磯遊びの思い出… P.H.ゴス、『海辺の一年』(2)2011年04月09日 19時21分35秒



何だか半月ぶりぐらいに記事を書くような気がします。
この1週間は、時間の感覚が明らかにいつもと違っていました。

   ★

さて、偉大な博物学者、フィリップ・ヘンリー・ゴス(1810-1888)。
この19世紀に生れ、19世紀に死んだ人物のことを書こうとして思い出したのが、下の本。

リン・L.メリル著、大橋洋一ほか訳
  『博物学のロマンス』
  国文社、2004

この本は全10章から成りますが、そのうちの第8章がまるまるゴスに当てられています(そもそもこの本の題名は、ゴスが書いた同名の本から採っています)。

で、この本を久しぶりに読んだのですが、以前読んだ時も不思議な気がして、今回もまた不思議な気がしました。

なぜか。それは著者のメリルが、博物学に不思議な地位を与えているからです。
著者は、博物学(ここではヴィクトリア朝の博物学に限定)は、科学ではないと断じています。たしかに科学と扱う題材はかぶるものの、その姿勢において、博物学は科学(ハードサイエンス)とは対立するものだ…と著者は言います。

著者の主張を私なりに箇条書きすれば、こういうことだと思います。
●博物学は、科学と文学という2つのコンテクストに位置づけられる。
●博物学の中心にあるのは、「感覚的(特に視覚的な)喜び」と「情緒」であり、その点で博物学は文学に接近し、他方それは「事実」を重んずる点で科学に接近する。
●とはいえ、博物学は科学のまがい物でもなければ、二流の文学でもない。博物学はそれ自体独自の価値を持つ存在である。

分かるような気もするし、やっぱり分からない気もします。
いずれにしても、博物学を素朴に科学の一分科と信じて疑わずにいた私の頭は、こうした主張を知って、かなり混乱しました。

著者によれば、顕微鏡と標本のつまったキャビネット ― 私が理科趣味の至高のシンボルと考えるもの ― こそ博物学の「見る喜び」を体現するもので、実はすぐれて文学的な存在なのだ…と言うのですから、混乱して当り前です。(ちなみに、メリルは、ヴィクトリア朝文学の視覚優位の性格を、本書の中で繰り返し論じています。)

でも、「理科趣味」と「理科‘室’趣味」は違うかもしれない…ということは、このブログでも繰り返し書いているので、そのことと<科学vs.博物学>の対立は、ちょっとかぶっているのかもしれません。

   ★

前置きが長くなりました。ゴスについて話を続けます。
メリルによれば、現在、ゴスは主に2つの顔によって知られていると言います。
1つは、息子(詩人のエドマンド・ゴス)を、偏頗な宗教教育で縛り上げた悪しき父親としての顔。もう1つは、進化論に対して真剣な ― それだけに滑稽な ― 反論の書『オンパロス』を著した奇人としての顔です。ゴスは、聖書解釈に関しては、ごりごりの教条主義者だったわけです。

「オンパロス」とは、ギリシャ語で「へそ」という意味。ゴスはアダムのへそに注目し、子宮から生まれたのではないアダムにもへそがあるのは、神の有する出産過程に関する「観念」に由来するのだと主張しました。そして、化石というのも、実際にそういう生物がかつていた訳ではなく、天地創造以前の出来事に関する神の「観念」に基づくものであり、天地創造と「同時に」作られたのだと論じました。

この奇説は、さすがに同時代の人にも受け入れ困難で、『オンパロス』はゴスが名声を失うきっかけともなりました。一種のトンデモ本ですね。

しかし、この二つの面はともに〔…〕ゴスの本当の姿を伝えていない。ゴスは、なにをおいても優秀な博物学者であり、自然の細部を綿密に観察し、その姿を多くの本を通じて何千というヴィクトリア朝のひとびとに伝え、彼らを熱狂的な読者に仕立て上げた仲介者的人物である。」(邦訳298ページ)

そう、公平に見た場合、たしかに彼は偉大な人物ではあったのです。
そして、彼のライフスタイルを一瞥すると、現代のナチュラリストや、理科室趣味の徒にとっても、ある種の理想的な姿に思えてきます。

根っからの博物学者であったゴスは、標本採集の道具に取り囲まれているときがもっとも幸福だった。銃や網、ハンマー、やっとこ、ドレッジのどれでもよい。こうした採集道具を手にした彼は、勇んで出かけて行ってはコレクションを増やしていく。彼は標本を「固定」し昆虫をピンで止めたり、広口瓶、平鉢、水槽〔アクアリウム〕のなかで海洋生物を飼育することの達人であった。なんと言っても、水槽は彼の発明品である。彼の家は魚飼育用の水槽、植物栽培容器、瓶、昆虫用キャビネット、星座を眺めるための望遠鏡や動物を調べるための顕微鏡などでごったがえしていた。

〔…〕旅行ばかりしていた若い時も、後年定住した生活を送るようになってからも、彼は自分がもっとも大事にしていた所有物のひとつ ― 自分で考案した昆虫用キャビネット ― をけっして手放そうとはしなかった。これはハンブルクで、彼の細かな指示にしたがって念入りに作られ、ニューファンドランドの彼のもとへと搬送されたものである。かなりがたがきていた代物ではあったが、細かく区分けされた小室をたくさんもつこのキャビネットに、ゴスは昆虫をつぎつぎとピンで止めキャビネットを「飾り」たて、船で行こうと列車で行こうと、それをたえず傍に置いていた。」(同303‐304ページ)

自然を眺め、新しい発見をし、あらん限りのものを集める。
彼はそうした作業に熱中し、その大家となり、その喜びを人にも伝えたのでした。退屈を知らない人生だったと言えそうです。それに、彼は顕微鏡だけでなく、望遠鏡で星を眺めることもしていたのですから、このブログにとっても偉大な先達です。

しかし、そこから果して何が生み出されたのか?…と考えると、はなはだ心もとない。
その「発見」にしても、所詮はクローズドな世界での発見であり、蛸壺的なフィールドをいっそう豊饒にするにとどまった…というのが、博物学と科学を分ける分水嶺だったのでしょう。メリルの博物学擁護論は傾聴に値するにしても、やはりどこか仇花的な感じは否めない。

   ★

久しぶりに記事を書いたら、妙に冗長になりました。
結局、『海辺の一年』のことは全然書かないまま、話が終ってしまってなんですが(ヒドイ…)、とりあえず画像だけ貼っておきます。博物画家としてのゴスの鮮やかな手並みをご覧下さい。これだけ自然を凝視しつづけたら、確かに退屈はしなかったはず。彼にかかれば、地味なフナムシだって、とたんに驚異に満ちた存在と化すのですから…



コメント

_ 日本文化昆虫学研究所 ― 2011年04月10日 00時42分43秒

こんばんは.わたしのまわりでも,博物学は科学かどうかというはなしをときどき耳にします,わたしも博物学はそれ自体が独自の価値をもつもので,科学とは異なるものだと思います.しかしながら,博物学でえられた知見は,往々にして科学に活かされることが多く,博物学と科学とはきってもきれない関係にあると考えています.

_ S.U ― 2011年04月10日 07時40分52秒

>博物学(ここではヴィクトリア朝の博物学に限定)は、科学ではない
 これは味わい深い言葉だと思います。記載すること自体に究極の価値があるということでしょうか。その後に概念的な帰結が要求されるのが「科学」なら「そんなのくそくらえ」ということであれば頼もしいです。

 一方、原子核実験物理学の創始者アーネスト・ラザフォード(1871-1937)に、
「物理学以外の科学は切手収集である」
ということばがあります。物理学以外の科学者が聞くと気分を悪くされると心配しますが、物理学だけが物質界の根本原理に到達できる、というラザフォードの素直な信念を表したものと考えます。 また、原文は、
"All science is either physics or stamp collecting."
http://en.wikiquote.org/wiki/Ernest_Rutherford
だそうですので、「切手収集」も「科学」の主要部分である、と主張していることになります。ここにも深い意味があるのでしょうか。良く取れば、自然を謙虚に記載することは、ラザフォードが一生を捧げた「実験的科学」であるという共感があったのかもしれません。その後の原子核物理の発展は、記載に始まるそのあらゆる帰結を持って、この問題を論じる典型的な例となりました。

_ 玉青 ― 2011年04月10日 19時30分40秒

○日文昆さま

この問題については、日文昆さんのご意見を是非うかがいたいですね。

日文昆さんのまわりの方は、やはり昆虫学関係の方かと思いますが、かつての昆虫少年が学問としての昆虫学を志す時に、やはり上の記事で書いたような「博物学と科学を分ける分水嶺」を越える瞬間があるんではないか?…と感じています。(私には「昆虫少年と博物学」、「昆虫学と科学」が、それぞれパラレルなものと感じられます。)

実際のところはどうか知りませんが、昆虫学の研究者の中には、元・昆虫少年は昆虫学に向かないと明言する人もいるらしく、奥本大三郎さんは、そのことをエッセーの中で怒っていました。でも、私はその研究者の言い分にも一理ある気がします。純粋に分類学だけで立っていけるのであればともかく、本来の科学を志向するのであれば、昆虫少年の心だけでは、たぶんやっていけない局面が必ず訪れる…そんな気がします。
(電気少年や化学少年の場合は、そういう葛藤が少ないと思うので、これは昆虫という対象にかなり特徴的なものではないでしょうか。)

昆虫少年は、それまでのアイデンティティを組み換えて、新しい研究者としてのアイデンティティを獲得しなければならない…それは一種の「蛹」の時期とも言えますが、そうしたアイデンティティの危機を乗り越えて進む必要があるのではないか?というのが、私の推測です。どうでしょう、日文昆さんや周囲の方は、そういう葛藤を経験されたことはおありでしょうか?

○S.Uさま

>物理学以外の科学者が聞くと気分を悪くされると心配しますが

ラザフォードの言、その意気やよし。
でも、やっぱり他の分野の方は怒るでしょうね(笑)。

メリルの本にも、博物学を切手収集にたとえるくだりがあって、最初、記事の中でそれを書こうと思いました。でも切手収集家の方が気分を悪くされるといけないので、やめました。どうも切手収集というのは悪い喩えに使われることが多いですね。

ところで、
①多様性に注目する。
さらに、
②多様性の背後に働いている統一的な原理を探る。

これは現代科学に限らず、古代の哲学でも、宗教でも、人間の知の営みの本質的な部分だという気がします。切手収集や、狭義の博物学の評判が悪いのは、①のフェーズだけにとどまって、②に進まないからからでしょう。おそらく、①だけならば、あまり高度な精神活動は必要ない、という暗黙の前提もあるのでしょう(「珍しいもんを集めてくるだけなら、カラスでも犬でもやりよるで」というわけです)。

ただ、話として整理すれば上のように単純ですが、実地に即して考えると、やっぱり博物学と科学をそうスッパリと切り分けることはできないですね(物理学と他の科学も?)。素人の「博物趣味」に話を限定しても、やはり依然として科学と連続するものがあることは否定できません。

うーむ…(腕組み)…
ひょっとしたら、「科学とは何か?」「科学と科学でないものを分ける境界はどこか?」を考えるよりも、人間のあらゆる精神活動は、多かれ少なかれ「科学性」を備えた「科学的営為スペクトラム」であり、そこには単に科学性の濃淡の差があるだけだ…と考えた方がいいのかもしれません。(でも、それだと上記の「科学性」を「宗教性」に置き換えても話は通じるので、あんまりクリアな整理ではないかもしれません。)

_ S.U ― 2011年04月11日 08時12分57秒

>単に科学性の濃淡の差があるだけだ
 これが正解に近いかもしれませんね。地球上の生物は、それぞれの種が何らかの根本原理に従って、そのテリトリーを埋めて今日まで存続していることに間違いはないでしょう。それが、宇宙全体の法則につながっていることは生態学も物理学も同じで、ただ、途中の道筋が人間の科学性においてつかみやすいかどうかということかもしれません。(宗教性に置き換えても同じですが、分野による得手不得手は変わる可能性があります) --以上は、昨日、満開の桜を眺めて1カ月ぶりにのどかな気分になったことから考えついたので、科学的というよりは情緒的な結論です。

 ところで、ラザフォードと言えば原子核ですが、昨今日本人なら誰でも知っている「ヨウ素131」とか「セシウム137」を巡る議論は、今や完全に物質科学の枠から外に出てしまいました。しかし、人々の関心の中心は、依然として物質間(原子と人体)の相互作用にあるわけで、科学の分野の境界の線引きにどういう意味があるのか、と考えさせられます。

_ 玉青 ― 2011年04月12日 06時01分48秒

>1カ月ぶりにのどかな気分

と思ったらまた揺れたりして、なんだか大地に悪意すら感じますが、もちろん大地は天然自然の理に従っているだけで、悪意はないのでしょう。
でも、「いいや、大地に悪意はある!地の底には魔物が住んでおるのじゃ!!!」と髪を振り乱した人が出てきたら、私はこの人と、地震という現象について、どんな言葉を交わせばよいのか…。いろいろ仮想問答をしてみたら、人間の自然理解、科学、宗教というものの関係が、ほんの少し分かったような気がします。

_ S.U ― 2011年04月12日 07時29分59秒

 茨城県での余震は、実にバリエーションに富んでいて、人をおちょくっているようです。一旦収まると見せてさらに強くなったり、いきなり一発だけドスンと来たり、円を描いたり、長時間弱くフ~ラフ~ラしたり、小刻みにビ、ビ、ビ、ビ、と往復を続けたり、ランダムメニューのマッサージ機のようです。

 昔からの魔物に例えるなら、稲垣足穂の脚色で読んだ山本五郎左衛門か、スピルバーグ製作の映画で見たポルターガイストが今のところの私のイメージです。

_ 玉青 ― 2011年04月13日 06時21分48秒

揺すりまくってますね…。いったいどうなってるんでしょう。
なかなかどうして退散仕ってくれないのが、小癪ですね。
現代には、胆力の据わった者がいないせいでしょうか。
あるいは反対に、S.Uさんのように泰然としている方がいるので、向こうもムキになっているのでしょうか。

_ S.U ― 2011年04月13日 07時27分07秒

>向こうもムキ
いやあ、一昨日、昨日の連発で、少し神経衰弱と地震酔いになっています。泰然とはいきませんね。
 「何が気に入らないんだ。まあ落ち着け。」と諭せばよいのでしょうか。今や 「そんなものちっともおもしろくないぞ。いいかげんにしろ。」と怒っている人も多いと思います。

_ 玉青 ― 2011年04月13日 22時32分33秒

「もう、いい加減にしてくれ!」と言いたいところですが、
そういう懇願にまったく耳を貸さないという点で、
魔物よりも、天然自然の理の方が、いっそう手強そうですね。

_ S.U ― 2011年04月13日 23時14分21秒

>懇願にまったく耳を貸さない...天然自然の理

 そういや、ナマズという魔物が仮想された時代にあってすら、説得や懇願ではなく、むしろ「要石」で抑えるという「物理的」な手段に訴えられたことが自然にうなずけます。

_ 玉青 ― 2011年04月15日 06時04分39秒

要石! 私はすぐに要石が登場する鬼太郎のエピソードを思い出し、「そうだ!こういう時のための妖怪ポストじゃないか」と思いました。でも、すぐに妖怪に頼るのではなく、科学を駆使して「現代の要石」たる対地震の秘策を編み出せんものか…とも思いました。

たとえば、まことしやかに囁かれるロシアの地震兵器。
地震と位相のずれた波を発生せさせれば、
目指す相手を消波できるのではないか…とか。

地震や地殻の歪みエネルギーで電気を起こせば、
そもそも原発はいらないんじゃないかとか。

地震計の原理を応用して、巨大な不動点を作り出し、
そこに都市を築くとか。

あるいは、いっそ「天空の城」のような空中都市を作れば、
地震も全然こわくないぞ…とか。

いやいや、それよりも…
(比較考量するに、妖怪ポストがいちばん現実味がありますね。)

_ S.U ― 2011年04月15日 20時32分58秒

玉青さんは、妖怪やSF漫画にお詳しいようですね。私は今ひとつです。
それでも、鬼太郎なら地震にどう立ち向かうだろうかと考えると、何か良いアイデアが浮かぶかもしれませんね。

地震発電は、私もこのあいだ考えました。大きなエネルギー吸収体を築くと、地震の力で一挙に破壊されるでしょうから、小さいのを道路沿いに並べるというのはどうでしょうか。地震がない時はトラックの通過の振動で発電します。

_ 玉青 ― 2011年04月16日 10時12分31秒

鬼太郎は本来の能力を出せず、放射線の高い環境で細かい作業をこなすぐらいしか活躍の場がないかも。
「ぬりかべ」は、原子炉を遮蔽して封じ込める際に大活躍しそうです。

_ 玉青 ― 2011年04月16日 15時32分19秒

すみません、対地震の話でしたね。
つい原発に限定してしまいました。

_ 日本文化昆虫学研究所 ― 2011年05月01日 00時04分36秒

 こんばんは.諸事情によりご無沙汰しておりました.博物学と科学の件について,わたしの経験をふまえながら私見をのべさせていただきます.
 昆虫少年が昆虫学者に向かないという意見,わたしも賛成です.昆虫が好きということは研究のモチベーションにはなりますが,同時に色眼鏡で昆虫を見てしまうことでもあるので,科学的思考をもって昆虫を見ることがむつかしくなるのだと思います.つまり,昆虫が好きというのは「感情的思考」であり,「感情的思考」は「論理的思考」とは背反するものです.昆虫好きは,昆虫に対する思い入れが強く,昆虫そのものに対して「感情的思考」が優位に働きすぎて,「論理的思考」が働かないのだと思います(特に,近視眼的になりがちです).・・・というのは,わたしもの実体験です.ただし,科学実験をするにあたっては,論理的な思考だけでなく,感情的思考(たとえば,おもしろいという感覚)も必要です.問題は,何に対しておもしろいと思うかでしょう.それが,「モノ」そのものであれば「博物学的」,「知的好奇心(論理の構築等)」であれば「科学的」ということでしょうか.
 わたしは,もともとは昆虫少年であり,昆虫が好きで大学院で昆虫生態学の研究をしていましたが,論理的思考をもって研究にとりくめるようになるのには時間がかかりました.今では,昆虫に対するものの見え方というか,接し方が大きくかわってきたような気がします.現在では,昆虫少年としての純粋な昆虫に対する思い入れはうすれつつありますが,人と昆虫とのかかわりあいについて大きな関心をよせています.
 長文失礼しました.

_ 玉青 ― 2011年05月01日 21時46分21秒

ああ、なるほど!
博物学と科学の違いは、「おもしろいと思う対象が、モノか、論理(原理)か」、要するに両者は「おもしろがり方が違う」というのは、スッキリした説明ですね。頭の中が整理されて、大いに納得です。

昆虫少年が、昆虫学徒になるまでの道程も、大変興味深く拝読しました。感情的思考から論理的思考へ。そこで得るもの、失うもの。どうも一筋縄では行かないような…。いろいろな思いが去来します。

純粋な昆虫少年の心を振り捨てて、論理の世界へと踏み出した一人の昆虫学徒。老境も近付いたある日、彼は甲虫の翅のルリ色の輝きを目にした瞬間、昔の昆虫少年の心を取り戻して、虫たちと再び魂を通わせるようになった…。

ちょっとマンガチックな空想かもしれませんが、でも、きっとそういうこともあるんじゃないか、いや是非あってほしいと、ボンヤリ思ったりもします。

_ ガラクマ ― 2011年05月02日 23時19分55秒

昆虫少年が昆虫学者に向かないという意見、簡単に考えたら趣味の世界を仕事(学術的な進展を期待される)にしていいか?との話になってきます。
「感情的思考」から、物への興味を進めていくと知りたい「論理的思考」が必要になってきます。
それをイヤと思うか、必要と思うかで進路が決まってくるものと思います。

私事で恐縮ではありますが、
私は天文学者になりたくて物理学科に進みましたが、天文は趣味のものと判断しました。
息子は昆虫少年で、昆虫学者を目指しております。
娘は化学大好き少女で、薬学研究者を目指しております。
オヤジは子供の頃夢見た道を、途中で切り替えましたが、子供達は真直に進んでおります。

後悔なきよう進めれば幸せと、達観したごとく(思考停止?)の思いを持っております。

_ 玉青 ― 2011年05月03日 06時56分18秒

(ふたたび)ああ、なるほど!

少し問題を整理してみます。
日文昆さんとの間では、

○博物趣味の人(文字通りモノ好き!)は、そのままスンナリ科学研究の世界に入れないんじゃないか?

ということが話題になっていました(その具体例が、「昆虫少年は、良き昆虫学研究者たりうるか?」という問いです)。両者の行動原理は、いっぽうは感情であり、他方は論理というふうに、ある意味、水と油のようなところがあるからです。研究を進めるには、対象にべったりではダメで、冷静に距離を取らないとマズいということもあるでしょう。

今回、ガラクマさんからは、

○それはそれとして、趣味を仕事にすることの難しさもあるんじゃないか?

というご指摘をいただきました。確かにそうですね。
これは「感情→論理」の転換の難しさとは別に、より普遍的な問いとして考えることができそうです。つまり、「化学好きの人が、その方面の研究者を目指す」ような「論理→論理」の場合も、「音楽の好きな人が、プロのミュージシャンを目指す」ような「感情→感情」の場合も、「趣味を仕事にしていいか?」という問いは、常につきまとうからです。

「趣味は趣味だから楽しいので、それを仕事にしたらつまらないよ」
という意見をよく聞きます。
あるいは、「2番目に好きなことを仕事にするといい」とも言いますね。
でも、実際に趣味を仕事にして、それでイキイキと人生を送っていらっしゃる方もいて、そういう人を見るにつけ、我が人生を振り返り、深いため息をつく人も多いことでしょう。

難しいですね。実に大きな問いです。
仕事に何を求めるか、さらには、人生の目標をどこに置くか、という問いにもつながるので、人の数だけ答はあるかもしれません。

若い人には、「後悔のないよう、納得のいくまでやれ!」と言ってやりたいと思いつつ、人間は後悔の多い生き物であり、人生は短いことを考えると、つい「老婆心ながら…」の思いもよぎります。たぶん、相手の才能をどこまで買うかによって、助言内容も変わってくるのでしょう。その意味で、ガラクマ家の場合は、非常に幸福なパターンでしょうね。おふたりの将来に、ぜひ幸多からんことを!

_ S.U ― 2011年05月03日 08時12分09秒

 ガラクマさんのコメントに私も同感するところがあります。
 物理や工学を本職にする人が「天文は趣味のもの」と割り切って天文をするのは賢明な選択であると思います。でもまた、その一方で、天文を本職にしてしまっても大きな問題はないように思います。事実、本職として、物理と天文、教育と天文と二股をかけることは可能ですし、趣味で公共天文台に出入りしているうちにそこに就職して満足している人は多いのではないかと思います。仕事と趣味が同じだと苦労はありますが、私はそれは科学に限らず何でも同じではないかと思います。

 昆虫についてはわかりませんが、おそらく天文よりずっと趣味と本職の考え方のギャップが大きくて相互行き来が相当困難なのかなという印象を持ちました。昆虫分野特有の問題があるなら、それを掘り下げて分析をすると新しいことがわかるのではないか、と思います。

 物理や化学では、モノを研究しているのか、論理を研究しているのか、という区別が本質的な問題にならず、このような葛藤は起こらないはずです。「君は炭素というモノを研究しているのか、それとも炭素の論理を研究しているのか」と問い詰められることがないのは、炭素ベッタリの研究者にとってありがたいことでしょう。

_ 玉青 ― 2011年05月03日 16時06分48秒

おお、議論が熱いですね。
これはいろいろな人のご意見を、広く聞いてみたいところです。

ときに、
>物理や化学では、モノを研究しているのか、論理を研究しているのか、という区別が本質的な問題にならず
この部分、ふだんスルーされているところを、あえて問うてみるのも一興かも。

どうでしょう、この際、物理・化学もこきまぜて、
「君は○○というモノを研究しているのか、それとも○○の論理を研究しているのか」
の○○に、いろいろ入れてみるというのは? 

人間、心、宗教、ショウジョウバエ、土器、女性、酒、宇宙、社会、歴史、地球、武士、素粒子…etc. 一見、意味を成さないような問いでも、改めて考えてみると、みなそれぞれに含蓄があるような気がしてきます。

_ S.U ― 2011年05月03日 20時06分21秒

>○○に、いろいろ入れてみるというのは? 
 敢えて問いますか...
 どうも、玉青さんは私がどちらかというとスルーしたい問題に踏み込まれる傾向がありますね(笑)

人間 --モノは面白いが、はたして論理があるのか?
女性 --モノの研究はご遠慮して、論理はぼちぼちに
武士 --モノは様々だが、論理は単純?
素粒子--論理を離れて、純粋にモノとして研究できたら、さぞシュールだろうなぁ
とかですか。

_ 玉青 ― 2011年05月04日 20時20分48秒

踏み込んでしまいましたか。いや、面目ありません(笑)。
でもまあ、人がスルーしたい所には、得てして真理がひそんで
いるものです(適当)。

ちなみに、私が「君は天文古玩というモノを研究しているのか、
それとも天文古玩の論理を研究しているのか?」と聞かれたら…
「ぼくは天文古玩というモノを面白がり、天文古玩の論理を実践しているのだ」
と答えるでしょう。

_ S.U ― 2011年05月05日 16時23分49秒

モノを面白がり、論理を実践 --- 立派ですねぇ。

 逆に、モノを実践して論理を面白がっている人がいたら、ちょっと不健全ですかね?

_ 玉青 ― 2011年05月06日 15時45分31秒

どうです、立派でしょう(笑)。

>モノを実践して論理を面白がっている人

おお、「モノ」そのものと一体化し、「モノ」そのものとして生きる人ですね。
もうそうなると、健全-不健全という物差しで測るのは無理でしょう。
S.Uさんも、ぜひ素粒子と一体化して、素粒子そのものとして生きて下さい…と書こうと思ったんですが、でも考えてみたら、我々はすでに素粒子そのもの(の集合体)でしたね。

_ S.U ― 2011年05月07日 07時52分52秒

>我々はすでに素粒子そのもの
 我々の存在が素粒子のモノの実践であることは間違いないでしょうが、我々の意志が素粒子の論理の実践であるのかは永遠のテーマです。でも、それを実験的に確かめる手段についてはいまだに聞いたことがありません。

_ 玉青 ― 2011年05月07日 09時48分27秒

星を見上げるときに、いつも不思議な気がします。
はるかな時空を越えて到達した光子が、網膜の視細胞に光化学変化をもたらし、それが神経細胞表面の電位変化となって脳に達する…。ここまでは素粒子の振る舞いというか、要素還元主義で何の問題もなく説明できます。

そこから「ああ、今、私は星を見ているのだなあ」という主観的体験につなげる部分が、還元主義では、どうしてもうまくいかないですね。
まあ、たいていはここで「創発性」というタームを持ち出して、何となく分かったような気になるのですが、でもそれが「現代の生気論」以上の意味を持つのかどうか、私にはよく分かりません。

ところで、このコメントは磯遊びの記事から始まっていたんでしたね(笑)。
子どもたちは、「磯遊びをしている」という意識を一切持たずに、一日中、光と風と波とたわむれ続けることができます。たぶん、そのとき彼(彼女)は、より素粒子に近い存在としてこの世にあるんじゃないかなあ…という気がします。

どうも「我々」とか「私」という意識が生じる度に、私たちは素粒子から遠い、眼前の宇宙から切り離された(昔風にいえば疎外された)存在になってしまうのかもしれないですね。それが人間の業なのでしょう。だから修行僧は、必死になって自意識を振り捨て、世界そのものとの一体感を感得する、すなわち悟入を求めるのではありますまいか。
(ちょっと話が胡乱になりました。)

_ S.U ― 2011年05月07日 14時04分40秒

 要素還元主義は、1970年代くらいから素粒子帝国主義と揶揄され、旗色が悪くなりました。それ以来、「創発性」などという毒にも薬にもならぬものに過度に頼ることになり、見通しのたたない現代文明の病弊は深刻化するばかりです。今こそ、「素粒子のこころ」を取り戻す時ではありませんか。(新興宗教を始めるつもりはありませんので、話半分に聞いて下さい)

_ 玉青 ― 2011年05月08日 06時14分30秒

ええ、我等の合言葉は「素粒子のこころ」!
(新興宗教というより、秘密結社みたいでカッコいいですね・笑)

_ cat1516 ― 2018年02月28日 00時06分24秒

ご返事、ありがとうございます。
昔の記事のコメントばかり書いてすみません。
素粒子のお話、還元主義のお話ということで、その正反対にあるような、マクロのことなのですが、生物分野ですが、マクロ生物学の代表格の生態学も、今は独自の用語が作られていて、もはや近代科学化してしまっていると本などで知りました。一方で、博物学は独自の用語といっても、一度聞けば忘れられないような独特のリズム?や語感のあるものが多いと思います。それら全てが、決して博物学の用語ではないですが、このブログの博物学のコーナーでもしばしば登場するように、それらの語句は、「博物学的なもの」を彷彿とさせます。要するに何が言いたいのかというと、博物学の用語は、他の科学の用語と違っていて、すぐなんのことか連想しやすいということがあると僕は思います。こういうところも博物学の魅力の一つだと思います。変なことを言っていたらすみません。

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