ヴァーチャル雪見(1)2017年01月19日 07時16分49秒

少しずつ記事を続けます。

先日の寒波はなかなか強力で、3日間続けて白いものが舞うのを目にしました。
町場に降る雪は、醜いものをすべて白一色で覆い隠し、耳障りな音も妙にくぐもって聞こえるので、気持ちがしんみりと落ち着くものです。雪は良いなあ…と独りごちるのはこんな時。

でも、それには一つの前提があります。

   ★

 雪見とは あまり利口の さたでなし

故・杉浦日向子さんの短編漫画で、この江戸川柳を題材にしたものがありました。
風流人を気取って、向島まで雪見に出かけた3人組。「風流」がきつく骨身にしみたところで、やっと家まで帰り着いた一人は、女房相手に毒づきます。「オイ、湯豆腐まだかあ!…フウ、おらあ、あのまんま向島で凍り固まってしまうかと思った。やっぱり炬燵にあたって湯豆腐が大風流よ。

 ばかめらと 雪見のあとに のんでいる

(杉浦日向子、『風流江戸雀』、1987、潮出版社)

まあ、現実とは得てしてこんなものです。
雪見というのは、実際に野に出でて楽しむ…というよりは、温かい部屋で雪見障子越しに眺めるとか、いっそ純粋にイメージだけを楽しむとかするものじゃないでしょうか。そこが花見や月見と違うところです。雪見というのは、ひょっとしたら人類が初めて編み出した「ヴァーチャルな自然を楽しむ行為」かもしれませんね。

上で書いた「前提」とは、即ちこのことです。

雪はいいねえ…というのも、温かい堅固な部屋に身をおけばこそで、これが吹きっさらしだったり、足元を気にして、震えながら雪道を歩かねばならないとしたら、なんぼ風流人でも雪を楽しむことは難しいでしょう。

そんなわけで、私もエアコンの温風に当たりながら、風流なヴァーチャル雪見としゃれ込むことにします。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2017年01月20日 08時37分49秒

杉浦日向子先生(漫画家業の方には「先生」をつけるのが私にはしっくりきます)は、江戸人の心意気が現代人に通じるものであることを教えてくれました。してみると、富国強兵の明治から蓄財と節約に忙しい現代までがむしろ日本人の伝統に合わない特異な期間であったように思えます。先生が若くして亡くなったことを本当に残念に思います。

_ 玉青 ― 2017年01月21日 11時44分22秒

杉浦日向子さんが2005年に亡くなられて、今年は早くも13回忌を迎えるのですね。
考証家としての活躍もそうですが、私にとっての杉浦さんは、やっぱり何と言っても漫画家としての存在が際立っています。杉浦さんとか、彼女のもうちょっと上ぐらいの世代のガロ系作家に私は特に思い入れがあって、語れば尽きることがありません。本当に惜しい人を亡くしました。彼女の衣鉢を継ぐ人も見当たりませんし、その意味では空前にして絶後の作家さんかもしれません。

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