世界はときに美しく、ときに… ― 2025年03月22日 21時42分28秒
今日は久しぶりに休日らしい休日でした。
この辺で、たまったブログの記事を書くという選択肢もあったのですが、何せ天気もいいし、家の中でキーボードを叩いているばかりでは辛気臭い…というわけで、散歩に行ってきました。別に遠出をしなくても、近所に里山が残されているのは、こういうとき本当にありがたいことです。
春本番を前に、木々は新緑の装いをする一歩手前。
この辺はだいぶ緑が濃いですが、いずれも常緑の木々です。
空はあくまでも青く、ここが街中からほど近いことをしばし忘れます。
落葉に埋もれるようにして、目の覚めるような色を見せるスミレの花。
この水場がオタマジャクシやトンボでにぎわう日も遠くありません。
★
…という具合に、気持ち良く散歩しているときに、ひどく心を傷つけられるのが、投げ捨てられたゴミです。まあ、その一部はカラスの仕業であることが、嘴でつつきまわされた痕から容易にわかるのですが、下のようなのは当然カラスの仕業ではないでしょう、
これは名古屋市の「ボランティア袋」というもので、ボランティアさんの清掃用に市が配布しているものですが、いったいなんでこんなものが投棄されているのか。
まったくわけが分かりませんが、何にせよ、もうちょっと真面目にやってほしいと思います(私も道端のごみを拾いながら歩いたので、こうやってぼやく資格はあるはずです)。
明治の竹類標本と牧野富太郎 ― 2025年02月13日 17時42分08秒
(前回のつづき)
付属の解説書は『我日本の竹類』と題されています。
製作・販売を手掛けたのは島津製作所標本部(現・京都科学)で、標本の同定を行ったのは、当時、東京帝国大学理科大学講師の地位にあった牧野富太郎(1862-1957)。
表紙に押された印によれば、この標本セットは、石川県立第一高等女学校(現・金沢二水高校)の備品だったようです。後で見るように、ここに収められた竹類は、すべて1911年に採集されたものなので、標本が作られたのも同年であり、商品として一般に販売されたのは翌1912年(明治45年)のことと思います(こう断ずるのは、牧野が東大講師に任じられたのがちょうど1912年だからです)。
(解説冊子の裏表紙)
★
各標本は一種ごとに台紙に貼られ、パラフィン紙のカバーがかかっています。
収録数は全部で42種。
No.1はマダケ。
ラベルには和名、学名、採集地、採集年が記載されていますが、採集地が旧国名になっているのが古風。42種の採集年はすべて1911年で、その採集地は、北は羽後から南は日向まで、全18か国に及んでいます(最も多いのが武蔵の16点)。
他にもいくつかサンプルを見てみます。
(No.2 カシロダケ、筑後)。
(No.7 ウンモンチク、近江)
(No.16 チゴザサ、駿河)
竹類といった場合、笹もそこに含まれるので、「〇〇ダケ」や「○○チク」ばかりでなく、このような「〇〇ザサ」の標本も当然あります。(なお、「牧野と笹」と聞くと、彼が愛妻に感謝して名付けた「スエコザサ」を連想しますが、これは昭和に入ってからのエピソードなので、この標本セットには含まれません。残念。)
竹類は基本、見た目の変化に乏しく、華やかさに欠けるのは否めませんが、一方で屋根材に使われるぐらい対腐朽性が高いので、標本はいずれもしっかりしており、中にかすかな緑色まで残っているのは、感動的ですらあります。114年間の歳月をよくぞ耐えてくれた…とねぎらいたい気分です。
★
これらの標本を見てもうひとつ気づくのは、牧野富太郎、あるいは牧野と僚友・ 柴田桂太 (1877-1949)の連名で記載された種や変種が大半を占めることです(全体の約8割は、牧野が命名に関わっています)。この“牧野色”の濃さは、この標本セットが種の同定作業のみならず、採集から標本作製まですべて牧野に委嘱して作られたものではないか…という推測を生みます。
もちろん、これは牧野が一人でせっせと標本をこしらえたことを意味しません。
当時の状況を吟味しておくと、明治末年の牧野は、1909年(明治42)の横浜植物会を皮切りに、東京植物同好会や阪神植物同好会を組織して、広く全国に植物趣味のネットワークを作り上げつつありました。そのネットワークを活用して全国から標本を集め、それを牧野と弟子たちが整理し、島津に提供したのではないか…というのが、私の想像です。
上の想像が当たっているとすれば、この標本セットは牧野の体温をじかに伝えるものとして、その点でも貴重なものと思います。
(この項おわり)
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【おまけ1】
参考までに、この標本セット全種の和名を、ラベルNo.順に挙げておきます。
マダケ、カシロダケ、キンメイチク、シボチク、ホテイチク、ハチク、ウンモンチク、クロチク、ゴマダケ、マウサウチク(モウソウチク)、キツカフチク(キッコウチク)、オカメザサ、ヤダケ、メダケ、ハコネダケ、チゴザサ、ネザサ、ケネザサ、スダレヨシ、オロシマチク、カンザンチク、タイミンチク、タウチク(トウチク)、ナリヒラダケ、ヤシヤダケ(ヤシャダケ)、カンチク、シカクダケ、クマザサ、コクマザサ、ネマガリタケ、シヤコタンチク(シャコタンチク)、メクマイザサ、チシマザサ、ツボヰザサ(ツボイザサ)、ミヤコザサ、ミヤマスズ、アヅマザサ(アズマザサ)、スズタケ、ホウワウチク(ホウオウチク)、ホウライチク、スハウチク(スホウチク)、ダイサンチク <以上42種>
【おまけ2】
この標本セットに、1枚だけ他と異質な標本が紛れ込んでいました。
百年前の女学生が作った押し葉。
そこには牧野の標本とはまた別のロマンが宿っているような気もします。
竹類標本への道…パズルを解く ― 2025年02月12日 06時17分13秒
(昨日のつづき)
問題の箇所をじっと見ているうちに、私の脳裏に突如閃くものがありました。
「ある、確かにあるぞ。「理科準備室」へと至るルートが!」
言葉で説明するのはとても難しいですが、私の方略はこうです。
「まず、人体模型のケースの脇に立っている書類入れを抜き取り、ケースをわずかに横に動かす。するとケースを前方に動かす余地が生まれる。その状態でケースを前方に精一杯引き出し、すぐ脇のスライド書棚の棚を横に動かすんだ。そこにできたわずかな隙間に身体をねじ込めば、「理科準備室」の扉の前に到達できるはず…」
こう書いても何のことやらですが、要は「箱入り娘」の脱出パズルのように、ピースを順番に動かしていくと、そこに活路が開けそうだ…ということです。
私はジョジョに出てくる「柱の男」サンタナのように、奇怪なポーズでその隙間に潜り込み、身体を精一杯細くすることで、ついに目的を果たすことができたのでした。
人間、この偉大なるものよ。
★
どうでもいいことに字数を費やしましたが、それだけ私は嬉しく、また自分の才知を誇りに思ったのです。そしてまた、その成果は十分にあったので、どうかつまらない自慢話もご寛恕いただければと思います。
★
さて、発掘された竹類標本というのがこれです。
全体は41.5×35×12cmという、かなり大きな木箱に入っています。
肝心の中身を以下に見てみます。
(この項さらにつづく)
竹類標本のはなし ― 2025年02月11日 16時03分58秒
竹類図譜の話題につづいて、「わが家に竹類図譜はないけれど、実物標本ならあるぞ」という話題を書こうと思いました。こんな折でもなければ、話題に上ることのない至極マイナーな品ですから、ちょうど良い機会だと思ったのです。
でも、それがあるはずの場所をいくら探しても見つからず、おかしいなあ…と首をかしげました。そしてしばらく考えてから、「あ、理科準備室か」と思い出しました。
「理科準備室」というのは、自室からあふれた理系古物をしまっておくためのスペースです。私の部屋が「理科室風書斎」なら、その予備スペースは「理科準備室」だろう…というわけですが、「室」といっても、別にそういう独立した部屋があるわけではありません。部屋に作りつけのクローゼットをそう呼んでいるだけのことです。
しかし、そこからモノを取り出すのは容易なことではありません。
人体模型のケースの奥が、普通の壁ではなく木製の扉になっているのが見えるでしょうか。これが即ち「理科準備室」の扉です。
この扉を開けるのがどれだけ大変か、それは部屋の主である私自身がよく知っています(昔は開ける方法がありましたが、今は人体模型のケースの前も横も、びっしりモノが並んでいるので、それをどかすことから始めなければなりません)。「遠くて近いは男女の仲、近くて遠いは田舎の道」と言いますが、この扉の向こうも、たしかに「近くて遠い」場所の典型で、そこに至る労力を考えたら、毎日電車に乗って通う職場の方が、自分にとってはよっぽど近いです。
★
日本は竹の国ですから、竹ばかり集めた標本セットというのが、かつて理科教材として売られていました(今でもあるかもしれません)。
例えば、昭和13年(1938)発行の『理化学器械、博物学標本目録』(前川合名会社)を開いてみると、
植物学標本の通番83に「竹類標本…30種…ボール箱入」というのが見えます。その脇の数字は価格で、小型台紙(195×270mm)を使ったセットが3円60銭、その倍大の大型台紙(270×390mm)に貼付したセットが5円50銭となっています。このカタログが出た昭和13年(1938)は、小学校の先生の初任給が50円の時代なので、今だと1万5千円とか2万円ぐらいに相当するでしょう。
ちなみに、この「竹類標本」はタケ科植物のふつうの押し葉標本ですが、竹の幹というか茎というか、要するにいろいろな種類の竹筒を並べた「竹材標本」というのが別にあって、そちらは30種入りで15円と、一層高価なものでした。
(通番164~166を参照)
★
「至極マイナーな品とはいえ、手元の標本はたしか明治期に遡るもので、島津製だったはず。となると、これは思いのほか貴重な品かもしれんぞ。何とかそれを取り出す方法はないだろうか?」…と「理科準備室」の扉をじっと凝視しているうちに、はたと気づきました。
(些細な話題で引っぱって恐縮ですが、この項つづく)
たけのこの里はかく生まれた ― 2025年02月09日 11時37分10秒
(昨日のつづき)
富士竹類植物園が発行した『富士竹類植物園案内』(1964)という冊子があります。
内容は単なる施設案内ではなく、主眼は主にタケ類の分類基準と、同園で栽培されている主要種の解説なので、それ自体がコンサイスな竹類図譜といえるものです。
ちなみに、タイトルの下に「邦文篇」とあるのは、それに先立って『Guide Book of the Fuji Bamboo Garden』という英文篇(上の写真右)が1963年に出ているからです(日本語と英語の違いだけで内容は同じです)。
(邦文篇より「肩毛の種々」説明図)
(英文ガイドブックより。右はゴテンバザサの図)
邦文篇より先に英文篇が出ているところに、この植物園の本気具合というか、世界のタケ類学を我らがリードせんという気概を感じます。
★
さて、この冊子の冒頭に「1 富士竹類植物園の概略」という章が設けられているので、以下に抜粋します(太字は引用者)。
「日本は世界第一の竹の国である。〔…〕竹笹は著しく変化性に富んでいるので、鑑別が困難で多くの学者を悩ましている。〔…〕生物、ことに竹類の応用面の研究は、まず、すでに名づけられた名称を知り、多くの学者によって研究された特性を十分に理解し、それぞれの特徴を生かして日常生活に利用するのでなければ進歩がない。上のようなことを実現するためには生品を一か所に集めて比較研究する必要が痛感される。
この現状に着目された当園園主、前島麗祈先生夫妻は、日本の変動期にある今日、タケ科のあらゆる種類や古い園芸的品種が絶滅しないうちに、一か所に集めて子孫に引き継ぐ責任のあることに注目され、その一環として、竹笹の専門植物園の施設のない現状を嘆かれて富士竹類植物園の誕生になった。
〔…〕
日本の過去及び現在において、このような収益を度外視した学術的資料の蒐集に莫大な私財を投げ出した例は残念ながら余りみられないが、続々と日本の特産の動、植物の専門蒐集と研究に、財閥のご援助を願う先鞭となることと信じ、文字通り楽しい文化国家の建設される日を期待している。」(pp.1-3)
この現状に着目された当園園主、前島麗祈先生夫妻は、日本の変動期にある今日、タケ科のあらゆる種類や古い園芸的品種が絶滅しないうちに、一か所に集めて子孫に引き継ぐ責任のあることに注目され、その一環として、竹笹の専門植物園の施設のない現状を嘆かれて富士竹類植物園の誕生になった。
〔…〕
日本の過去及び現在において、このような収益を度外視した学術的資料の蒐集に莫大な私財を投げ出した例は残念ながら余りみられないが、続々と日本の特産の動、植物の専門蒐集と研究に、財閥のご援助を願う先鞭となることと信じ、文字通り楽しい文化国家の建設される日を期待している。」(pp.1-3)
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創設者、前島麗祈(まえしまれいき、1893-1971)は、神道系新宗教「自然真道(しぜんしんとう、本部は御殿場)」の教祖です。『新宗教辞典』(松野純孝・編、東京堂出版)を参照すると。前島は元々天理教の信者でしたが、後に天理教と袂を分かち、終戦直後の1946年、「宇宙根本実在の神霊」を奉斎する独自の自然真道を組織し、1954年に宗教法人認可を得た、とあります。
国会図書館には彼の著書として、『麗しき祈り』(1956)と『禍を仕合せに』(1957第2版)の2冊が収蔵されており、その内容は利用者登録をすれば、個人送信サービスですぐに読めますが、その説くところ、信者の方には失礼ながら、どうも通俗道徳と因果応報思想を適当に突きまぜたもの…と私には見えます。(例えば、『禍を仕合せに』の章題を挙げると、「鶏の玉子 白痴など」「不具の子は親の罪?」「小人の徳さん」「子守の芳チヤン」「愛嬢の発狂」「六本指のG」「丈夫な片輪者」「鬼より怖い」「四人馬鹿」…と続き、その内容は差別用語のオンパレードで、ちょっと引用に堪えないです。)
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そういう宗教家の発願で始まった富士竹類植物園ですが、園の活動自体は別に宗教色を帯びているわけでも何でもなく、純粋に植物学的なそれでしたから、その辺のことに触れると変なノイズが生じかねないという配慮から、前島の事績は今ではあまり表に出てこないのではないか…というのが私の推測です。
(昭和50年代頃の発行とおぼしい同園の絵葉書。5枚セット)
実際、富士竹類植物園の運営は、開設直後から前島の手を離れ、専門の植物学者の手にゆだねられていました。「富士竹類植物園報告」第16号(1971)には、京大名誉教授(当時は京都産業大学教授)で、タケ類を専門とした上田弘一郎氏による「前島麗祈先生の功績と富士竹類植物園」という一文が載っており(pp.43-44)、開設当時の事情が以下のように書かれています。
「竹類園をおつくりになるに当って、先生ご夫妻が拙宅へおこしになって、「自分は妻と一心同体、竹が好きだ。竹は日本を代表する貴重な存在である。これを自分のところに集め、育てて、海外にも日本という国を理解させる資料にしたい。ついては、なんとかできるだけ多くの種類の竹苗を分けてほしい」と、熱心に頼まれたのです。私はこの情熱に感銘して、すぐ京都府立植物園長の麓さんに相談し、同植物園にある分と、京都大学上賀茂試験地に植えてあるのを加えて、お送りしたのであります。
なお、このとき先生は、「自分の竹類園の管理に適当なかたを推薦してほしい」と言われたので、現在の園長、室井さんを推薦申し上げた次第であります。あとで前島先生が私に「あなたは富士竹類植物園の産みの親です。今後ともよろしく頼みます」と申されたに対し、私は「前島先生こそ竹類園のたいせつな産みの親です。どうかご自愛をお願いします」と申し上げました。その後は室井さんに任せきりで、まことに申しわけないのですが、設立当初のことを思い出すたびに感無量であります。」(p.43)
なお、このとき先生は、「自分の竹類園の管理に適当なかたを推薦してほしい」と言われたので、現在の園長、室井さんを推薦申し上げた次第であります。あとで前島先生が私に「あなたは富士竹類植物園の産みの親です。今後ともよろしく頼みます」と申されたに対し、私は「前島先生こそ竹類園のたいせつな産みの親です。どうかご自愛をお願いします」と申し上げました。その後は室井さんに任せきりで、まことに申しわけないのですが、設立当初のことを思い出すたびに感無量であります。」(p.43)
文中に出てくる「室井さん」とは、同植物園の初代園長をつとめた室井 綽(むろい ひろし、1914-2012)氏のことで、やはりタケ類を専門とした植物学者です(ちなみに、氏は盛岡高等農林を1938年に卒業した方で、賢治の20年後輩になります)。
★
以上のことだけだと、「へえ、そうなんだね」で終わってしまいますが、私が前島と富士竹類植物園の関係を知ったとき、ただちに連想したのは、三五教(以下、アナナイ教)と山本一清のことです。
アナナイ教は大本教の分派で、やはり戦後の1949年に創始された神道系新宗教です。「天文 即 宗教」を説くこの教団は、各地に天文台を建設し、天文学者の山本一清がそこに深くコミットしていたという話や、岩手県北上市に建設された天文台は、幼き日の鴨沢祐仁氏に深い印象を残し、後年、作中に「アナナイ天文台」が登場するに至った(「流れ星整備工場」)…といった話題は、以前どこかに書きました。
新宗教系の団体は、往々にして出版社を起こしたり、美術館を開設したり、ハイカルチャー志向の動きを見せましたが、そうした中に科学との接点を求める動きもあったような気がします。自然真道やアナナイ教に限らず、探せば類例はもっとあるでしょう。
一体それはどういう心意によるものか?
話をそこまで広げると私の手には余りますが、でもそういう論考があれば、いつか読んでみたいです(「新新宗教」に関しては、沼田健哉氏の『宗教と科学のネオパラダイム: 新新宗教を中心として』(創元社、1995)という本がパッと出てきました)。
(この項おわり)
たけのこの里を訪ねて ― 2025年02月08日 11時25分02秒
博物趣味…ともちょっと違うかもしれませんが、気になったことを書きます。
★
話は昨年の暮れに遡ります。
暮れも暮れ、大みそかの日に、きのこの図譜の話題を書きました。
そしてきのこのライバルはたけのこですから、今度はたけのこの図譜が気になりだしました。まあ、「たけのこの図譜」というのは無いので、竹類、すなわちタケとササの図譜を探したわけです。
調べてみると、竹類図譜の中では、大正3年(1914)に出た『坪井竹類図譜』というのが、今も王者の位にあるようでした。これは「竹林王」の異名をとった坪井伊助(1843-1925)がその生涯をかけてまとめ上げた、100枚余りの彩色図版から成る図譜です。昭和52年(1977)には、有明書房から復刻版も出ました。
博物趣味の盛んだった19世紀のヨーロッパでも、そもそも竹類が分布しない地の利の乏しさはいかんともしがたく、散発的な報告があるのみで、竹笹類のモノグラフはついぞ現れませんでした(と断言するのも危険ですが、管見の範囲では目に入りませんでした)。ですから、『坪井竹類図譜』は、世界的にも貴重な図譜ということになります。
とはいえ、ふとした出来心から話題にするためだけに、ウン万円もする大部な古書を買うのは、さすがに酔狂が過ぎるので、この件はいったん沙汰止みになったのでした。
★
しかし、その過程で別のことが気になりだしました。
竹類の図譜を探していると、「富士竹類植物園報告」というタケ類に関する報文集がやたらとヒットするのです。
同園は今も盛業中です。
静岡県駿東郡長泉(ながいずみ)町に所在し、電車だと三島駅が最寄り駅で、そこからタクシーで20分だと案内にはあります。
研究資料館をも併設した立派な植物園で、サイトに書かれた「日本唯一の竹の植物園」の名に恥じません。いや、それどころか、その後取り寄せた手元のリーフレットには、「世界唯一の竹の植物園」だとあります。
(このリーフレット自体は昭和後期のものと思います。入園料大人300円とありますが、現在は500円)
私が気になったのは、この立派な施設の成立事情が公式サイトのどこにも書かれていない(開設年すら記述がない)ことです。この手の施設のサイトには、必ず「About Us」の項目があって、「History」のページがあるのが普通でしょうが、そうしたページが一切ないのが、ちょっと不思議な感じです。
上のリーフレットには、辛うじて「本園は昭和26年に竹の蒐集が始まり、以来竹の研究も行い、「日本竹笹の会」と言う研究機関を設け多くの人に利用されています。」という一文がありましたが、それにしてもどういう経緯で設立されたのか、開設者は誰なのか、そうしたことは一切分からないのでした。
★
でも、これは少し調べたら分かりました。
そして、そのことがあまり表に出てこない理由もぼんやり見えたような気がするので、そのことを少し書き付けておきます。
(この項つづく)
へびつかい些談(2) ― 2025年01月03日 10時16分26秒
星座絵で蛇遣いが抱えているのは、ニシキヘビみたいな大蛇ですが、そもそもヨーロッパに大蛇はいないんじゃないでしょうか。
アスクレピオスの蛇のモデルとされるのが、ヨーロッパ原産のZamenis longissimus、英名Aesculapian snakeで、和名のクスシヘビ(薬師蛇)もアスクレピオスにちなんだ訳語です。
(クスシヘビ。荒俣宏『世界大博物図鑑』第3巻「両生・爬虫類」編より)
属レベルで異なるものの、日本のシマヘビやアオダイショウと同じナミヘビ科に属します。体長は大きいもので2mちょっと、普通は1.1~1.6mぐらいだそうなので、「大蛇」という感じでは全然ないですね(それでもヨーロッパでは最大のヘビだそうです)。
(ローマ時代のAD150年頃、より古いギリシャ彫刻を模して作られたファルネーゼ天球儀【参考LINK】の18世紀における模写図より。出典:Ian Ridpath’s Star Tales: The Farnese Atlas celestial globe)
現存する最古の天球儀、「ファルネーゼ天球儀」に刻まれた蛇も、まあ大きいといえば大きいですが、それほど大蛇感はありません。
(紀元前3世紀のアラトスが著した『天象詩(Phaenomena)』のラテン語訳註解を書写した、通称「ライデン・アラテア」(複製)より)
上の9世紀の古写本に描かれた蛇もずいぶん細くて、ある意味リアルな描写だと思いますが、当時のヨーロッパの人がイメージするヘビは、まあこんなものでしょう。
16世紀以降、へび座が大蛇化したのは、大航海時代を迎えて、ヨーロッパの人が実際に大蛇に触れる機会が増えたからかもしれません。
…というような、どうでもいい話を枕に、次回は本題である蛇遣いとアスクレピオスの関係について考えてみます。
(この項、さらに続く)
辰から巳へ ― 2025年01月01日 09時18分33秒
年末はきのこ ― 2024年12月31日 11時14分57秒
年を経るごとにだんだんいい加減になってきているものの、年の暮れともなれば、やっぱり大掃除をしないと落ち着きません。というか、「大掃除のときにやろう」と先送りしていた課題が山積みで、いよいよやらざるを得ないというのが実情です。
★
とはいえ、忙中おのずから閑あり。
大掃除の合間に、師走の町でのんびり古本を探す折もあります。最近、動植物などの博物系の本を買うことが少なかったですが、のんびり気分にはのんびりした本がいいと思って、一冊のキノコの本を買いました。
『岡山県菌類方言図譜』。
和本仕立てで、それだけでものんびりした感じですが、中身がまた「ガリ版手彩色」という素朴な印刷で、一層のんびり感を掻き立てます。
本書はその名の通り、岡山県内における、各種キノコの地方的呼称を図入りで類纂したものです。図は原則としてすべて実物大、そこに淡彩を施し、きのこの名称を添えていますが、昔は食用キノコにしても、村々の狭い生活圏の中で流通が完結していたのか、岡山県の中でも、その名称は実に多様です。上の右図では、「マツタケモドキ(赤磐郡葛富村)」、「シバタケ(岡山市)」、「オバサン、マッタケノオバサン(久米郡加美村)」という4つの名を挙げています。
上の図は堂々とした、いかにも人目につきやすいキノコですが、
村人たちは、このように地味なキノコにも目を留めて、名を与えていました。ただ、和気郡伊里(いり)村の人は、いずれも「モトヨセダケ(モトヨセタケ)」と同じ名で呼んでいたものの、これはどうみても違う種類だろう…ということで、著者は別図で紹介しています(他にも同名異種のものがいくつかあって、これらもすべて別図に描かれています)。
★
さて、本書の書誌と成立事情です。
奥付を見ると、発行は昭和8年(1933)12月、著作者は桂又三郎、発行・印刷所は中国民俗学会となっています。住所は同じなので、同学会を主宰していたのが桂又三郎であり、その自宅に事務局を置いていたのでしょう。
桂又三郎(1901—1986)は、国会図書館のデータベースによると、昭和初年から岡山県の方言と民俗に関する著作を次々と発表し、当初はもっぱら岡山県の郷土史家として活動していましたが、その後、備前焼の研究に進み、戦後は備前焼をはじめとする古陶研究家として知られた人です。
(ワタリウム美術館(編)・萩原博光(解説)『南方熊楠菌類図譜』新潮社、2007)
民俗学と菌類といえば南方熊楠(1867—1941)を連想する方も多いでしょうが、桂もまた熊楠同様マルチな人で、『岡山県菌類方言図譜』も、彼のマルチな関心の中で生まれた著作なのだと思います。
(本書所収のキノコの図はすべて著者が実物からスケッチしたもので、一部は断面図を付しています)
ただ、熊楠ほど桂の関心は菌類そのものに向かわなかったようで、その記載が生物学的に不十分なのは惜しまれます(序文には「学名或は標準和名を附すべきであるが、之は専門家の鑑定によらざれば危険なるため、後日別冊として提供することにした」という断り書きがあります)。
★
それにしても、本書を手にし、桂のような人の存在を知ると、戦前の民俗学―すなわち柳田国男(1875-1962)がいうところの「郷土研究」が、地方の有為な人々をどれほど魅了し、いかに多くの知的エネルギーがそこに注ぎ込まれたか、改めて実感されます。野尻抱影(1885-1977)の星の和名採集が、短期間であれほどの成果を挙げたのも、当時の郷土研究熱なくしては考えられません。
序文には「和気郡伊里村の資料は全部正宗敦夫先生の厚意によるものである」とあります。正宗敦夫(1881-1958)は、作家・正宗白鳥の実弟で、国文学者・歌人として知られた人ですが、この頃はやっぱり民俗熱に当てられていたのでしょうか。
★
本書は1種=1図=1頁の構成で、全60図を収めています。
それらを1枚1枚眺めていると、やっぱりのんびりした気がします。
なんとなく江戸時代の本草書を見ているようで、そこがまた実にいいと思いました。
朝顔と彦星 ― 2024年10月20日 09時26分20秒
ちょっと箸休めです。
今朝、露地に朝顔が咲いていました。
特に植えた記憶はないのですが、野生化して毎年実生で勝手に生えてきます。
さらにその隣には桔梗も一輪咲いていました。
こちらは2年前に植えたものが、うまく根付きました。
朝顔はその種子が下剤になるというので、平安時代に薬用植物として渡来し、以後「あさがお」といえば、このヒルガオ科の可憐な花を指すようになりましたが、それ以前、万葉集に出てくる「あさがお」は、今の桔梗ないし槿(むくげ)を指すと、ものの本には書かれています。
こうして新旧の「あさがお」が並んで咲いているのは、興の深いことと思いました。
★
ときに朝顔は上のような次第で、最初は「あさがお」と呼ばれず、漢名で「牽牛」と呼ばれたと聞きます(薬品名としては、「牽牛の種」の意味で「牽牛子(けんごし)」)。
この名は七夕の牽牛(彦星)と関係があるのかないのか?
今のように温暖化する前は、朝顔はたしかに旧暦の七夕の時期(おおむね8月頃)に咲いたので、そこに結びつきを感じるのは自然なことで、実際「そういう説もある」みたいなふわっとした記述もネット上では散見されます。
まあ無責任な伝聞や噂話の類はとりあえず脇に置いて、ちゃんと典拠を示して解説されているページがあったので、ようやく合点がいきました。
■ほーほの落穂ひろい:アサガオの別名
著者hoch氏によれば、平安時代の『倭名類聚抄』にその記述があり、もとの漢文を読み下すと「陶隠居本草に牽牛子と云う。此田舎に出て凡人之を取る。牛を牽いて薬に易(か)う。故に以って之を名づく」とあり、ここに出てくる「陶隠居本草」とは、中国六朝時代の陶弘景(456-536)が著した『本草集注』〔神農本草経集注/集注本草〕である由。
つまり、中国の古い医書ないし本草書に、名前の由来とともに出てくるのが大元で、朝顔が貴重だった時代、牛を引っ張って行って、それと換えるほど高価だったから…というのが、その由来のようです。
結局、ともに「牛を牽(ひ)く」という共通点はあるものの、七夕の牽牛と植物の牽牛の間に直接の関係はない…というのが話の結論です。
(他人のふんどしばかりでもいけませんので、江戸時代に編まれた貝原益軒の『大和本草』からも該当箇所を挙げておきます。ただし、ここに牽牛の由来はありませんでした。出典:中村学園大学・貝原益軒アーカイブ)
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なお、hoch氏の考証は、“「けんごし」は元々「牽牛子」ではなく「牽午子」ではなかったろうか?”という仮説を追及されるためのものでしたが、牛黄(ごおう)、牛頭天王(ごずてんのう)等、牛を「ご」と読む例はあるので、「牽牛子」もそれと同類かもしれません。
でも、ここでさらに「うし(牛)」と「うま(午)」は、なんで漢字がそっくりなんだろう?という疑問が湧きます。字書によれば、「牛」は角を生やしたウシの頭部を、「午」は「杵」の元字で、本来「きね」の形を表す、いずれも象形文字だそうです。
十二支は本来動物とは無関係に生まれた概念で、そこに牛やら馬やら鼠やらを当てはめたのはかなり時代が下ってからのことなので、「牛(うし)」と「午(うま)」が似ているのも、これまた偶然といえば偶然です。
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