フランス星座早見事情(前編)2014年05月02日 07時01分25秒

風薫る五月。すでに今年も3分の1が終わったとは驚きです。

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さて本題。
フランスの天文趣味に関して、ちょっと不思議に思っていることがありました。
それはフランスの天文家は、星座早見を使わなかったのだろうか?ということです。もちろん今出来のものはたくさんあります。しかし戦前、それこそフラマリオンの目が黒いうちはどうだったのか?

この辺は表現が微妙ですが、古い星座早見が全くないわけでもなくて、実際フラマリオン自身が監修した、下のタイプのものはオークションでも折々見かけます。

(一辺17.5cm、星図の直径は13cmほどの小ぶりの早見盤)


(版元はパリのG.トマ)


(星図部分のアップ)


(右側に見えるズック紐を引っ張って、表面を覆う台紙を回します。イギリスのフィリップス社のアンティーク早見盤では、中の円形星図を回す仕組みでしたから、動作原理が逆です。)


(裏面にはフラマリオンによる、わりとそっけない用法解説が載っています。)

とはいえ、これ以外のものを目にする経験は全くありませんでした。

上の早見盤は、全体の雰囲気が1920~30年代っぽい気がします。そうするとフラマリオンの最晩年、あるいは死後に流通していたことになり、そういうことがあっても別に不思議ではありませんが、ではフラマリオンの『Astronomie Populaire』が大売れしていた19世紀のフランスには、星座早見がなかったのか?というのが気になる点。

お隣のイギリスでは、19世紀から星座早見はポピュラーでしたし、ドイツでは20世紀のごく初期から、多様なデザインの星座早見が存在しました。それにひきかえフランスは、その歴史においても、バラエティにおいても、「星座早見後進国」の印象がぬぐえませんでした。

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しかし、今回改めて探したら、フランスにもちゃんとありました。
それも途方もない逸品が。

(もったいぶって以下つづく)

フランス星座早見事情(後編)2014年05月03日 10時05分17秒

フランスにもあった星座早見の逸品とは?
(以下、他人様のものを勝手に紹介させていただきます。いずれ様もどうぞご勘弁を。)

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まず目を驚かす品。
昨日の記事に出てきた星座早見は、フラマリオン監修、G.トマ発行の品でした。私の個人的見立てでは1920~30年代のもの。

ところが、同じフラマリオン&トマのコンビで、既に19世紀末に星座早見盤が作られていたことを知りました。2007年11月にロンドンで開かれたボナムス社のオークションに出品されたものです。それが下の画像。

(出典:http://www.bonhams.com/auctions/15617/lot/128/ 周囲の木枠のようなものは、パイン材で作られたオリジナルの箱)

一見ふつうの星座早見ですが、驚くのはそのサイズ。
なんと56センチ四方という堂々たる体躯です。新聞紙の上下が54.5センチだそうですから、それを上回る巨大な早見盤。これほどの大きさになると、当然頭上に持ち上げて実際の星空と対照して…という使い方はできないでしょうから、おそらく卓上デモンストレーション用に使ったのではないでしょうか。詳細は不明ですが、写真で見る限り、こちらは中の円盤を回すタイプのようです。

星座早見界の異端児ともいえるこの怪作、落札価格は528ポンド、現在のレートで約9万1千円。相対的にはリーズナブルな価格だと思いますが、もちろん絶対的には高いですね。

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次いで古い品を。
天文アンティークに力を入れているニューヨークの George Glazer Gallery で現在販売中(@1800ドル)の下記の星座早見。作られたのは1839年といいますから、私の手元にあるフラマリオンの早見盤よりも更に100年近く前のものです。

(画像の勝手貼りをすると怒られそうなので、サムネイルサイズでイメージだけ紹介。詳細は下記リンクを参照)

Planisphère Mobile Simplifié
Charles Dien Celestial Planisphere, Paris: 1839
 
http://www.georgeglazer.com/maps/celestial/dienplanisphere.html

以下、上記ページから摘録します。

作者のシャルル・ディアン(1809-1870)は天文家にしてグローブ製作者。同名のお父さんも球儀制作にかかわっていましたが、このシャルルは息子の方。彼はフラマリオン(1842-1925)よりも1世代上になりますが、フラマリオンと組んで大判の星図帳『Atlas Céleste』(初版1865)も出しています。

ディアンの業績でいちばん有名なのは、星図における星座表現に革新をもたらしたことで、彼はそれまでの伝統的な星座絵を捨て、主要星を直線で結び、星座のアウトラインだけを簡略に示す方法を編み出しました。現代の星図では非常にポピュラーな手法ですが、その元祖こそシャルル・ディアンで、上で取り上げた星座早見にもそれが応用されています。

そして、この星座早見も47センチ×38センチというジャンボサイズ。
どうもフランスの人は大きいものが好きなのか、実用という観点からものを考えなかったのか、いずれにしても逸品には違いありませんが、これでは一般に普及しなかったのも当然という気がします。

(ディアン(著)、フラマリオン(改訂増補)の『Atlas Céleste』 第5版/1884年。高さ51センチと、これまた巨大な星図帳。) 

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昨日の記事に「パリの暇人」さんからいただいたコメントによると、同氏のお手元には一層古い1779年刊のフランス製星座早見が所蔵されている由。となると、フランスを「星座早見後進国」とけなしたのは私の不見識で、むしろフランスは星座早見のパイオニアであり、個々の「住人」の大きさからしても、「星座早見の巨人国」と呼ぶのが相応しいようです。

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さて、連休中はちょっと小旅行に出かけるので、その間記事の更新はお休みします。
皆さま、よい休日を。

旅の記…岡山、鹿児島2014年05月07日 21時22分51秒

先ほど帰宅しました。今回は岡山経由、鹿児島の旅。
観光がメインではありませんでしたが、岡山では市立オリエント美術館を、鹿児島では尚古集成館を訪ねました。

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岡山市立オリエント美術館 http://www.orientmuseum.jp/

先日オリエント世界の天文学の話題にちょっと触れたので、改めてオリエント世界の何たるかを知ろうと思ったのですが、どうも展示が分かりにくかったです。収蔵品自体はなかなか充実しているように思いましたが、なぜか説明がスッと入らない。これはよほど展示が下手なのに違いない…と思いましたが、一巡したところで、自分が順路を逆にたどっていたことが判明。これでは分かりにくくて当然です。もう一度ちゃんと回る時間があればよかったのですが、時間切れで残念でした。


それでも、オリエント世界が「オリエント世界」と一括りにして済ませられるような単純な存在でないことは、たいへんよく分かりました。そこにあるのは、さまざまな民族の興亡の歴史であり、文化の継承もあれば切断もある…という当たり前のことを、再認識しました。

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尚古集成館は、薩摩藩主の別邸だった仙巌園(せんがんえん)に隣接して立つ石積みの博物館。




幕末の薩摩が国力を高め、維新の原動力となった物質的基盤の一つが、藩をあげて近代的工場群の建設に邁進した「集成館事業」であり、その遺構の一部が、今の尚古集成館です。明治新政府のように、お雇い外国人の力を借りることなく、書物の知識と創意工夫のみで、新式機械を作り上げた先人の努力には本当に頭が下がります。

鹿児島は日本の端といえば端ですが、歴代の藩主自身が蘭学趣味に染まっており、科学技術先進地としての顔を持ち、また博物趣味の点でも大いに気を吐いた土地柄です。


今回の旅とは直接関係ありませんが、上はイギリスの宣教医、ベンジャミン・ホブソンが著した自然科学入門書『博物新編』。初版は1855年に上海で刊行され、幕末~明治にかけて、わが国でも盛んに読まれた本です。
特に鹿児島では、明治4年(1871)に「鹿児島県刊行本」というのが独自に出るぐらい、大いに需要があったようです。


手元にある本の旧蔵者、池盛大は伝未詳の人ですが、鹿児島県立図書館の蔵書目録を見たら、この人の筆になる『詳約薬物学筆記 巻ノ1、2』(いずれも年代未詳)という本が載っていました。当時の鹿児島の市井の知識人でもありましょうか。

そういえば、鹿児島県立図書館の前には、「薩摩辞書の碑」というのが立っていて、これは明治2年(1869)に3人の薩摩藩士が刊行した、日本初の活字版・英和辞書を顕彰するもので、これまた日本の近代化に少なからず功があった書物だとか。

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さて、そんな気分に任せて鹿児島で購入した旅のお土産とは。

(次回につづく)

鹿児島みやげ(1)…麑海魚譜のこと2014年05月09日 22時38分21秒

鹿児島で購入した博物趣味的土産。


判型はA4ですから、図録としては決して大きくありませんが、鮮やかな朱の箱に収められた紺色の布装本は、なかなか堂々としています。


字面を見ると、一瞬「魔海魚譜」に見えて、なんだか小栗虫太郎の伝奇小説のタイトルにありそうですが、よく見ると「魔海」ではなくて「麑海」(ゲイカイ)。
麑は「鹿」と「兒」を重ねた文字で、字義は文字通り「鹿の子」。ここでは地名の鹿児島にかけており、麑海とは桜島の浮かぶ鹿児島湾のこと。要は、鹿児島湾に生息する魚介類についての博物図譜なのでした。

原本は明治16年(1883)に出ており、編者は元静岡藩士で、当時鹿児島県に出仕していた白野夏雲(しらのかうん、1827-1899)。絵師は木脇啓四郎(1817-1899)と二木直喜(生没未詳)の二名。

この本の書誌は、後ほど詳しく書きますが、まずはその中身。


カラー図版を、見開きに4図配しています。
各図は原図のおよそ3分の1に縮小されており、当然もっと大きな図で見たいとは思いますが、そうすると経費が膨大になってしまい、出版そのものが不可能となるでしょうから、その辺はやむを得ません。その分、紙質は非常に良くて、オリジナルの和紙の質感を損ねないよう、クリームがかった、マットな紙を使っています。


水産物の紹介ということで、魚以外に、エビ・カニ・イカ・タコ・貝類も収載。


中には懐かしのミシマオコゼの姿も…。
(参照 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/12/01/6648788

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ここで改めて、『麑海魚譜』の成り立ちについて記します。その書誌は結構こみいっていて、私も最初混乱したので、ここに整理しておきます。

まず『麑海魚譜』には、肉筆彩色の「原本」と、それを元に銅版で図を起こした単色の「刊本」があります。

「原本」は、明治16年(1883)の3月から東京上野で開かれた、第1回水産博覧会に鹿児島県勧業課が出品したもので、29.5cm×39.6cmの横長、画帖仕立ての和装本。全体は3分冊になっています。1頁に1図を貼付し、全体で344図を収載。現在は鹿児島県立図書館の所蔵です。

(原本表紙。『新編 麑海魚譜』より)

一方の「刊本」は、原本と同じく明治16年3月に、やはり鹿児島県勧業課が出したもので(発兌は東京の大和屋松之助)、一種の普及版でしょう。こちらは略A4判・和綴じで、上下2巻本。
図はおおよそ原本にならって、銅版で縮小模刻(1ページに2図掲載)していますが、掲載種に若干異動があり、図数は全部で325図。
なお、この「刊本」は、本来モノクロですが、手彩色を施した一冊が東京国立博物館に所蔵されており、これは他に類例のない孤本です。

(刊本表紙。出典同上)

さらに、この「刊本」には、明治44年(1911)、県立第一鹿児島中学校が再版したバージョンもあって、そちらには東大の田中茂穂、波江元吉の同定による学名表が新たに挿入されています。

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今日ご紹介した『新編 麑海魚譜』(島津出版会、昭和54)は、原本の344図に加え、上記の彩色版刊本から25図を追補し、すべてカラー刷りで再現した上に、詳しい解説を加えた労作です。(なお、明治16年版の刊本にも復刻版があり、そちらは福岡の書肆侃侃房から、『復刻版 麑海魚譜』の書名で販売されています。)

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最後に大事なことを書き添えます。
この豪華本、定価も29,000円とずいぶん張りますが、尚古集成館の売店では、何と驚異の特価5,400円で販売中。在庫がだぶついているせいかもしれませんが、これはすこぶるお値打ち。魚好き、博物好きの方に広くお勧めします。

【付記】
通販可。下記ページのいちばん下に申込先あり。
 http://www.shuseikan.jp/about/public01.html

鹿児島みやげ(2)…生命の輝き2014年05月10日 19時05分00秒

尚古集成館の隣にある仙巌園でも、鹿児島ならではのお土産を買いました。


千年の夢」と題された屋久杉関連商品。


パッケージの中に入っているのは、密封されたガラス管(キャップを含む全長は約12cm)。中には寒天培地上で育つ、実生の屋久杉の苗が封入されています。 

同封の説明書によれば、この状態で樹齢約3か月。
千年の大樹への一歩を踏み出したばかりの初々しい姿ですが、無事ここまで育つのは、総播種数の5%に過ぎないそうですから、幼いながらも幾多のハードルを越えた逞しさも感じられます。


ガラスの中に輝く命。
見つめていると、まだ見ぬ屋久島の緑滴る姿が脳裏に浮かびます。
と同時に、生命と進化の不可思議を思わずにはおれません。

【付記】
寒天培地がなくなるまで育った後は、鉢に植え替えて栽培を続けられます。
なお、屋久杉製の台座はオプション。
販売元は鹿児島市内にある山王産業さん(http://www.yamaou.com/)です。

夢の世界星座早見(1)2014年05月11日 19時58分33秒

星座早見というのは、いつでも、どこでも使えるものか?
今更ですが、もちろん前半はイエスで、後半はノーです。

まず「いつでも」使うことはできます。そもそも、星座早見は24時間・365日、その時々の空に見える星を知るための道具ですから、ある意味当然です。

しかし、「どこでも」使うことはできません。星の見え方は、地球上のどこから見るかによって、全く違うからです。たしかに星が天の北極・南極を中心にグルグル回っているのはどこでも一緒ですが、天の北極・南極の位置が、緯度によって変わってしまうからです。

北極に行けば頭上に北極星が輝き、北天の星が1日中沈むことなく、その周りを回り続けています。しかし南天の星は1年中見ることができません。
赤道に行けば、南北の地平線上に天の両極があって、全天の星が地平線から次々に上り、次々に沈むことを繰り返しています。

まあ、日本の国内であれば、そう大きな違いはなかろうと割り切って、東京(あるいは明石)を基準に作られた星座早見を、全国どこでも使い回していますが、さすがに沖縄まで行くと、本土の星座早見では無理があるので、沖縄県用の早見盤というのも存在します。

ちょっと余談ですが、鹿児島の旧制七高(現・鹿児島大学)の寮歌に、「北辰斜めに」というのがあります。

  北辰(ほくしん)斜にさすところ
  大瀛(たいえい)の水洋々乎(ようようこ)
  春花(はるはな)薫る神州の
  正気(せいき)は罩(こも)る白鶴城(はっかくじょう)
 <以下略>

鹿児島では本州に比べ、北極星の高度が低い事実を詠み込んだもので、南への憧れを誘う良い歌詞です。

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…というわけで、どこでも使える「世界星座早見」は作れないというのが、理論的帰結なのですが、しかしそれでは困る人も出てくるわけで、先人なりに努力を重ねた末に生まれたのが、下の「WORLD WIDE PLANISPHERE」。
見れば確かに「南北全緯度用」を謳っています。


下の方に軍艦と軍用機が描かれているのがポイント。
時は1943年。第二次世界大戦のさなか、世界中に散った米国軍人は、どこでも簡便に使える星によるナビゲーションツールを求めていました。その声に応えて、ヘイデン・プラネタリウムの元学芸員、バートン氏が編み出したのが、この星座早見です。

(この項つづく)

夢の世界星座早見(2)2014年05月12日 06時54分13秒

冒頭から何ですが、意気込んで連載記事に仕立てようと思ったものの、ちょっとダメっぽいです。というのは、「世界星座早見」というのは、2003年に三省堂からも出ていて(先ほど気づきました)、これはリンク先の商品説明でお分かりのように、
○星図盤を北天用と南天用の2本立てにする(三省堂版では1枚の表裏に印刷)
○その土地から見える空の範囲を、緯度に応じて異なった形状で示す

ことによって全世界に対応させようというものです。

日本天文学会編「三省堂 世界星座早見」
 http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/gakusan/e-j/seiza_hayami.html

まあ、人間の考えることはだいたい同じで、昨日のアメリカ製の星座早見も、原理は三省堂版と全く同じです。ですから、「どうだ!」と勢い込んで紹介するほどのこともなくて、以下はせいぜい「70年前には既にこういうものがありました」という、資料紹介的な記事になります。

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昨日の写真はわざと周囲をトリミングしましたが、全体はこんな↓姿です。
左右がプラスチックのリング綴じになっているのが味噌。


まず左綴じになっている星図盤(北天用、南天用)を選び、ハトメで留めてあるディスクをくるくる回して、日時を合わせます。


次いで右綴じになっている星図覆いを、観測地の緯度に応じて選択します(20、40、60、80度用の4枚あります)。


両者を合体させると、たとえば北緯80度用の星座早見がこんな風に完成。


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…という風に、話としては至極単純ですが、せっかくの機会なので、もうちょっと細部にも目を向けてみます。

(この項さらにつづく)

夢の世界星座早見(3)2014年05月13日 21時15分37秒

こういうのは手に取っていただければ一目瞭然なのですが、昨日の写真はちょっと分かりにくかったかもしれません。全体を模式化するとこんなふうです。


A4(でなくてもいいですが)の紙を4枚重ねて、全体を三つ折りにした状態をイメージしてください。左側にペラペラが4枚、右側にもペラペラが4枚あって、これを中央で重ねる方法は、4×4=16通りあります。件の星座早見もちょうどそれと同じ構造になっています。左側のペラペラが星図盤、右側のペラペラがそれを覆うカバーです。

「え、星図盤が4枚?北天用と南天用の2枚じゃないの?」
と思われるかもしれませんが、この早見には星図盤が4枚付いています。それは普通の星座を刷り込んだもの(アマチュア天文家等の星座学習用、と著者バートンは言います)以外に、ナビゲーション&オリエンテーション用の特殊な星図盤(天測航法などに使うもの。こちらの方がこの星座早見出版の主目的です)が、南北2枚付いているからです。

現物を見てください。

(北天ナビ用)

(北天星座学習用)

(南天ナビ用)

(南天星座学習用)

そして、星図盤を覆うカバー(著者は「マスク」と呼んでいます)の方も、昨日書いたように、緯度20度、40度、60度、80度の4枚あります。
これもズラッと並べるとこんなふうです。

(20度用。半円に近いお饅頭型にくり抜かれています。)

(40度用。20度用と重なっているので分かりにくいですが、手前の楕円形の窓がそれです。)

(60度用。これまた一番手前の窓の形に注目してください。だいぶ円に近付いてきました。)

(80度用。窓の形はもうほとんど円形です。)

これらの星図盤とカバーを組み合わせれば、たとえば昨日のように、


北緯80度用の星座早見も作れるし、


南緯20度で使うナビ用星図もあっという間に完成です。

天の極が頭上にあるか、地平線近くにあるか、それによって星の見え方はどう変わるか、それを表現するために「窓」の形がどうあらねばならないか、図を見ながら考えてみるのも一興かと思います。(注)

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「それにしても…」と思います。
この上質の紙、鮮やかな印刷、プラスチックの綴じ具。これぞアメリカの「物量」を如実に物語るものであり、やはりあの戦は無謀だったなあ…という気がヒシヒシとします(もちろん相手が弱ければ戦争をしてもいい、という意味ではありません)。


【注】
この問題に関する理論的考察は以下を参照。
○上原貞治、「星座早見盤の窓の形」、『天界』1008号(2009年5月)、pp.210-212.

リンゴの唄を聞いた早見盤2014年05月15日 07時04分59秒

前回の星座早見がアメリカで出たのは1943年。
2年後の1945年8月15日、太平洋戦争終結。

敗戦後の日本は、戦時下にもまして物資の窮乏著しく、餓死者が絶えませんでしたし、死には至らずとも、国民全体が―特に都市部では―栄養不良でふらふらしていた…と聞きます。

そんな時代の一隅を照らしたのが、並木路子の「リンゴの唄」で、当時の映像やドラマには必ずかぶさって流れるので、現今の人の耳にも親しいことでしょう。

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そんな時代にあって、リンゴばかりでなく、星をいつくしむ思いが、人々の心の内には甦り始めました。


粗悪な紙に刷られた粗末な星座早見。
前回の早見盤と比べると、アメリカと日本の置かれた立場の違いがくっきり浮かび上がりますが、しかし、これこそ日本の天文趣味復活ののろしとも云うべき品。

野尻抱影(編) 『星座めぐり盤』、 研究社、昭和21年(1946)
  約 18cm × 18cm

 
 

印刷されたのはちょうど敗戦から1年経った、昭和21年8月15日。
「配給元 日本出版配給統制株式会社」とあって、当時はまだ統制経済下ですから、出版人もいろいろ苦労があったことでしょう。定価は3円50銭。


窓枠カバーを開けたところ。星図盤はすっかり日に焼けていて、窓からのぞいていたところは濃い茶色になっています。


ザラッとした紙の表情。
口腹を満たすべき金で星座早見をあがない、すきっ腹を抱えて空を見上げたかつてのスターゲイザーに深い愛情を感じます。

最後の絵葉書2014年05月16日 07時04分23秒

1910年のハレー彗星騒動は、ちょうどこの時期でした。

前年の9月に、天文台の大望遠鏡がようやくその存在を察知した彗星は、年明けの春からぐんぐん光度を増し、「翌1910年2月に8等級、〔…〕4月に2等級となり、8度ほどの尾を見せた。5月11日には最も明るく、0.6等となり、尾はさらに長くなり、5月14日に58度、16日に70度、19日に105度、21日には120度となった」(ウィキペディア「ハレー彗星」の項より)。

運命の日は5月19日。
この日、ハレー彗星の尾が地球をかすめ、その尾に含まれる猛毒シアンによって、地球上の生物はすべて死滅する!という噂が流れ、人々は戦々恐々としていたのです。

そんな時代の気分を反映して、ハンブルグではこんな絵葉書も作られました。


長々と尾を曳く凶星が告げるメッセージは、「Die letzte Ansichtskarte(最後の絵葉書)」。 これまで無数の絵葉書が刷られてきたが、いよいよそれもおしまいだ…という不気味な声が天から響いています。

…と思いきや、よく見ると右下には「ist Dies noch lange nicht!!(…は、まだまだ遠い先である!)」とあって、一種のジョーク絵葉書であることが分かります。

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1910年のハレー彗星騒動は、面白おかしく語られることが多いですが、当時の新聞を見ると、紙面をにぎわしているのは相変わらず、政治、経済、三面記事ばかりで、全人類がひたすらハレー彗星に恐れおののいていた…というのは、事実に反します。
まあ、せいぜい先年の「マヤの予言(2012年に人類は滅ぶ)」ぐらいの重みではなかったでしょうか。