、長いこと敬遠していたことを告白しています。

 「ところがそのうちに、宮沢賢治の「黒い土」が相当に抽象化されたものであることが判ってきた。彼は農村指導者らしいが、ありふれたポーズ屋でないことが、次第に明らかになってきたのである。例えば岩手県の日本海に面した岸をドーヴァの白堊層の崖に見立てているなどが、そうである。ドーヴァは、「イッシー」「ヴィラコブノー」等とならんで、我が少年の日のなつかしい地名であった。そこは、最初に英仏海峡を飛び越えたルイ=ブレリオの単葉機が着いた地点で、おもちゃのようなヒコーキは、要塞下の斜面で胴体を前後にへし折って匍いつくばってしまったのである。「どうしてあなたは賢治を読まないのですか。あれは東北のイナガキタルホなのに」と云ったのが、かつて中公にいた常田富之助である。こうして漸く宮沢賢治は、自分からそんなに縁遠い存在でなくなってきた。」

「岩手県の日本海」はご愛敬。足穂は、東北の地図が頭に入ってなかったのでしょう。
それはともかく、足穂はある時期から賢治を気にし出します。そして、自分と似た鋭角的な抽象性をそこに感じ取り、周囲からも「賢治は東北のイナガキタルホだ」と吹き込まれ、足穂は賢治のことを、明瞭に自己と並び立つ存在として認めるにいたりました。

 「ついに「銀河鉄道の夜」を読まなければならない羽目になった。その提供者はTVマンの草下英明である。
 大正期の終り頃に、松山中学を卒えるなり私の所へとび込んできたのが仙波重利で、これはのちに京都の映画撮影所に入り、(大陸のクリークで戦死した)山中貞雄のアシスタントディレクターとして、黒沢明とは同輩であった。この仙波がいつしか私の影響で星座通をひけらかすようになり、仙波の天文趣味上のお弟子が即ち草下英明なのである。草下は野尻抱影の許に出入りし、大阪四ツ橋のプラネタリウムではその組立に従事、渋谷の五島プラネタリウムで名解説者として名を売ったことは、諸君の中で憶えている人もあろう。
 草下は戦後、私が早大うらの真盛ホテルにいた時に初めてたずねてきた。この日か、あるいは暫くたって彼が持ってきた本の中で、私は「銀河鉄道の夜」を読んだのである。これを英国式のカラーフィルムにしたいと、まず第一番に私は思ったものだ。」

ここにも草下英明氏の名前が!
抱影、賢治、足穂の三者を結びつけ、わが国の「星の文学史」に興味深いエピソードを点綴した人物こそ草下氏であり、その暗躍ぶりに驚かされます。ともあれ、戦後まもないころ、足穂に「銀河鉄道の夜」を読ませた功労者は草下氏です。

そして銀河鉄道を一読した足穂は、そこから紡いだイマジネーションをこう綴りました。

(…と、いいところですが、ちょっと長くなったので次回に回します。)