古塔は知る、天地の転変を。 ― 2018年02月12日 10時45分25秒
すっかり記事の間隔が開きました。
身辺がバタバタしているのは相変わらずですが、昨日は一日中ネットを眺めて、何か目ぼしいものはないか物色していました。我ながら浅ましい話で、何かもっと“高尚な”過ごし方はないものかね?…と思いますが、人生、時には無駄も必要です。
そんな呑気な日常と隣り合わせで、内外情勢は激しく動いています。
そして、それと連動して平昌では冬のオリンピックが始まりました。「天文古玩」に韓国の話題が登場することは、これまであまりありませんでしたが、時流に投じて、今日は韓国の話題です。
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東アジア最古の天文遺跡と言われる、韓国南東部・慶尚北道にある「慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)」。その古い絵葉書が手元にあります。
おそらく1910年代のものでしょう。
画面の青さはサイアノタイプ(Cyanotype)印刷――原理は日光写真と同じ――に独特のもので、この絵葉書では、それと石版転写法と組み合わせているようですが、技術的な詳細は不明です。その青の色合いは、セピアとはまた違う、不思議な情緒をたたえています。
(ローマ字表記が“TANSEIDAI”となっているのは誤読ないし誤記)
キャプションには、「(慶州名所)東洋最古の天象観測所瞻星台」とあり、その建造は7世紀、新羅の時代に遡ると言われます。
広々とした田野の中に立つ古塔。
その脇を牛を牽いてのんびり歩む農夫の姿が、周囲ののどかさを強調しています。
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とはいえ、この写真の背後にある現実世界は、のどか一辺倒とは言えません。
この絵葉書は、明治43年(1910)8月のいわゆる「韓国併合」から、あまり間を置かずに作られたと思しく、この絵葉書に写っているのは、当時の日本人に言わせれば「日本の風景」に他ならず、同時に「外地」と呼ばれる異郷でもあった…という点に、いわく言い難い陰影が伴います。
日本語版ウィキペディア「瞻星台」の項は、「科学史的評価」の節で、瞻星台の調査研究を実地に行い、学界にその存在を知らしめた人として、特に和田雄治(1859-1918)の名を挙げています。
和田は気象学者・海洋学者として、後に朝鮮総督府観測所所長を務めた人です。さらに、このときの和田の慶州訪問が、伊藤博文の暗殺後に第2代韓国統監に任ぜられ、韓国併合を進めた当の本人、曾禰荒助(そねあらすけ、1849-1910)に同行するものだったと知れば、この一事もずいぶんキナ臭いものに感じられます。
■和田雄治「慶州瞻星台の記」
(「天文月報」第2巻第11号(明治43年2月)、pp.121-4.)
とはいえ、和田の事績をくさすことが私の趣意ではありません。
彼は専門の理学の知識に加えて、古文献を博捜し、それを読み解く素養がありましたし、半島の歴史と文化に対する敬意もあったでしょう。それでも自ずと抑圧者の立場に身を置かざるを得なかった…というのが歴史の教えるところであり、我々はそれを丸ごと受け止めるほかありません。
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瞻星台の本来の用途が、暦学に奉仕する常設観測施設だったのか、あるは宗教的な祭儀の場だったのかは議論があるようですが、その字義どおり「星見の台」であったのは確かなようです(「瞻」は「見る、目を見開いて注視する」の意)。
かつて瞻星台で星を見上げた人は、そこに天意を読み取り、国家の運命を知ろうと熱心に努めたことでしょう。そして、瞻星台そのものは、新羅の興亡とそれに続く長い歴史を眺め続け、最後の王朝・李氏朝鮮の終焉にも立ち会い、さらに今も変わらずそこにあります。
そのことを思うと、何だか「瞻星台」という名称も、「人が瞻星するための台」というより、「自ら瞻星する台」、すなわち塔自らがひたすら星を見上げてきたことに由来する名前のような気もしてきます。
瞻星台の胸裏にある歴史所感とは、果たしてどんなものか?
思わずそう問いかけたくなるところが古跡の魅力でしょう。
そして、彼は無言のようでいて、やっぱり多くのことを語ってくれていると思います。
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