空の旅(2)2017年04月13日 22時06分35秒

今回学んだのは、「ディスプレイの道は奥が深いなあ」ということです。

例えば本を展示するというのも、これがなかなか難しい作業。
ここに印象的な天文古書があるとして、私としては一冊の本を前に、あのページ、このページ、いろいろな構図がいっせいに脳裏に浮かんで、「これなら展示に堪えるんじゃないか」と思うのですが、実際に並べるときは、どれか1ページしか開けないわけで、知らない人が見たら、汚れた古本がポンと置かれているだけ…ということにならざるを得ません。


ネット上でヴァーチャル展示する場合は、そういう制約がないので、中身を存分に紹介できるのですが、リアルな展示というのは、その辺の縛りがきつく、なかなか本一冊を並べるのでも、その「見せ方」は難しいです。

幸いなことに、今回はantique Salon さんら、ディスプレイに関してはプロの方が展示を手がけられ、さらに展示意図を補強するためのキャプションも添えていただいたので、望みうる最高の展示となりましたが、それでもご覧になった方は、ちょっと地味な印象を受けたのではないかと思います。

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もっとも、これはディスプレイの問題にとどまらず、「天文古玩的世界」(と仮に呼びますが)の本来的な性格に因るのかもしれません。

たしかに、豪奢なオーラリーとか、極彩色の天球図とか、精巧な天文時計とか、そういう艶やかなものをずらりと並べれば、ビジュアル的には人目を引くでしょうが、そういう品が手元にないという、自明な前提は脇に置くとして、基本的に天文古玩的世界は、半ば思念の力に支えられた、イマジナリーな世界です。

例えるなら、『宮沢賢治の世界展』を開くとして、そこに賢治の初版本や、ゆかりの品々をずらり並べても、それを見ただけで賢治の世界を理解できることは、おそらくないでしょう。賢治世界というのは、やはり作品を通して成立する、モノを超えたイマジナリーな世界です。

モノというのは、ときに興味深く、ときに美しく、ときには聖性すら帯びますが、神像を拝む人が、本当は神像ではなく、その向うの神様を拝んでいるように、天文古玩的世界も、モノは一種の触媒に過ぎず、本当はモノによって賦活される「理」や「情」の世界こそが肝だと思います。

以前の話を蒸し返しますが、『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが時計屋の店先で、星図や星座早見盤にじっと見入るシーン。あれも、ジョバンニが学校で銀河についての授業を受けていなかったら、あるいは友人カンパネルラの家で銀河の本を読んでいなかったら、あれほどジョバンニの心を惹きつけたかは疑問です。

天文アンティークというのは、背景となる知識があればこそ、その魅力が光を放つものであり、それがなければ、単に「薄汚れたガラクタ」と思われても仕方ありません。

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…と、単体では自立しがたいモノを並べたことに対する言い訳めいた感じがなくもないですが、当日展示したモノについて、ここで再度思いの丈を語りながら、紙上ならぬ画面上展示を試みることにします。(それでも、なおモノが光を放たなかったとしたら、それは私の語り口が不味いせいです。)

(この項つづく)


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閑語(ブログ内ブログ)

「深い淵は決して音を立てない。
 浅い川ほど大きな音を立てる。」

という金言があります。
もちろん、ここで浅い・深いというのは、人間の度量の大きさといったようなことで、やかましく騒ぎ立てるのは大抵浅い人間だと、昔から相場が決まっています。

しかし、ここに来てどうでしょう。
やかましく騒ぎ立てているのは、他ならぬ私自身であり、淵の如く静まり返っているのは世間一般です。まあ、私の底が浅いのは進んで認めますが、それにしても…。

狂った政体というのは、昔からたくさんあるので、今の日本の政権もそのワン・オブ・ゼムに過ぎないし、そういうものとして彼らは存在しているのだ…というのは、(不愉快な事実ですが)理解はできるのです。

しかし、それを前にして、この静けさはいったいどういうわけでしょうか。
警察国家のように、何か言えば即しょっぴかれる、というなら沈黙を強いられるのも分かります。しかし、現政権はそうした国家を目指しながら、実際にはまだ道半ばであり、今はまだ何でもものが言える世の中です。それなのになぜ? わが同胞は、私の浅い理解を超えて、途方もなく度量が大きいのか?

これまで、自分なりにいろいろ人間を観察してきましたが、この疑問はそれこそ淵の如く、なかなか深いです。