足穂の里へ(10)2011年09月19日 19時28分16秒

さて、しょうもない話はおいといて、明石紀行の完結編です。
考えてみれば、明石を訪問してからもう1ヶ月も経っているので、時候遅れもいいところですが、この一文を終える前に、どうしても訪ねておかねばならない場所があります。
浄土宗・無量光寺です。

ここは明石川の河口に近く、足穂の祖父の家の近所でもあるので、今回の明石探訪では最初に立ち寄った場所ですが、話の順序として、記事にするのはいちばん最後に回しました。

(左に無量光寺、右寄りに連載の初めの方で登場した浄行寺や岩屋神社が見えます。足穂にとっては馴染み深い一角。)

30過ぎで明石に戻った足穂の生活は、ある意味、この寺を中心に回っていました。
当時の住職は、足穂の友人である小川龍彦。彼は東京遊学中にトルストイの翻訳を手がけるなど文学志向の人で、明石では当時流行の民芸運動に関心を持ち、境内に窯を築き、自ら作陶にふけるほどの入れ込みようでした。足穂は彼の善良な資質を好ましく思い、その好意にかなり甘えていたと思います。彼は一時ここの庫裏に寄寓し、そこから実家に通うような生活を続けていました。

(南を向いた山門はなかなか立派です。)

その夫人が、作中では「奥さん」あるいは「O夫人」として登場する小川繁子です。
彼女はプロレタリア演劇からスタートした俳優・薄田研二の実妹で、才気煥発なハツラツとした女性でした。足穂と彼女の関係は、地方新聞のゴシップとなりましたが、足穂にとって彼女は恋着の対象というよりも、精神的マドンナのような存在だったでしょう。

(山門の向かって左、土塀沿いに明石川の方へと続く「蔦の細道」。その昔、光源氏が想いを寄せる明石上のもとへと通った道だとされます。もちろん後世付会したフィクショナルな旧跡です。)

足穂は繁子の励ましによって、自選集「ヰタ・マキニカリス」の編纂に着手し、繁子はそのための特製原稿用紙を彼にプレゼントしました(心憎い配慮!)。また足穂が古着屋を始めたとき、貴重な時間を割いて熱心に手伝ってくれたのも彼女でした。足穂にとっては、実に頼もしい異性の友人です。

(本堂前の灯籠は大正時代に作られたものなので、足穂も親しく見たでしょう。)

また、無量光寺で暮らしていたころ、彼の精神生活において重要な位置を占めたのが、当時まだ中学生(今なら高校生)だった年若い友人の存在で、足穂は彼と非ユークリッド幾何学やら三体問題やらを語らって、心を慰めました。まあ、実際には、この天才肌の中学生の方が、足穂よりも一層進んだ数学趣味を持っており、足穂の方が少々受け太刀になっていた気配もあります。この友人はやがて肺を病んで帰らぬ客となりましたが、彼の思い出は、その後「菟(うさぎ)」という短編にまとめられました(作中では、彼は少女として描かれています)。

(本堂から山門をふり返る。左手が庫裏。右手は今も続く窯場。)

(庫裏。足穂当時と同じ建物かどうかは不明。)

足穂の第2期明石時代は、外面的にはどうしようもない、酒びたりで、その日暮らしの、野放図な生活でしたが、これら浮世離れのした人間模様の中で、足穂が本格的な天文趣味にのめりこんでいったのは見逃せません。小川住職夫人・繁子に星座の手ほどきをすることに始まり、お手製の天球儀を作ったり、小形望遠鏡を買いこんで物干し場で筒先を振り回したり、最新の宇宙論を読みふけったり…。
彼がイメージ先行の宇宙的郷愁の徒で終わらなかったのは、この時代の経験が下地になっているからで、彼の作家的成長にとっては重要な時代だったと言えます。

(この項おわり。とりあえずこれで明石を後にして、神戸へと引き返します。)