廃天文台 ― 2014年04月08日 22時06分29秒
先日届いたイギリスのSHA(天文史学会)のニューズレターに、廃天文台を紹介するWEBページの紹介記事があって、いろいろ感じるところがありました。
■Web Urbanist “Watch Out: 15 Eerie Abandoned Observatories”
http://weburbanist.com/2012/07/08/watch-out-10-eerie-abandoned-observatories/
アメリカ、ロシア、カザフスタン、ポルトガル…世界のあちこちに眠る廃天文台。
戦争の惨害、資金難、政策の変更、光害の影響等、天文台が放棄される理由は様々ですが、いずれもかつては天に最も近かった場所が、その鋭眼を喪い、黙然と空の下にたたずんでいる光景は胸に迫ります。
★
そういえば、以前廃墟ブームというのがありました。写真集もいろいろ出て、私も結構買いました。今でも廃墟のたたずまいに惹かれる人は少なくないでしょう。
そもそも、廃墟好きというのは、いったいどういう心理によるのか。
改めて考えてみると、一種の怖いもの見たさもあるでしょうが、それ以上に安らぎを覚えるということがあるんじゃないでしょうか。
廃墟に立つと、そこに大勢の人が忙しく立ち働き、活気に満ちていた頃の光景が思い浮かびます。それは懐かしく、心温まるイメージには違いありません。しかし、人間の営みはすべからくそうですが、そうした活気は一時的なものであり、幻に過ぎないとも言えます。土地や建物の賑わいもそうですし、人生や時代の華やぎもそうです。人はみな心のうちでそれを知っているから、いっときの賑わいに酔いつつも、無意識に不安を覚え、痛みや悲しみを心に刻むのでしょう。
しかし、ひとたび廃墟になってしまえば、もはやそうした不安とは無縁です。廃墟は未来永劫廃墟であり、凋落を恐れる必要もなく、勝ち目のない努力を強いられることもありません。そこには静かな安らぎがあるのみです。
そう思って、廃天文台の写真を見ると、また違った感じも受けますが、しかし一抹の寂しさはぬぐいようがありません。
★
件のSHAのニューズレターに再び目をやると、活動レポートに写っている会員諸氏はみな頭の白い人ばかりで、今号は「追悼文特集号」だというのですから、これまた何と言っていいのか…
コメント
_ S.U ― 2014年04月09日 07時16分50秒
_ 玉青 ― 2014年04月09日 21時43分12秒
うーむ、紋次郎はなかなかややこしいキャラクターですね。(笑)
でも、自分が主体的に動くのは良くても、他人に動かされるのは真っ平御免というのは、何となく分かる気がします。
廃墟は人に何物をも求めない、それ故に愛すべき存在だ…というのも、これまた何となく分かる気がします。
でも、自分が主体的に動くのは良くても、他人に動かされるのは真っ平御免というのは、何となく分かる気がします。
廃墟は人に何物をも求めない、それ故に愛すべき存在だ…というのも、これまた何となく分かる気がします。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
でも、木枯らし紋次郎は、依頼した人が死んでしまうと、真相究明や「意趣返し」に積極的に関わっていくことがあります。それには、2つの理由があって、一つはその人が死ぬことによって自分に関わりが生じた(自分が出会ったために死んだのかもしれない)ということと、もう一つは死んだ人はもうこれ以上自分を面倒に巻き込まないという安心によるものだと言います。
廃墟においても、ちょっと似たような理由があるのかもと思いました。将来への不安から逃れられることのほかに、喧噪な繁華地の時は他所事だったのに、廃墟になったことで自分にも何らかの関わり(責任)が生じたと考える気持ちがあるのかもしれません。