夢のプラネタリウムにようこそ2022年04月06日 06時00分51秒

東京渋谷にあった五島プラネタリウム
同館は1957年4月にオープンし、2001年3月に閉館しました。
人になぞらえれば、享年45(数え年)。

五島プラネタリウムは、運営に関わった人も多いし、熱心なファンはそれ以上に多いので、軽々に何かものを言うのは憚られますが、ただ懐かしさという点では、私も一票を投じる資格があります。私が人の子として生まれたときも、その後、人の親となったときも、あの半球ドームは常に街を見下ろし、1970年代には私自身そこに親しく通ったのですから。

   ★

今は亡きドームから届いた1枚のチケット。


「御一名 一回限り有効」


3つの願いを聞いてくれる魔法のランプのように、このチケットも「1回限り」なら永遠に有効のような気がします。これを持って渋谷に行けば、どこかにひっそりと入口があって、あのドームへと通じているんじゃないか…?

そんな夢想をするのは、ドームは消えても、招待した人の気持ちだけは、この世にずっととどまっていて、その招待に応えない限り、思いが中有(ちゅうう)に迷って成仏できないような気がしたからです。

   ★

でも、そんな心配は無用でした。


裏面にはしっかりスタンプが押され、昭和36年(1961)7月いっぱいで、チケットの有効期限は切れていることを告げています。招待者の念はとっくの昔に消滅しており、その思いが迷って出る…なんていう心配はないのでした。

「ああ良かった」と思うと同時に、五島再訪の夢も消えて残念です(※)

   ★

このチケットは、おそらく五島プラネタリウムと誠文堂新光社がタイアップして、両者の集客と宣伝を図るために配ったのでしょう。最初は「天文ガイド」誌の読者プレゼント、あるいは投稿掲載者への謝礼代わりに配ったのかな?と思いましたが、改めて確認したら、同誌の創刊は1965年7月で、まだ「天ガ」もない時代の品でした。それを思うと、いかにも昔という気がします。

それにしても61年間、文字通り「ただの紙切れ」がよく残ったものです。これなんかはさしずめ、紙物蒐集家が云うところの「エフェメラ(消えもの)」の代表格でしょう。

なお、チケットのデザインが、1066年のハレー彗星を描いた中世の「バイユー・タペストリー」になっているのは、野尻抱影らがそこに関わって、歴史色の濃い番組作りが行われていた同館――その正式名称は「天文博物館五島プラネタリウム」です――の特色を示しているようで、興味深く思いました。

(彗星(右上)と、それを見上げざわめく人々)


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(※)そんなに五島が恋しければ、その流れを汲む「コスモプラネタリウム渋谷」に行けば?という声もあるでしょうが、でもやっぱり五島は無二の存在です。

コメント

_ S.U ― 2022年04月08日 08時44分50秒

野尻抱影が五島プラネタリウムの実運営に入ったのは、71歳のときだった計算になりますね。当時としては、現場で働く人としては相当の高齢者だったのではないでしょうか。実際には、草下英明氏に任せていたのかもしれませんが。玉青さんは、野尻抱影や草下英明に会われるとか、そのニアミスのチャンスはありましたでしょうか。そういや、タイアップ招待券は、草下英明の「子供の科学」からみかもしれません。

 私は、五島プラネタリウムは行ったことがありません。ただニアミスのチャンスはありまして、確か階下のデパートか映画館には行ったことがあります。情けないニアミスです。

_ 玉青 ― 2022年04月09日 09時02分46秒

おっと、そう言われてみれば、やせた和服のおじいさんがカラコロ中に入っていくのを見た記憶があります…というのは嘘ですが、でも本当にそんなことがあってもおかしくないし、実際あったかもしれませんね。嬉しいご指摘をありがとうございます。自分の過去に新たな意味が生じた気がします。(^J^)

_ S.U ― 2022年04月10日 07時32分18秒

>カラコロ
 脱線しますが、そういや野尻抱影の洋装姿というのはついぞ見た記憶がありません。1970年代にテレビや新聞のインタビューなどで直近のお姿にお目にかかった記憶は何度かありますが、その時もおそらく和服だったでしょう。渋谷のビルを上がる時も和服だったのでしょうか。

_ 玉青 ― 2022年04月10日 11時48分06秒

抱影が世田谷から都心に出るときは、必然的に渋谷を経由するので、プラネタリウムの用向きでなくても、抱影はよく渋谷の街に出没したことでしょう。そういえばこれも過去記事で、ドイツ文学者の宮下啓三さんが渋谷で謎めいた老人と出会ったいきさつを書かれていましたが、そのときも抱影は和服姿でした。結局、翁はいつでもどこでも和服だったみたいですね。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/04/12/7609687
(宮下さんのエピソードは末尾にあります)

_ S.U ― 2022年04月10日 18時29分18秒

ありがとうございます。筑摩4巻本第3巻をの宮下氏の解説を読みました。これはもう間違いなくどこへでも徹頭徹尾和服だったのでしょうね。当時の渋谷の雑踏でも見つけやすかったでしょう。

 こうなると意地でも野尻抱影の洋装姿を見たいものです。私がちょっと調べた範囲では見つかりません。「指名手配・洋装の野尻抱影」ということにさせていただきたく存じます。ちょっと私からは賞金は出せないので、天文古玩さんブログでのご紹介の栄誉に博する、ということでいかがでしょうか。

 逆にずっと若い時はどうだったか。かつて、私が
http://seiten.mond.jp/gt54/collection8.htm
の2.で紹介した本に、甲府中学時代とおぼしき写真があります。
 やはり和服ですね。ただ、よく見ると(冒頭の"S.U"のリンクURLに拡大写真を引用しました)、首の辺が不自然で、詰め襟かハイカラーのようでもあります。抱影翁相手にこれほど失礼なことがないと承知の上ですが、この和服を脱がせてみたいです。

_ 玉青 ― 2022年04月11日 07時29分01秒

S.Uさんの興味関心も多方面に及びますね。(笑)
抱影の写真がまとまっているものというと、石田五郎さんの『野尻抱影』と、松岡正剛さん編集の「遊/野尻抱影・稲垣足穂追悼号」が思い浮かぶんですが、後者には洋装の抱影の写真が2枚載っていました(それ以外は見事に和服です)。1枚は「明治20年、父・正助と共に横浜で撮した少年野尻抱影」というもので、もう1枚は「甲府中学校教諭時代の盛装」とキャプションがあるものです。
https://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/temp_image/houei
「盛装」というのは、学校行事の折か何かでしょうけれど、普段教壇に立つときはどうだったんでしょうね?英語の先生ですから洋装のイメージもありますが、和服じゃダメという決まりも別になかったでしょうし、その答はS.Uさんご提供の写真にひそんでいるのかもしれませんね。

_ S.U ― 2022年04月11日 09時52分32秒

お調べありがとうございます。
ほんと、突然変なことが気になってどうしようもないです。
抱影さんはドレスコードがかからない限り和服ということでよろしいようですね。

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