天文少年のこと2006年05月11日 06時11分37秒

昭和11(1936)年発行 『少年天文読本』(「子供の科学」別冊付録)表紙


<昨日のつづき>

天文趣味にノスタルジーを感じる原因として、「天文少年」の存在が挙げられます。

天文関連のホームページを拝見すると、元・天文少年が中年になってから復活という方が多いですね。
昆虫少年に比べるとマイナーな感じはしますが、確かに天文少年という存在が、かつては実体的に存在していました。彼等はインナーチャイルドとして、今も多くの天文家の中に生き続けているはずです。

しかし、何が天文少年を生み出したのか、考えてみると不思議です。そんなことをボンヤリ考えながら1年ちょっと前に、以下のようなメールを綴ったことがあります。(日本ハーシェル協会のメーリングリストで配信したので、ご覧になった方もいるかもしれませんね。)



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S 様

またまた大部の資料を頂戴し、恐縮しております。

音に聞くアマ天・最終大会の記録〔註:'97年の第30回日本アマチュア天文研究発表大会のこと〕は、それ自体歴史的な価値があるように思います。
S様の文章、それに集録全体のトーンから実にさまざまな思いを抱きました。

今でも天文雑誌は3誌鼎立状態で、なかなか頑張っているともいえるわけですが、往時に較べれば天文趣味の退潮は歴然としています。

1970年代の天文ガイドを古本屋で買って、久しぶりに読んで一驚したのですが、当時の「天ガ」はまさに小中高生(と少数の大人マニア)の雑誌だったのですね。
今では完全に逆転しています。

「マニア」と呼ばれる人は昔もいたし、今もいますが、それを取り囲む裾野の部分が大いにやせ細っているのが現状かと思います。

天文少年はどこに消えたのでしょうか?

空が明るくなり、星そのものに子どもたちが関心を持たなくなったからだという意見もあります。ただ、考えてみると、降るような星空の下で暮らした江戸や明治の頃でも、星に興味を覚える少年(少女)は少なかったはずです。

事態は天文に限りません。「理科好きは子供の本能だ」ぐらいに思っていたのに、今や理科離れが深刻で、天文少年や昆虫少年は絶滅の危機に瀕しているようです。やはり「理科好み」というのも、すぐれて時代の産物だったということでしょう。

なぜ天文少年が消えたか?と問うより、なぜ天文少年が生まれたか?を先に考えるべきかもしれません。

彼等はいつ現れたのでしょうか?イメージとしては、明治時代の絣の着物を着た少年では決してなく、時代的には大正後半から昭和戦前ぐらい。長靴下をはいた制服制帽姿で、都市の山の手住まいという印象がありますね(ちょっと強引ですが)。「天界」の創刊が大正9年(1920)ですか。「子供の科学」の創刊も大正13年(1924)ですから、その辺がピタリと合う感じです。

私が個人的に思い出すのは、「天文博士」や「昆虫博士」など、「○○博士」という呼称が仲間内で妙に誇らしかったことです。いわば、天文少年が栄えたのは「博士」という言葉が特別の輝きを持っていた時代でもあったのではないでしょうか。

物の本によれば、日本に近代的学位制度ができたのが1887年(明治20年)で、この旧制の学位制度が1949年(昭和24年)まで存続したとあります。この間、第一次大戦後、とみに科学立国が叫ばれ、たとえば理化学研究所(理研)が創設されたのが1917年(大正6年)だそうですから、この時期、立身出世主義と「科学する心」がないまぜになって「理科好き少年たち」は生まれた…と一応は考えられそうです。

そうした自然科学偏愛の風は戦後もいっそう強まり、大阪万博の頃が頂点だったように思います。(私自身その末流に位置していたことになります。)

昨日の朝日新聞の夕刊を見たら、科学者に対する子どもの印象は、日英では「暗い」、途上国では「光り輝く存在」だったという調査結果が載っていて面白かったです。また、同記事によれば、日本では「理科はおもしろいけど、他にもっと好きなことがある」という「隠れ理科好き」が3割もいるとのことで、この辺にかすかな希望を抱かせるものがありそうです。

私としては、広い歴史的文脈の中で天文趣味の消長を捉え返してみたいという希望を、今ひそかに抱いています。

以上、まとまりのない文章ですみません。

ご好意重ねて感謝申し上げます。

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