尽形寿(じんぎょうじゅ)…この身尽きるまで ― 2025年01月18日 09時03分43秒
坐骨神経痛に苦しんでいました。
いわゆる神経痛(神経障害性疼痛)と呼ばれるものの代表が、坐骨、肋間、三叉の3種で、特に最後の三叉神経痛の痛さは耐え難いものである…と聞いていました(痛さのあまり自殺した人がいるとかいないとか)。
それに比べればまだしもですが、坐骨神経痛の痛みも相当なもので、ときには思わずうめき声が出るような激痛に襲われ、夜も眠れないような状態に陥っていました。
神経痛というのは、(大抵の場合)命を損なうことはないにしろ、QOLを大きく低下させるものであることが、経験してみて大変よく分りました。こうしてブログの趣旨を離れて、あそこが痛いだの、ここが痛いだのと、健康記事めいたものを書かざるを得ないことも、QOL低下の一端だと思います。
それでも、今は少しずつ薄紙をはぐように痛みがおさまってきているような気がします。このまま沈静化してくれることを心底願います。
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それにしても、ここに来て睡眠時無呼吸、腰痛、坐骨神経痛と来て、先週は緑内障の診断を受けました。右目の視野がだいぶ欠損していると言われて、困ったなあと思いましたが、とりあえず日常生活には支障がないので、これから薬で進行を抑えていくことになります。
もう身体中ガタが来ているんですが、この感じ、何かに似ているぞ…と、しばらく考えて「ああ、あれだ」と思いました。家電製品が壊れるとき、一斉に壊れるというやつです。同じ時期に買った家電製品はだいたい同じ時期に寿命が来て、買いなおすたびにそれがまたシンクロして…みたいなことだと思いますが、私の身体の部品も、あちこち一斉に寿命を迎えつつあるのでしょう。こちらの方は買いなおすわけにもいかないし、もう諦めて受け容れるしかないですね。
まあ、昆虫なら60世代も繰り返す期間、たった一つの肉体で乗り切ってきたのですから、それもやむを得ません。そしてヒトの60世代を超えて生きる仙人とかヴァンパイアだって、きっと最後は同じような嘆きを漏らすんじゃないでしょうか。
人に生老病死あれば、天人にも五衰あり。
(この世に生れ、育ち、老い、そして死んでいく人の一生。それもまた現象世界で永遠に繰り返される輪廻の一コマであり、そこから速やかに解脱すべきことを解く「熊野観心十界曼荼羅」(部分))
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普通の記事も少しずつ再開します。
十年一日、一日千秋 ― 2025年01月18日 17時21分13秒
今日の記事のおまけ。
同じ人間が書いているので当たり前ですが、自分の書いていることは、ちょっとカッコよくいえば変奏曲、有体にいえば十年一日、なんだかずっと同じことを言ってる気がします。今回そう思ったのは、以下の過去記事に目が留まったからです。
■無限の時、夢幻の出会い
13年前の自分は、ある男女の切ないストーリーに触発されて、「たとえ3日が60年に伸びても、別れの苦しみは変わらないし、反対に60年分の思いを3日間に詰め込むことだってできないわけではない」と書きました。さらに虫たちの生と死に「ヒトの有限性に根ざす、心の中の「根源的寂しさ」」を感じ、「永遠は一瞬であり、一瞬は永遠である」と、もっともらしく他人の褌を借りています。
まあ、表現の細部は違えど、今日の記事で言いたかったことは、13年前の自分もしんみり感じていたことです。「成長がないなあ…」と思いますが、しかし「ヒトの有限性」は私にとってこの13年間でいっそう切実なものとなったし、話の力点も男女の機微から寂滅為楽へと移ったことを思えば、やっぱりそこに幾分「成長」もあるわけです。
我ながら頼もしいような、心配なような。
いずれにしても13年という歳月は、面貌ばかりでなく、心にもしわを刻むのに十分な時間です。
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