一枚の紙片の向こうに見える風景2024年12月05日 18時17分22秒

韓国の大乱。
過ぎてみればコップの中の嵐の感もありますが、人の世の不確実性を印象付ける出来事でした。我々は今まさに歴史の中を生きているのだと、ここでも感じました。

師走に入り、業務もなかなか繁忙で、これで当人が「多々益々弁ず」ならいいのですが、あっぷあっぷっと流されていくばかりで、どうにもなりません。世界も動くし、個人ももがきつつ、2024年もゴールを迎えようとしています。

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さて、そんな合間に少なからず感動的な動画を見ました。
今から4年前、2020年6月にアップされたものです。


■I bought a medieval manuscript leaf | (It got emotional...)

動画の投稿主は、ブリジット・バーバラさんというアメリカ人女性。
彼女は古い品や珍奇な品に惹かれており、動画の冒頭はニューヨーク国際古書市(New York International Antiquarian Book Fair)の探訪記、後半はそこで彼女が購入した品を紹介する内容になっています。

(主催者である米国古書籍商組合のブログより)

バーバラさんは古書市の会場で、マルチン・ルターやアブラハム・リンカーンのような偉人の手紙や、1793年に書かれた無名の子供の学習帳のような、「肉筆もの」に強い興味を持ちました。そう、100年も200年も、あるいはもっと昔の人がペンを走らせた紙片や紙束の類です。

(話の本筋とは関係ありませんが、バーバラさんの動画に写り込んでいた17世紀の美しい星図、Ignace-Gaston Pardies(著)、『Globi coelestis in tabulas planas redacti descriptio』。バーバラさん曰く“If you can afford it, you can own it”.)

この動画が感動的なのは、バーバラさんがそれらの品を紹介するときの表情、声、仕草が実に生き生きとしていて、見る者にも自ずと共感する心が湧いてくるからです。

そして彼女が古書市で購入したのも、そうした肉筆物した。


時代はぐっとさかのぼって、1470年頃にイタリアで羊皮紙に書写された聖歌の楽譜、いわゆるネウマ譜です。バーバラさんは素直に「いいですか、1470年ですよ?1470年に書かれたものが、今私の手の中にあるんです!」と感動を隠せません。

もちろん事情通なら、15世紀のネウマ譜の写本零葉は、市場において格別珍しいものではないし、値段もそんなに張らないものであることをご存知でしょう。でも、「ありふれているから価値がない」というわけでは全くないのです。

バーバラさんが言うように、それは確かに昔の人(無名であれ有名であれ)が、まさに手を触れ、ペンを走らせたものであり、それを手にすることは、直接昔の人とコンタクトすることに他ならない…という気がするのです。

そして、そこからいかに多くの情報を汲み出せるかは、それを手にした人の熱意と愛情次第です。バーバラさんは、この写本に書かれた聖歌が何なのか、ラテン語のできる友人に読んでもらい、これが四旬節の第 2 日曜日の早課で歌われた聖歌であることを突き止めます。さらに、そのメロディーはどんなものか、同時代の宗教曲に耳を傾けながら、さらなる情報提供を呼び掛けています。たった1枚の紙片も、その声に耳を澄ませる人にとっては、実に饒舌で、心豊かな会話を楽しませてくれます。

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バーバラさんの感動や興味関心の在り様は、私自身のそれと非常に近いものです。私もこれまで断片的な資料から、いろいろ空想と考証を楽しんできました。以前も書いたように、それは旅の楽しみに近いものです。

人生という旅の中で、さらに寄り道の旅を楽しむひととき。
忙しいからこそ、そんなひとときを大切にしたいと思いました。

江戸のコメットハンター(1)2024年10月14日 11時16分16秒

紫金山・アトラス彗星の話題で、一般向けメディアも賑わっています。やっぱり彗星は人気者ですね。まあ、これは彗星の正体がわかって、この「宇宙の旅人」を歓迎するムードが高まってからのことで、それ以前はもっぱら不気味で不安を掻き立てる存在だったことは、洋の東西を問いません。

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日本で彗星に対する科学的関心が生まれたのは江戸時代中期、宝暦年間(1751~63)以降のことで、この頃から幕府天文方による正確な位置観測に向けての努力が始まった…と渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史』には書かれています(p.692)。

もっとも天文方の本務は暦の作成でしたから、彗星観測はいわば余技で、それでも結構なエネルギーを注いだのは、彗星のようなぼんやりした対象の位置を正確に決定することは、非常にチャレンジングなことであり、彼らの研究者魂や技術者魂を強く刺激したからでしょう。

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そんな「江戸のコメットハンター」にちなむ品を手にしました。


浅草天文台を観測拠点として活動した、幕府天文方による彗星発見の第一報である「御届書付」です。天文方は若年寄の直属だったので、直接には若年寄に対して差し出したものでしょう。


美濃判サイズの和紙(実寸は28×38.5cm)に、細筆を使って丁寧に書かれています。図中の直線は、おそらく墨糸を打ったものでしょう。字体と紙質から、江戸期の文書と見て間違いないと思いますが、もちろん現物は若年寄に提出してしまったので、これはその写しということになります。

現物では彗星の位置は別紙に描かれていたようですが。ここでは同じ一枚にまとめて描かれています。また現物では、末尾に報告者である天文方3名の署名があったはずですが、写しでは単に「天文方三名」となっています。


ただ、写しにしても、ここまで丁寧に書かれているのは、「写しの写しのそのまた写し」とかではなく、現物を直接脇に置いて書いたものではなかろうかと、もちろん正解は分からないですが、今のところそんなふうに考えています。したがって天文方自身、あるいはその周辺の者が、控えとして作成したもの…という可能性もなくはありません。


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この文書が報じている彗星は、大崎正次氏が編纂した『近世日本天文史料』(原書房、1994)を見たらすぐに分かりましたが、この文書の素性に関しては、他にもいろいろ考えるべき点があるので、地味な話題ですが、のんびり筆を進めます。

(この項つづく)

抱影の短冊2024年10月06日 08時14分34秒

野尻抱影は、あの世代の文人にしては、短冊をあまり書かなかった人だと思います。彼は無数の随筆を書き、それが散文詩の域に達している感もありますが、あまり俳句や短歌の類は詠まなかったので、短冊を乞われても断っていたのかもしれません(一応、「銅駝楼」という俳号を持っていましたが、「どうだろう?」というのは、あまり真面目に付けたとは思えません)。

ですから、先日抱影の短冊を目にしたとき、「おお、これは珍しい」と思い、そそくさと購入の手続きをとりました。


 雪すでに 野麦を断てり 稲架の星  抱影

金砂子を散らした雲紙短冊に抱影が自句を筆で記したもので、抱影の肉筆物はたいていペン書きですから、筆文字というだけでも珍しい気がします。


野麦に註して「(峠)」とあるので、これは飛騨高山と信州松本を結ぶ野麦街道の最大の難所である「野麦峠」を詠んだものです。信州に出稼ぎに行く製糸女工の哀話を記録した山本茂美(著)『あゝ野麦峠』で全国的に有名ですが、この本が出たのは1968年と意外に遅いので、たぶん抱影の句の方が同書に先行しているでしょう。

(『新版 あゝ野麦峠』、朝日新聞社、1972)

(野麦峠関連地図。山本上掲書より)

季語は雪、もちろん冬の句です。里に先駆けて降る雪で、早くも野麦峠は通行不能となり、空には稲架(はざ)の星が冷たい光を放っている…というのです。

ここにいう「稲架の星」とは、「稲架の間(はざのま)」のことで、これはオリオンの三つ星をいう飛騨地方の方言です。以下は抱影の『日本の星 星の方言集』からの引用です(初版は1957年、中央公論社。ここでは2002年に出た中公文庫BIBLIO版を参照しました)。

 「ハザは稲架で、普通はハサである。田の中やあぜに竹や木を組んで立て、刈った稲をかけて乾すものである。ハザノマは、おそらく、三つ星が西へまわって横一文字になった姿に、三本の柱でくぎったハサの横木を見たものであろう〔…〕

 わたしは、この名から信飛国境の連山の新雪が朝夕の眼にしみて来るころ、もう棒ばかりとなったハザの彼方に、三つ星のさし昇る光景を思い浮かべた。その後高山に住んでいた女性から、そこで見る三つ星は、乗鞍の平たい頂上から現れると報ぜられて、この方言の実感がいっそう濃くなった。そして、それ以来長くたつが、他の地方からはハサノマ、または類似の名を入手していない。方言は面白いものである。」

(文庫版 『日本の星「星の方言集」』 pp.228-9より)

上の句はまさに抱影が「信飛国境の連山の新雪が朝夕の眼にしみて来るころ、もう棒ばかりとなったハザの彼方に、三つ星のさし昇る光景を思い浮かべ」て詠んだ想像句でしょう。しかし想像句とはいえ、彼は若い頃、甲府中学校の英語教師を務め、登山にも親しんでいましたから、山ふところで見る星の姿には深い実感がこもっている気がします。

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ところで、この短冊でひとつ気になることがあります。
それは、こうした藍と紫の雲形を漉き込んだ短冊を用いる場合、空を意味する藍が上、大地を意味する紫を下とするのが定法だからです。それをあえて天地逆に用いるのは、人の死を悼むような特殊な場合に限られるそうなので【参考LINK】、抱影がそれを知ってか知らずか、もし知ってそうしたなら、何か只ならぬものをそこに感じます。

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…というような情趣が、いわゆる「和星」の味わいで、私はしみじみいいなあと思うんですが、どうでしょう、やっぱり地味でしょうか。

風流高楊枝2024年07月07日 06時38分27秒

七夕ということで、風雅を気取って掛軸をかけました。


なんとなくモヤモヤとして、遠目には何が描かれているのか、さっぱりわかりません。


ここまで近づいて、はじめて文机に梶の葉、その脇に秋草と燭台が描かれていることが分かります。七夕の景物をさらっと淡彩で描いているのですが、今回しげしげと眺めて、「うーむ、これは…」と思いました。

どうも文机の足の描き方が変だし、燭台の柱も曲がっている上、台座との関係も不自然です。要するにデッサンが狂っている。それにこれは屋外ではなく、縁側の光景のはずなのに、秋草が床から直接生えているのが、いかにも奇妙。


箱書きには「八十一翁 文翠書之」とあって、谷文晁門下の榊原文翠(文政8-明治42/1824-1909)が、明治37年(1904)に描いたことになっているのですが、職業画家がこんな下手な絵を描くはずはないので、要は粗悪な偽物でしょう。

榊原文翠といっても、今ではその名を知る人も少ないでしょうから、「そんな無名の人の偽物を作って、何かメリットはあるの?」と思われるかもしれませんが、当時にあってはそれなりの画家でしたから、やっぱり贋作を作る意味と旨味はあったわけです。

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そんなわけで、風流の道もなかなか険しいです。
でも贋物でもなんでも、今宵は七夕の二星に捧げものをすることこそ肝要。風流の真似とて書画を飾らば即ち風流なり、これはこれで良しとしましょう。


 天の川 初秋風の 通ふらん
  雲井の庭の 星合の影

「雲井(雲居)の庭」は、かしこき宮中の庭の意。ステロタイプな凡歌にすぎませんが、宮中の庭から牽牛・織女の星を見上げ、天の川のほとりには、今頃初秋の風が吹いているだろう…と想像するのは、たしかに涼しげではあります。

なお、詠み手の「よしため」は未詳。ひょっとしたら、これもでっちあげで、そもそもそんな人はいないのかもしれません。まこと、すべては夏の夜の夢のごとし。

夜空の大四辺形(3)2024年06月04日 18時20分20秒

この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。

日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。


(文面はアドレス欄の下部に続いています)

これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星のは、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

   ★

石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。


たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。

まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。


石田氏の読みは「刃金青といひなさいですが、ごらんの通り、実際には「…といひたいです。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。

それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。


抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。

その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。

(誤) → (正)
星の → 星の
吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
「ペルセウス」の混沌 → 混淆
〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落

重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。

   ★

情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。

美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。

草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。

(この項、ぽつりぽつりと続く)

蛮族の侵入2024年04月13日 16時06分42秒

ここに1枚の絵葉書があります。


ガートルードという女性が、友人のミス・ウィニフレッド・グッデルに宛てたもので、1958年7月31日付けのオハイオ州内の消印が押されています。――ということは、今から76年前のものですね。

「ここは絶対いつか二人で行かなくちゃいけない場所よ。きっと面白いと思うわ。早く良くなってね。アンソニーにもよろしく。ガートルード」

彼女は相手の身を気遣いながら、絵葉書に写っている天文台に行こうと誘っています。

(絵葉書の表)

改めて裏面のキャプションを読むと


「オハイオ州クリーブランド。ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、ケース工科大学天文部門の本部で、イーストクリーブランドのテイラー通りにある。研究スタッフである天文学者たちは、とりわけ銀河の研究に関心を向けている。また学期中は市民向けに夜間観望会を常時開催し、講義と大型望遠鏡で星を眺めるプログラムを提供している。」

   ★

ワーナー・アンド・スウェイジー(Warner & Swasey Company)は、オハイオ州クリーブランドを本拠に、1880年から1980年までちょうど100年間存続した望遠鏡メーカーです。

同社の主力商品は工作機械で、望遠鏡製作は余技のようなところがありました。
そして本業を生かして、望遠鏡の光学系(レンズや鏡)ではなく、機械系(鏡筒と架台)で実力を発揮したメーカーです。ですから、同社はたしかに「望遠鏡メーカー」ではあるのですが、「光学メーカー」とは言い難いところがあります。たとえば、その代表作であるカリフォルニアのリック天文台の大望遠鏡(口径36インチ=91cm)も、心臓部のレンズはアルヴァン・クラーク製でした。

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同社の共同創業者であるウースター・ワーナー(Worcester Reed Warner 、1846-1929)アンブローズ・スウェイジー(Ambrose Swasey 、1846-1937)は、いずれも見習い機械工からたたき上げた人で、天文学の専門教育を受けたわけではありませんが、ともに星を愛したアマチュア天文家でした。

その二人が地元のケース工科大学(現ケース・ウェスタン・リザーブ大学)の発展を願って建設したのが、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台で、1919年に同大学に寄贈され、以後、天文部門の本部機能を担っていたことは上述のとおりです。

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1910年代、二人の職人技術者の善意が生み出し、1950年代の二人の若い女性が憧れた「星の館」。ここはもちろん天文学の研究施設ですが、同時にそれ以上のものを象徴しているような気がします。言うなれば、アメリカの国力が充実し、その国民も自信にあふれていた時代の象徴といいますか。

ことさらそんなことを思うのは、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台の今の様子を伝える動画を目にしたからです。関連動画はYouTubeにいくつも挙がっていますが、下はその一例。



アメリカにも廃墟マニアや心霊スポットマニアが大勢いて、肝試し感覚でこういう場所に入り込むのでしょう。それにしてもヒドイですね。何となく「蛮族の侵入とローマ帝国の衰亡」を連想します。

もっとも、ワーナー・アンド・スウェイジー天文台は、別に廃絶の憂き目を見たわけではなく、今も名を変え、ロケーションを変えて観測に励んでいるそうなので、その点はちょっとホッとできます。そして旧天文台がこれほどまでに荒廃したのは、天文台の移転後に土地と建物を取得した個人が、詐欺事件で逮捕・収監されて…という、かなり特殊な事情があるからだそうです。まあ、たとえそうだとしても、ワーナーとスウェイジーの純な志や、建物の歴史的価値を考えれば、現状はあまりにもひどいと言わざるを得ません。

   ★

冒頭のガートルードとウィニフレッドの二人は、その後この天文台を訪問することができたのかどうか? 訪問したならしたで、しなかったらしなかったで、このお化け屋敷のような建物を目にした瞬間、きっと声にならぬ声を漏らすことでしょう。

悲運の人、レピシエからの便り(後編)2023年11月29日 18時26分07秒

(前回の続き)


近代日本天文学の一番槍、エミール・レピシエ
その人の自筆書簡をイギリスの古書店で見つけました(もちろんネットカタログ上でのことで、それも狙ったわけではなく偶然です)。

(紙片の大きさは約11.5×13cm)

上がその全容。書簡といっても紙片に走り書きしたメモ程度のもので、日付も署名もありません。あるいはこれはもっと長文の手紙の一部を切り取ったもので、日付と署名は別の箇所に書かれていたかもしれません(その可能性は高いです)。


無署名なのに、なぜレピシエの手紙と分かるかといえば、右下に別筆で「astronome Lépissier de l'observatoire de Pékin(北京天文台の天文学者レピシエ)G.R.」と書かれているからです。この手紙の受取人、ないしは受取人から譲り受けた「G.R.」なる人物が、備忘として余白に書き残したのでしょう。ただし、レピシエが北京天文台に在籍したという記録はないので、これは事実誤認です。

肝心の本文は、幸い件の古書店主氏によってすでに読み解かれていました。

 「Si vous le jugez plus commode, Vous pouviez remettre les objets que je vous demande à Madame Coeuille, lingère au marché Papincourt, demeurant Petite rue Papincourt, No. 10, avec prière de me les fair parvenir à ma nouvelle adresse, à Shanghai, car nous avons du, pour cause de frénrité, quitter Pékin après le massacre de Tientjin.」

意味の判然としないところもありますが、Googleの力を借りると、およそ以下のような意味でしょう。

 「もしそのほうが好都合なら、私が頼んだ品々をパパンクール市場でリネン婦をしている、パパンクール小路10番地在住のクイユ夫人に託して、上海の私の新しい住所あて送ってもらうようお願いしていただいても結構です。何しろ天津での大虐殺の後、私たちは友愛会の関係で、北京を離れる必要があったものですから。」

どうやらまだ中国にいた頃、1870年に北京から上海に移った直後に、パリの知人に宛てて送った手紙のようです。

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レピシエの体温と息遣いを、このインクの染みの向こうに感じ、彼の苦労の一端を偲ぶだけでも、この書簡には大いなる価値があると思いますが、ここには新たな事実も顔を覗かせています。それは末尾の一文です。レピシエは「Tientjin」と綴っていますが、これは普通に考えて「天津」でしょう(現代フランス語では「Tianjin」と綴るそうです)。

ここでいう「天津での大虐殺」とはいったい何か?
いろいろ調べると、1870年に天津で起こった「天津教案」という事件がそれのようです(ウィキペディアの該当項目にLINK)。

なんでもこの年、天津では幼児失踪事件が相次ぎ、加うるに市中で疫病までもが流行りだし、教会が経営する孤児院でも3~40人の子供が病死する事態になりました。民衆の間から、「孤児院の修道女が子供を殺して薬の材料にしている」という噂が広まった結果、数千の群衆が教会を取り囲み、フランス領事の発砲をきっかけに、憤激した民衆がフランス領事と秘書、10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の中国人信者を殺害し、果てはフランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちするという大惨事になりました。さらにこのニュースが伝わるや、各地でキリスト教徒と非キリスト教徒の衝突が頻発するようになった…という事件です。

(焼き払われた天津の教会(望海楼)。出典:平頭阿銘(筆)「天津教案謎中謎―看曽国藩是怎様身敗名裂的」 https://zhuanlan.zhihu.com/p/44288377

前編で挙げた中村・デバルバ氏の論文は、「当初のレピシエの熱意は次第に失望へと変わり,やがて,北京はもはやとどまるべき地ではないと感じるようになった」、「1870年2月には,家族を養うために上海に移った」と記し、レピシエの上海移住の理由として、北京同文館での不遇を挙げています。もちろんそれも大きな理由でしょうが、この手紙からは、この「中国版・攘夷運動」の高まりによって、具体的に身の危険を感じたから…という理由もあったように読めます(北京と天津はいわば隣町ですから、影響は大きかったはずです)。

また天津教案は1870年6月の事件なので、実際には中村氏らが説くように1870年2月にぱっと転居したわけではなく、職探しや家探しやらで右往左往しているうちに、天津で例の事件が起こり、いよいよ上海へ…という流れではなかったかなあと想像します。

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まあ瑣末といえば瑣末ですが、小なりとはいえ新資料であり新事実ですから、レピシエ顕彰の一環として記しました。そして耳をすませば、この小さな紙片の向こうから、大きくうねる歴史の濤声も聞こえてくるような気がします。

悲運の人、レピシエからの便り(前編)2023年11月28日 19時58分49秒

なんぼ酔狂な私でも、”天文古玩”と称してマッチラベルばかり集めているわけではありません。天文学史の王道といえる品を手にして、しばし思いを凝らすこともあります。

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エミール・ レピシエ(Emile-Jean Lépissier、1826-1874)という人がいます。
一般には無名の人といっていいでしょう。でも、日本の天文学の歴史においては、きわめて重要な位置を占めています。何しろ江戸から明治に替わったばかりの日本にやってきて、開成学校(東大の前身)で天文学を講じた最初の先生がレピシエであり、明治政府に近代的天文台の建設を進言したのもまた彼だったからです。後代への影響を考えると、彼を「近代日本天文学の父」と呼ぶのは言い過ぎかもしれませんが、確かに「近代日本天文学の一番槍」ではあったのです。

(曜斉国輝画 『東京第一大学区開成学校開業式之図』 明治6年。
出典:国立教育政策研究所 教育図書館 貴重資料デジタルコレクションより)

とはいえ、レピシエの在日期間は1872年(明治4)から74年(明治7)までの2年余りに過ぎません。そしてその生涯と業績については、ごく最近まで謎に包まれていた…ということが、以下の論文に詳述されています。端的に言うと、その没年すら分かっていなかったのです。

中村 士、シュザンヌ・デバルバ
 悲運のお雇い外国人天文学者エミール・レピシエ(1826-1874)
 『天文月報』 2016年11月
上記論文はそのままレピシエの伝記にもなっているので、ぜひご一読いただきたいですが、以下、かいつまんで書きます。

○パリ時代
彼はパリ大学で文学を修めた後、1854年、畑違いのパリ天文台に就職。それを手引したのは台長のルヴェリエですが、ルヴェリエは相当なパワハラ気質の人で、レピシエも彼の横暴に散々泣かされた挙げ句、1865年、一方的に解雇されてしまいます。

○中国へ
その後、1867年、伝手があって北京の同文館(北京大学の前身)のフランス語教師の職を得て、中国に渡ります(日本でちょうど大政奉還と王政復古のあった年です)。レピシエは中国でも熱心に天体観測を行い、学術誌に報文を送ったりしていますが、これが同文館校長の意に沿わず(校長はフランス語教師の職務に専念しないなら解雇するぞと脅してきました)、やる気を削がれたレピシエは1870年に北京を離れ、上海でフランス語新聞の発行という、まったくの新事業に乗り出します。しかし、これもほどなく倒産。

○日本での教師生活と死
さらなる活路を求めて1872年、彼は横浜に上陸し、まもなく正式に明治政府の「お雇い外国人」の一人となった…というのが、彼の前半生です。でも、彼に「後半生」と呼べるものは、もはやほとんど残されていませんでした。前述のとおり、彼は草創期の日本の大学で、代数学、幾何学、そして天文学などを講じたのですが、早くも1874年には未知の病で教壇を降りることを余儀なくされたからです。おそらく治療目的のためにフランスに帰国したものの、薬石効なく同年没。

中村・デバルバ両氏の論文は「悲運のお雇い外国人」と題されていますが、こうして見ると、まさに彼は悲運に泣かされ続けた人という印象が濃いです。

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ここまでが話の前置きです。
この悲運の偉人の手紙を見つけた…というのが今回のテーマですが、長くなるので手紙の中身については後編に回します。

(この項つづく)

七夕の雅を求めて(6)…短冊奉納2023年07月06日 05時44分58秒

さて、今回の七夕企画の大トリは、七夕に不可欠の「短冊」です。
これについては、機知も、見立ても、「うがち」もなしの直球勝負で、七夕にちなむ古雅な短冊を飾ることにします。


詠題は「二星逢」、作者は尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、1591-1653)という安土桃山から江戸の初めにかけての人です。皇族出身僧として天台座主をつとめ、書に優れた人だったと言います。まあ、これが真筆かどうかは保証の限りでないんですが、ここでは400年前の真筆として、恭しく二星に奉呈することにします。


  まとを〔間遠〕なる契りなりしも 天地の中に絶せぬ星あひの空

七夕の歌には、天上の恋にかこつけて地上の恋を詠んだものも多いですが、これは素直に星のことを謳っている点で好感が持てます。

歌意を按ずるに、「それは確かに“間遠”だけれども、天地の間にあって二星の逢瀬は永遠に繰り返される…」という詠嘆のうちに、人間のタイムスケールと宇宙のタイムスケールとが自ずと対比され、それが歌に奥行きと広がりを与えている気がします。

(この項つづく。明日はこれまで紹介した品の勢揃いです。)

牧野富太郎の手紙2023年04月09日 07時29分51秒

(昨日のつづき)

さて、牧野富太郎の手紙の内容に入ります。
手紙の差し出しは、昭和10年(1935)12月7日、消印は12月8日付になっています。


宛先は荏原区戸越、今の品川区に住んでいた篠崎信四郎という人物です。
篠崎は伝未詳ながら、明治43年(1910)に成美堂から『最近植物採集法』という本【LINK】を上梓しています。同書は牧野の校閲を経ており、篠崎は序文で牧野を「恩師」「先生」と呼んでいます。また、牧野が明治44年(1911)に組織した「東京植物同好会」(発足時の名称は「東京植物研究会」)の会員として、1910~30年代の植物学関係の雑誌に、その名が散見されます。おそらく牧野に学び、牧野の周辺で活動を続けた、在野の植物研究者なのでしょう。

手紙は便箋2枚にペン書きされており、下がその全文。


江戸時代のくずし字ほどではないですが、今ではこうした手紙もずいぶん読みにくいものになっていて、私も首をかしげた箇所がいくつかありました。それでも凝視していると徐々に読めてくるもので、特に不都合な内容もないので、以下に書き起こしてみます(改段落は引用者。ネット情報をつまみ食いして、いくつか註も附けました)。

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貴簡をありがたく拝見いたしました。其后御変りない事と御慶び申上げます。

「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー

神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます

榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう

作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
   十二月七日
 篠崎賢台 机下

【注】
(1)『趣味の植物採集』は牧野の自著。1935年、三省堂より刊行。
(2)岩波書店から出た『岩波講座生物学 第8』(1932)を指すか。牧野は同書で「植物採集及び標本調製」の項を分担執筆した。
(3)『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』は、江戸後期の蘭学者、宇田川榕菴(うだがわようあん、1798-1846)が著した植物学書。文政5年(1822)刊。「ぼたにか」とは「botanica」(羅、植物学)の意。折本仕立ての経本をまねた体裁をとっている。
(4)神変大菩薩は、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、伝7
世紀の人)の諡号。彼の没後1100年を記念して、江戸時代の寛政11年(1799)、光格天皇より追贈された。ここに出てくる「蘭山」揮毫の碑が何を指すかは不明。
(5)小野蘭山(おのらんざん、1729-1810)。江戸時代の本草学者。蘭山は号で、本名は識博(もとひろ)。その曾孫が前々回の記事に登場した、植物学者の小野職愨(おのもとよし、1838-1890)。
(6)(3)に記した宇田川榕菴のこと。

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旧知の弟子相手ですから、いかにも心安い感じの手紙です。文章もあまり推敲せず、さらさらと書き流した感があります。

内容は最初から最後まで植物学に関連した事柄ですが、リアル植物学に加え、植物学史や植物民俗史的な話題が多いのが注目されます。同時代の野尻抱影が、各地の弟子たちと盛んに文通して、天文民俗語彙の収集に努めていたことが思い合わされるのですが、牧野の場合も弟子たちと似たようなやりとりがあったんでしょうか。(遠目から見ると、こういう動向は、柳田民俗学の隆盛とシンクロしているように感じられます。)

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昭和10年、牧野はすでに73歳になっていましたが、その活力と好奇心は衰えることなく、『牧野植物図鑑』や『(正続)植物記』等の主著を発表するのは、さらにこの後のことになります。平均寿命を考えれば、これは今よりも格段にすごいことで、この一点だけ見ても、牧野という人は文句なしに稀代の傑物です。