モノの価値・価格・欲望2013年01月24日 22時46分30秒

昨年悩まされたネットの頻断。その後何もしないのに自然治癒しましたが、一昨日からまたひどい症状が出ています。どうもローカルの問題ではなしに、途中経路にトラブルが生じているような気がします。前回、NTTは「回線には問題ない」と太鼓判を押したので、何かそれ以外のところに隘路があるのでは…。

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さて、昨日コメント欄の片隅で、とあるやり取りがありました。
そこには、以前記事にした明治の博物掛図の現物が、都内某古書店で売られているよ…という、toshiさんからの耳より情報と、それを知った私の喜びが書かれています。
しかし、今日になって「例の品は既に売却済みで…」というお詫びメールが古書店から届き、思わず天を仰ぎました。その悔しさ・寂しさはいかばかりか、言うもさらなりです。

しかし、よくよく考えてみると、これは確かにそうでなくてはいかんのだと思い直しました。と言うのも、もしこういう品が何の苦もなく易々と買える、つまり、こういうモノに興味を示すのが自分ひとりで、世間の人は誰も関心を示さないとしたら、それはそれで、とても寂しく、味気ない思いがするでしょうから。こういう品が飛ぶように売れていく世の中だからこそ、それを入手することに生き生きとした喜びが伴おうというものです。

これは、あるいは負け惜しみに聞こえるかもしれません。
まあ、その要素があることは否定しません。でも、最近はそこにある種の実感が伴っているのも事実です。何となれば、どうも最近、古書価が低めに振れているような気がしてならないからです。少なくとも、天文古書に関してはそうです。もちろん一部にはバンバン値を上げている本もあるでしょうが、私が好んで買うような、無名の埋没著者によるささやかな19世紀の古書類は、あまり人気がないのか、ジリ貧と言ってもよい状態です。そもそもが不人気の分野なのかもしれませんし、読もうと思えば、その多くはグーグルブックで閲覧できるので、紙の本に対するニーズが乏しいのでしょう。紙の本の苦境は、新刊書ばかりではなく、古書の世界にも及んでいるように見えます。

そんなわけで、以前よりも古書が入手しやすくなり、表面的にはホクホクですが、もろ手を挙げて万々歳かというと、決してそんな単純なものではありません。人間は我がままなもので、簡単に手に入るとなると、それはそれで物足りない気持ちが沸いてきます。

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言ってみれば、これは価値の物差しを他者に求めることです。他にも大勢欲しがる人がいるが故に、それは自分にとっても価値がある…と思うことに通じるからです。

筋論で行けば、「そんな情けないことでどうする。他人が欲しがろうが、欲しがるまいが、そんなことは関係ないはずだ。要は自分にとってそれが大事かどうかだろう。」という意見に分があるように思えます。理屈で言えばそうです。正面切って、それに反論することはできません。ただ、その筋論のさらに向こうに視線を伸ばすと、人間の欲望とは決してそういうふうにはできていない、ということもまた事実だろうと思います。

残念ながら、ここで欲望論を展開するだけの知識を私は持ち合わせませんが、フランスの精神分析家、ジャック・ラカンは、

「人間の欲望とは他者の欲望である。」

と言ったらしいです。味わうべき言葉だと思います。と同時に、彼は

「欲求は現実対象に向かい、欲望は幻想に向かう。」
「欲求の主体は人間であるが、欲望の主体は物である。」

とも言ったそうです。これまた含蓄のある言葉ではありますまいか。
ラカンの言うことが正しければ、欲求は満たされうるが、欲望は原理的に永遠に満たされない…ということになるのでしょう。

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話が小理屈に流れました。何だかんだ言って、やはり私は掛図の件がよほど悔しかったのでしょう。(笑)