身の丈に合った蒐集ということ…『瓦礫洞古玩録』2023年09月13日 18時16分27秒

天文アンティークとは全然畑が違いますが、モノの蒐集ということを考えたとき、私が深く私淑している方がいます。仏教考古学者で、奈良国立博物館の館長も務められた石田茂作氏(1894-1977)です。

石田氏は、ご自分が専門とする仏教美術の小品を蒐集することに喜びを感じ、多年にわたる蒐集の結果を一書にまとめ、『瓦礫洞古玩録』という図録を私家版で出しています。昭和39年(1964)、氏が70歳のときのことです。

(『瓦礫洞古玩録』 扉)

(同 奥付)

私がブログを始めるにあたって「天文古玩」と題した理由は、私自身、もう曖昧になっていますが、「古玩」の二文字を選び取ったのは、石田氏の本が念頭にあったからだと記憶しています。

同書序文の中で、石田氏は自身の蒐集方針とされてきたことを述べています。
曰く、

一、物を蒐集してもよい

二、但し自分の学問研究に必要なものに限る

三、高価なものは手出しせぬ事、研究に必要だと云って高価なものを買い、為に妻子が生活に困り家庭争議を起した例もあるからその点最も警戒し、家庭の生活費をおびやかす事なく、自分の小遣銭で買える程度なら買って差支えないと我心に言い聞かせた。

四、蒐集品は決して売らない事、売って利益があればそれに味を占めて研究がお留守になるのみならず、世間の誤解もそれによって生ずる事が多いからだ。

まことに穏当な指針だと思います。特に「三」は往々問題になる点で、石田氏はこの点で、ご自分をしっかり律してきたことを誇っていますが、それは確かに誇るに足ることです。マニアとは狂気(マニー)をはらむ存在とはいえ、そういう病的な要素とは無縁の健全な蒐集もあることを、氏は教えてくれます。

こうした蒐集方針に基づく結果について、石田氏はこうも述べています。

「然し蒐集対象の制限と経済的の制約とは、どうせ優品の集まる筈はなく、徒らに数は増えても、お恥ずかしい物ばかりである。あんなに数はなくても一点でよいからもっとましなものを集めたらと云われる方もあるが、私の蒐集はこれでよいと思っている。〔…中略…〕破片断簡が多く完全なものは少なく骨董的には無価値に近いものが大部分である。」

もちろんこの言葉には、謙遜もまじっているでしょう。
しかし、その大半は本音だと思います。石田氏は国立博物館館長という要職にあったので、並の勤め人よりは俸給もよかったでしょうが、それでも金に飽かせた蒐集とは無縁の生活だったはずで、何より文字通り「博物館級のお宝」に日々囲まれていたわけですから、ご自分の蒐集を省みて「瓦礫洞」と称されたのも自然なことと思います。

(粘土を型押して作られた「塼仏(せんぶつ)」とその残欠)

私の場合、学問研究とは無縁という基本的立場の違いはありますが、その穏当さにおいて氏を大いなる先達と敬仰し、その末流を称する資格があると自ら任じています。私の場合も、「徒らに数は増えても、お恥ずかしい物ばかり」だし、「破片断簡が多く完全なものは少なく骨董的には無価値に近いものが大部分」であるにしても、「私の蒐集はこれでよい」と素直に思えるからです。(若い頃は一寸違う思いもありましたが、年を重ねてそういう境地に達しました。)

ただ、私が氏にはるかに及ばないのは、その眼力です。
私が石田氏を尊敬するもう一つの理由は、その蒐集品が、たとえ文字通りの瓦礫ではあっても、みなどこかに見どころのある優品ぞろいだからです。その選択眼の確かさ、あるいは人が見落としている価値を見抜く目、そうしたフィルターを経たモノたちだからこそ、それは単なるガラクタの集積ではなく、総体として美しいコレクションとなっているのです。この点は、追いつくことは到底叶わなくても、これから一生かけて学んでいかなければなりません。

たぶん、ここで重要なのは、何を買うかを選別する能力と同時に、「何を買わないか」を選別する能力で、「単なるガラクタの集積」や「美しくないコレクション」は、多くの場合、後者の能力不足に起因するのではないかと睨んでいます。

(右は仏事に用いる鉦鼓(しょうこ)用引架。昭和37年(1962)に重要文化財に指定されました。氏の眼力の確かさを雄弁に物語る品です。その後、氏の郷里・愛知県岡崎市の昌光律寺に寄贈され、現在も同寺が所蔵)

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