恐竜古稀2009年03月06日 22時08分47秒


やっぱり3月ですね。師走に続いてバタバタ走り回っている感じです。
そんなわけで、ちょっと記事が書きにくい状況が続いています。

   ★

さて、フォントネルの合間に、ふと思いついて、戦前の絵葉書を1枚貼っておきます。
名古屋の東山動物園に立つ、実物大―を意識したと思われる―恐竜像です(コンクリート製)。

東山動物園は中部地方を代表する動物園で、戦前の昭和12(1937)年に開園しました。この恐竜たちは、開園1周年を記念して、翌13年に作られたもの。

左からイグアノドン、トリケラトプス、ブロントサウルス―と昔は言いましたが、今はアパトサウルス―なんですが、今の復元形態とはだいぶ違います。昔の恐竜(という言い方も妙ですが)は、こんな風に、みな尻尾をずるずる引きずりながら、ノッシノッシと歩いていました。ある程度以上の年代の方は、これぞ恐竜!…というふうに、感じられることでしょう。

「前世紀動物模型」というキャプションが、いかにも大時代な感じ。「前世紀」というのは別に19世紀の意味ではなくて、当時は漠然と「古代」の意味だったんですね。

この像が当時どう受容されたかは、興味のあるところです。同時代の新聞記事を見ればある程度分かると思いますが、まあ、子どもたちに大うけだったことは間違いないでしょう。「現代の恐竜展は、新手の化け物屋敷だ!」と、かつて橋爪紳也さんは喝破しましたが(『化物屋敷』、中公新書)、「恐竜と子ども文化」は、かなり広がりのあるテーマのような気がします。

ところで、驚くのは、この像がいまだに存在していること。
http://www.higashiyama.city.nagoya.jp/04_zoo/04_02shokai/04_02_01/04_02_01-09.html
身体のあちこちに亀裂が走り、子供達の声援もぐっと少なくなりましたが、 70年間変らぬポーズで、今も健気に立っています。

コメント

_ S.U ― 2009年03月07日 07時13分26秒

「恐竜と子ども文化」 -- 恐竜展は今でも子どもたちにえらい人気だそうで。 大きくて強そう、ということもあるのでしょうが、昔はたいそう栄えていたが今は一匹もいない、という「盛者必衰の哲学」が、大人より子どもに訴えるものがあるのかもしれません。そういえば、「祇園精舎の鐘の声...」も多くの生徒が楽々と暗唱していたように思います。
 そうだとすると不思議な現象ですが、生きてきた時間の短い子どものほうが、昔への憧憬が深いということもあるのかもしれないと思います。

_ 玉青 ― 2009年03月07日 19時41分03秒

今日の朝日の「天声人語」によると、年齢と好きな動物の大きさは反比例するそうです。だから小さな子どもは象が好きなんだと。なるほど、恐竜好きもそれで説明が付くな…と思いつつ、でも、そうすると、お年よりはみんな顕微鏡趣味の徒になるはずですが、どうもそうでもないので、天声人語子の説はちょっと違うかもしれません。

ところで、時の流れとともに、我々は客観的には過去から遠ざかりつつあるわけですが、でも年をとるとむしろ過去が近づいてくる感じがします(私だけでしょうか?)。子どもの頃、明治時代はとても昔に感じられましたが、今ではついこの間のような気がします。たぶん、時の長さを、自分の人生と無意識に比較して判断しているから…というのが大きな理由でしょう。さらに、世の中のことが徐々に見えてきたから、という理由もあるかもしれません。つまり、昔も今も人間そう変らん、ということが実感されてきて、過去が身近に感じられるという要因もあるように思います。

人間やっぱり長生きはするものであり、また老人は尊ぶべきものですね。鬼太郎の言うとおり、人間も300年ぐらい生きると、人間界以外のことも見えてくるかもしれません。

_ S.U ― 2009年03月08日 07時58分20秒

「大きさの比較」について言えば、子どもには生存のために本能的に「大きな者を尊敬する」という気持ちが備わっているのかもしれません。でも、何でもかんでも「生存のための本能」で片づけてしまう議論には、反論も発展もできないですね。

 過去の感覚については、私も「昔も今も人間はそうかわらん」というように感じるようになることが理由だと思います。もちろん、一般的な歴史認識としてどちらが正しいかというと、年をとってからの感覚が正しいのだと思いますが、若い人がみんな世を達観したような世の中になっても困るので、若い人はいつの時代でも「昔とは違う世の中をつくるのだ」という心意気で頑張ってほしいです。(これはもう完全に年寄りの説教)

 私の子どもの頃は、世の中は科学の発達によって急速に進歩し続ける、ということを疑っていませんでした。その意味では幸せな時代だったと思います。今の若い人は閉塞の時代をどう感じているのかと思うと、暗澹たる気持ちになります。

_ かすてん ― 2009年03月08日 11時54分16秒

この古い絵はがきの恐竜達は怪奇な雰囲気を漂わせていますが、最近の古代池の写真を見ると異様さは感じないですね。

>子どもの頃、明治時代はとても昔に感じられましたが、今ではついこの間のような気がします。
 私もそういう感覚です。時間を測る尺度である自分の人生の長さが年ごとに伸びているからなんでしょうね。

_ Gin ― 2009年03月08日 12時53分05秒

ご無沙汰してました。
東山公園の“あれ”がまだあるなんて驚きです。

 僕は東急二子玉川園の“プロントザウルス(当時)”は観ていました。が、もうずいぶん前に無くなってしまいました。今は“園”すらありません。当時“中西悟堂”の『爬虫類の怪奇な生態』という本で恐竜時代のことを知り、“ドイル”の『失われた世界』や“山川惣治”の『少年ケニヤ』を身近に感じたものでした。

 すでにご訪問されているかもしれませんが、『鴉工房』というブログがあります。大変絵の上手な方…というところから入ったのですが、恐竜時代の精密想像図をサイエンスに高めた方…というのが最近の印象です。

 以下はその中の『恐竜の復元』LIFE RESTORATIONS OF DINOSAURS という“頁”のURLです。ここからいろいろ跳んで行くとある種の感動に出遭えます。
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2008/08/life_restoratio.html

 最近“けっくえすていえふ”に出没している… DryGinA です。 2009-03-08
    ↑検索しても行き当たりません…ごめんなさい。

_ 玉青 ― 2009年03月09日 09時18分35秒

皆さん恐竜がお好きと見ました。

よろしい、では「子どもは恐竜が好き」という命題を改め、「人はみな恐竜が好きなのだが、年齢とともにそれを抑圧する傾向がある」と書き換えましょう(笑)。

人間長生きすると、だんだん過去が近しくなる…という話。それがだんだん嵩じると、「人間も恐竜もそう変らん」と達観して、中生代がつい昨日のように感じられるようになるかもしれませんね。

さすがに私はまだその域までは達していませんが、でも考えてみると、脊椎動物のバラエティというのは、生物界全体の中でいえば、まあサツマイモの品種のバラエティとそう変らんという気もします。(ちょっと話題がずれました。)

>S.Uさま

若い人の心意気に期待すると共に、ちょっと前まで若かった人も、大いに気を吐いて参ろうではありませんか。

最近は「進歩」という観念の評判が悪いですが、しかしあらゆる生物は「自転車」であり、常にどこかに向かって進んで行くしかないわけですから(これは生物の業ですね)、どこに向かっているかを問うことは、大切なことでしょう。またそれを問えるのは、「心」という独自の装置を獲得した、ヒトだけに許された特権なのかもしれません。(いや、それは特権でも何でもなく、それこそがヒトの業なのかもしれませんが…)

>かすてんさま

セピアの色調が奏でる非現実感(非在感)が、この恐竜たちに独特の印象を与えているのでしょうね。怪奇であると同時に、何となく哀感や寂寥感も漂わせているようです。古写真に写っている彼らは、いずれにせよ二重の意味で過去の亡霊なのですから。

>Ginさま

そうそう、そういう個人史的な思い出を集積して、「恐竜と子ども文化」の関係を、総説的にまとめてみたら、さぞ面白いだろうなあ…と空想しています。でもひょっとして、もうどなたか書かれているのでしょうか。

「鴉工房」拝見しました。小田隆さん、いい仕事をされてますね!
<描く>ことと<見る>ことの関係について、改めて感じるところがありました。

_ S.U ― 2009年03月09日 20時33分03秒

玉青様、 まったく同感です。我々は進歩あってナンボのもんです。

Ginさま、 お久しぶりです。
 ひょっとして、“けっくえすていえふ”というのは、”すうぱあこんああるえふくーどーせつび”のことですか。(お邪魔先で、わけのわからん符牒の応酬ご容赦下さい)

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