蒐集の果てに2021年10月21日 21時54分34秒

昨日は黒々とした空に、電球のような月がまぶしく光っていました。
おとといはおとといで、長々とした雲が川のように空を走り、そこに半身を浸した月が、まるで急流をさかのぼっていくようで、とても不思議な光景でした。
一転して今宵は曇り。月は美しいものですが、あんまり明る過ぎるのも不穏なもので、ときには月のない晩のほうが心穏やかだったりします。

   ★

昨日、雑誌を読んでいて、「これは…」と思いました。
最近「これは…」と思うことが多いのですが、今回はかなり危機感を伴った「これは…」です。

■中尾智博 「ためこみ症と社会的孤立:ゴミ屋敷問題の処方箋」
 公衆衛生vol.85 No.10 (2021年10月) pp.668-673.

「ためこみ症」というのがあります。読んで字のごとく、他人の目から見るとつまらない物をせっせと溜め込んでしまう病気で、精神医療の世界で重んじられる「DSM」という診断基準にも記載された、正式な診断名の1つです。いわゆるゴミ屋敷問題で注目されました。

以前は強迫症の1類型と見なされていたのですが、2013年に出たDSMの第5版(DSM-5)から独立した疾患単位になりました。そのように変更されたのは、ためこみ症と他の強迫症とでは、少なからず様相が異なるからです。

すなわち強迫症、たとえば不潔を恐れて何十回も手を洗ったり、家のカギを閉めたか気になって外出もできないような状態は、本人にとっても苦しいことであり、「苦しくてやめたいのに、やめられない」のが特徴であるのに対して、「ためこみ症」は本人がそれを全く苦にしていない、むしろそうして溜め込んだ物に、本人が強い愛着を抱いている…という点に特徴があります。つまり症状が自我異和的か(強迫症)、自我親和的か(ためこみ症)という違いです。

この辺の記述から、徐々に私の不安は高まってきます。
そして、中尾氏が述べる「中等度~重症例」の記述を読むと、その不安は頂点に達します(太字は引用者)。

 「発症から10年以上経過し、ためこまれた物により部屋の機能が大きく損なわれた場合は、治療の難易度はぐっと高まる印象がある。」
 「介入については、長年にわたりためこまれた物に対し、どこから手を付けたらよいのか分からない場合が予想される。そのようなケースの場合、筆者らは入院治療を提案している。ここには入院環境で密度の高い面接を行うとともに、物があふれていない空間で生活することの機能的なメリットを実体験してもらう狙いもある。」

ああ、やんぬるかな。
これを読んで恐怖を感じない蒐集家はいないでしょう。
ちなみに「最重症例」になると、

 「発症から数十年を経て、家屋の住居としての機能は完全に失われ、屋外にまで物があふれかえるような、いわゆるゴミ屋敷状態に至ったケースでは、介入の難易度はより高まる。本人単独による状況の改善は考えにくく、上記に示したような入院加療も含めた濃密な治療戦略と同時に、家族や行政機関とも連携をとり、保健師や訪問看護などによる支援も取り入れながら、根気強く取り組むこととなる。」

…という状態に立ち至るのです。

(中尾氏上掲論文より)

わが身に「濃密な治療戦略」が練られるというのも恐るべきことですが、蒐集行為に多くの時間と労力をかけてきた自分の一生の意味が、そこで鋭く問われるという、なんだか≪実存的局面≫に蒐集家は直面するわけです。そのとき、強く自分の生を肯定できるかどうか? できたらいいな…とは思いますが、こればかりはその場面にならないと分からないでしょう。

――いや、そうではありません。蒐集家はむしろこう言うべきなのです。
「このモノたちに価値があるのか無いのか、それによって私の人生の価値が決まるのではない。私の人生はこのモノたちと共にあったことによって、既に価値あるものなのだ」と。そして、「このモノたちの価値は、私の人生が既にそれを証明しているのだ」と。


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 独立した疾患としての「ためこみ」と、他の疾患に伴う「ためこみ症状」は区別される必要があります。たとえば、うつ病だと物を片付けることができなくなって、ためこみ状態を呈することがあるし、逆に躁状態において、物をバンバン買って、部屋が物だらけになることもあります。それらはうつ病や双極性障害(躁うつ病)の治療をすれば、ためこみも自然と収まるので、本来のためこみ症(過剰なためこみ欲求)とは異なります。同様に、統合失調症や認知症、ADHD等でも「ためこみ症状」を呈することがあります。

コメント

_ S.U ― 2021年10月21日 22時41分30秒

人生悩み事相談みたいになってすみませんが、「ためこみ症」と「捨てられない症」とは本質的に違うのでしょうか。
 
 「ため込み症」は自我親和的ということですが、「捨てられない症」は、捨てられたらすっきりするだろうなという期待心もあり、その上で捨てるとあとが恐いという強迫感もあり、自我異和的要素があります。2つの観念の狭間で葛藤するのは健全なのかもしれませんが、捨てる行為も捨てない行為も自分にとっては不幸で損なように思うので困ります。

_ 玉青 ― 2021年10月23日 08時27分56秒

たしかに「捨てるのが不安」な人も、結果的にためこみになってしまいますが、S.Uさんがおっしゃる通り、これは「ためこむのが好き」とは本来別物だと思います。ただ、両者が併存することはあるでしょう(むしろ、それが多数派かもしれません)。

余談ですが、ためこみ症は病的肥満と同じく、現代病の色合いが濃いですね。物をためこむ傾性も、脂肪をためこむ体質も、物資が欠乏しがちな社会においては、生存に有利に働いたはずですが、今は「たまたま」物が潤沢なために、ネガティブな様相を呈しているだけだ…というわけです。ですから、これは一概に「困ったこと」と断罪すべきではなく、「来たるべき危機の時代に備えて、大切な遺伝子を保管する器として、神が(あるいは全人類の意志が)私という個体を選択したのだ」と、大きく構えたほうが精神衛生上良いかもしれませんね。

_ S.U ― 2021年10月25日 06時41分14秒

診断ありがとうございます。これは、多くは、どうやら肥満症との併存のようですね。

 現在の「捨てられない症」にしても、子供の時に文房具やおもちゃを1つ買ってもらうにも親にいちいち頼みこんだ世代の人は、そうそう態度を切り替えることはできないでしょうから、肥満症と重なる部分はあるように思います。 

 あと、「モノ信仰」というのもあると思いますが、「何でもかんでもフェティシズム(原子・物質フェティシズム?)」というような症状の方もいるのでしょうか。私にはなんとなくありそうに思います。

_ 玉青 ― 2021年10月27日 22時38分22秒

物質フェチですか。特定のモノに執着する人は多いですが、物質(あるいは物質の物質性)全般に執着するというのは奇抜ですね。でも、「俺は形ある物だけを愛する」、「形あるものこそ全てだ」という人は確かにいるかもしれません。何となく「愛なんか信じられるか。俺が信じるのは金(かね)だけだ」という拝金主義の人を連想します。

でも突き詰めて考えると、「金」というのは愛以上に抽象的なもので、その正体は愛と同様に捉えどころがないものですよね。同様に物質というのも、原子から素粒子へ、そしてクォークへ、さらに「根源的な何か」へとさかのぼっていくと、非常に抽象的なものになってくるし、物質の物質性というのも、ずいぶんあやふやなものだという気がします。そのことに思い至ったとき、果たして件の物質フェチの人は何を思うのか…そのことが気になります。(フェティシズムからの連想で、記事を一本書きました。)

_ S.U ― 2021年10月28日 09時38分09秒

>物質全般に執着するというのは奇抜
 では、私は、創始者の一人になれるかもしれませんね(笑)。

 人文学で愛、社会学でカネに対応するものは、自然学ではエネルギーということで異存はないものと思います(←強引な主張)。物質(原子、素粒子)は、このエネルギーがある環境下で未解明の自然法則によって特定の状態に凝縮した存在の形態でありますので、フェチや拝金との馴染みは良いものと思います。

 この未解明の法則という部分が何か重要で、個人の精神が愛という抽象を求める妙趣、人間社会が汎用的な価値として金銭を求める構造が必然的であるならば、エネルギーの凝縮形態としての物質にも同様の価値と妙趣が感ぜられて然るべきと思います。

 今回も「寝言は寝て言え」の類いですので、深くお考えにならぬよう。

_ 玉青 ― 2021年10月29日 06時10分56秒

おお、S.Uさんこそ物質フェチのパイオニアだったとは!
でも、思えばそれも当然ですね。S.Uさんこそ物質を愛し、物質に憑かれ、物質を究めることを生業とされたわけですから、まことに恵まれた一生であった…と書くと、なんだかobituaryみたいですが(笑)、とにかく素晴らしいことと思います。どうかこれからも物質の神のほほ笑みが常にありますように。

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