続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(10)2013年05月07日 05時54分03秒

小石川では、「驚異の部屋」以外にも、「裏芸」系の実験的展覧会が折々開かれました。それぞれにアート色のきわめて濃いもので、西野氏の指導する博物館工学ゼミの学生さんが主体的に参加していたことから、いずれも西野氏が全面的に関与したイベントだったのでしょう。

1つは、2004年に開かれた森万里子―縄文/光の化石トランスサークル」展です(10月16日~12月19日)。
 
 「国際舞台で華々しい活躍を続ける日本人美術家森万里子とのコラボレーション展示。現代社会の「文化状況」を一身に具現する美術家が、人類先史部門の所蔵になる麻生遺跡出土縄文晩期遺品「土面」(国指定重要文化財)から強い霊感を得て、現代の先端的テクノロジーを駆使した作品を制作し、小石川分館内に仮設した。〔…〕文字通り、「アート&サイエンスの協働」の成果である」

…という内容で、何だかおどろおどろしい印象です。

もう1つは、2005年の国際協働プロジェクト―グローバル・スーク」展です(5月27日~8月28日)。

 「イタリア人建築家セルジオ・カラトローニ、ミラノ在住の服飾評論家矢島みゆき、サンパウロのカーサ・ブラジリエイラ国立美術館館長アデリア・ボルヘス、総合研究博物館西野嘉章の4 人の呼びかけにより、欧州、アフリカ、アジア、南北アメリカなど、世界各地の人々から寄せられたさまざまな人工物約300 点を観覧に供することで、人間の有する造形感覚、表現手法、価値体系がいかに多様か、その多様性を相互に認め合い、結び合う寛容さこそが、現代社会に分断をもたらしている言語、宗教、文化、人種の隔てを克服する上でいかに大切かを、視覚的かつ悟性的に理解させようとするもの。〔…〕グローバリズムとトリヴィアリズムの対立項の止揚という、優れて今日的な課題にひとつの解答を見出そうとする試み」

…という、すぐれてコンテンポラリーな、メッセージ性の強い企画で、西野氏の面目躍如たるものがあります。東大総合研究博物館という、美術プロパーでない場所でこうした企画が実現したのは、驚きを通り越して、むしろ不思議な気すらします。

   ★

そして、小石川とインターメディアテクとを架橋する展示が2010年にありました。
オーストラリアの現代美術家、ケイト・ロードを迎えたファンタスマ―ケイト・ロードの標本室」展です(11月6日~12月5日)。


 「当館では「アート&サイエンス」をテーマのひとつに掲げ、これまでにも両世界を架橋するさまざまな展覧会や、ファッションショー、演劇などのイベントに意欲的に取り組んでまいりました。〔…〕 このたびはその一環として、特別展示『ファンタスマ―ケイト・ロードの標本室』を小石川分館にて開催する運びとなりました。本展は、丸の内地区に2012年オープン予定の総合文化施設「インターメディアテク(IMT)」のプレイベントとして位置づけられています。」

 「近世の王侯貴族たちの珍品陳列室では、ドラゴンや人魚、ユニコーンの角といった架空の動物もその一部を飾っていたように、彼女が表現する「フェイク」の動物や自然物、そして空間は「驚異の部屋」本来のあり方を今に感じさせるにふさわしい創造的で魅力的な要素となります。明治期に旺盛した擬洋風建築である小石川分館の空間内に、当館が所蔵する学術標本で構成された現代版「驚異の部屋」とロードがそれに着想を得て制作したサイトスペシフィックな新作の数々を織り混ぜたインスタレーションを展開させます。「まぼろし」「幻影」を意味する「ファンタスマ」をタイトルに掲げた本展覧会は、過去と現在、学術と芸術、実在と架空という既存の領域を横断した重層的な未知の世界へとわれわれを誘い、人々の驚きや好奇心を喚起する斬新な取り組みとなることが期待されます。」


「アート&サイエンス」をテーマにした現代版「驚異の部屋」。そこに「まぼろし」の影を重ね、過去と現在、実在と架空の境をも越える、さらなる驚異の空間を現出せしめようというのです。それをインターメディアテクのプレ行事と位置付けた西野氏の思いについては贅言無用でしょうが、インターメディアテクの、あの学術標本という「ファクト」たちの間を、黒々とした「ファンタスマ」の霧が流れていることは、銘記されてよいのではないでしょうか。

   ★

さて、こうして話はインターメディアテクに続きます。
改めてこの連載の始まり↓に戻って、全体を通読すると、西野氏の軌跡がそこに浮かび上がるのかどうか?それは定かではありません(と言うか、我ながら論旨のはっきりしないところがたくさんあります)が、ひと月前と比べると、インターメディアテクを見る目がちょっと変わったのは確かで、それを以て自らの成果とします。

東大発ヴンダーの過去・現在・未来
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/04/02/6765240
続・東大発ヴンダーの過去・現在・未来…西野嘉章氏の軌跡をたどる(1)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/04/22/6786696


(とりあえず、この項は今回で完結です。)


【おまけ】

一昨日の駄文書き終わった後、ヴンダーカンマーについてモヤモヤしていたことに、ちょっとした気づきが得られました。ですから、あれもまったくの無駄ではありませんでした。

その「気づき」とは、ヴンダーカンマーとノスタルジーとの関係についてです。ヴンダー(英語のワンダー)は「未知」を本質とするのに、ノスタルジーは「既知」を前提にした感情ですから、両者を重ねることには、基本的に無理があるぞと気づいたのでした。

もちろん、人間には「初めて見るのに懐かしい」(déjà vu)とか、「よく知っているはずなのに、初めてのような気がする」(jamais vu)という心の動きもあるので、ヴンダーとノスタルジアが結びつく可能性もなくはないでしょう。いや、私の中では現に結びついているのですが、でも少なくとも、往時のヴンダーカンマーの作り手からすると、私の思い入れは、一寸いぶかしく感じるかもしれないなあ…と思いました。

コメント

_ S.U ― 2013年05月07日 19時34分09秒

 西野氏流の展示は、アートであり、科学であるということと解釈しました。
 しかし、客観的な科学展示と、芸術家の個性を前面に出す個展的美術展は、どう考えても別物です。

 そこで、西野氏は「説明をつけない展示」ということで何らかの共通点を見いだしているのではないかと考えました。思うに、元来の博物館は「データ」を展示する物ですから、データ収集過程を記した説明がデータの一部として必要だと考えます。しかし、自然を単に謙虚にぼけーっと見るだけならば、説明がないのがさらに客観的でしょう。
 一方、美術作品は、作者の個性が表れた物ではありますが、美術展ではいちいち「作者は、この作品をこれこれこういうつもりで作ったぞ。それを踏まえて鑑賞せよ」などという説明はしないものです。
 
 小学生が美術展でパネルの説明をノートにメモして鑑賞したことにするというのが邪道だとすると、これと、自然を見る時に説明がないのは、同じことなのか違うことなのか、...とまで考えてわけがわからなくなったので、今回はこれで終わりにします。共通点があるなら、科学とアートの展示は両立するのでしょう。

 それでも、私は客観的科学の徒として、説明パネルの有無にかかわらず、博物館と美術展とは厳格に区別されねばならないと終始考えていますので、こちらも譲れません。

_ 玉青 ― 2013年05月08日 05時57分13秒

う、これは難しいですね。
ミュージアムの展示を考えるとき、そこには展示品そのものの美と、展示方法の美とがあり、前者に関わるのがアーティストで、後者に関わるのがキュレーターだというふうに、一応区別することができると思います。

前者はマーク・ダイオンであったり、ケイト・ロードであったり、無名の職人であったり、大自然であったり(=博物学標本の場合)、あるいは彼らの合作という場合もあるでしょう。
「博物館工学」を標榜する西野氏の立場は当然後者。それが人の手になる美術品であれ、科学的な資料であれ、そこには、美しく感動を呼ぶ展示と、そうでない展示の別が自ずとあるわけで、西野氏の取り組みは結局そこに行きつくものだと思います。美しいモノはより美しく、そうでないモノも展示の技で美しく見せよう…というのが、その心意気なのでしょう。

ここまでのところは特に矛盾はないと思いますが、問題は、ミュージアムには教育機能/知識を正確に分かりやすく伝える機能もあることで、そういう「知的展示」と、上のような「美的展示」が葛藤を生じる場面もあるのでは…というところに、S.Uさんの問題意識はあると受け止めました。

自然物の展示の場合、「美的展示」と「知的展示」――「心」で見ることと「頭」で見ることのどちらが大切なのか?
科学を標榜するのであれば、当然「知的展示」を優先すべきなのに、西野氏は得てして「美的展示」を優先してはいないか?
件の小学生は、「美的展示」を「知的」に――すなわち「心」で見るべき展示を「頭」で見る過ちを犯しているのではないか?

「美的展示/美的理解」と「知的展示/知的理解」は、二律背反するものではなく、共存しうるものでしょうが、それでも上のような問いを問い得るとは思います。
ただ、これらの問いに絶対的な答はなくて、結局はTPOや「展示者と観客の力学」によるとしか言いようがないかもしれません。

どうでしょう、私にもよくは分からないのですが、上のように状況を整理すると、多少議論がしやすくなるのではないでしょうか。

_ S.U ― 2013年05月08日 19時45分07秒

問題点を整理していただいて多少わかりやすくなったように思いますが、やっぱり分からんものは分かりません(^^;) でも、せっかくですので、もう一歩踏み込みたいと思います。

 確かに、鑑賞する側からすると、鑑賞する人の心持ちと展示者の意思との「力学」だと思います。しかし、展示者個人のうちでは、これは果たして美的か知的か、という自身への問いかけがしばしば葛藤になるのではないかと思います。その際、それが信念によって我意を通すことによって決着できるのか、妥協によらざるを得ないことが多いのか、やっぱり分かりません。

_ 玉青 ― 2013年05月08日 20時22分11秒

うーん、私も分からず書いているので、やっぱり分かりませんが(笑)、おそらく妥協もあるんじゃないでしょうか。何といってもミュージアムは公共の場ですから、多数の目を常に意識しないといけないのが宿命であり、それによって客観性が担保されている面もあるのでしょう。

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