再び天文古玩趣味について2009年02月22日 22時15分33秒


昨日の文章は、我ながら意味不明ですが、何を書きたかったは分かります。
要するに「リリカルな郷愁の天文趣味の世界」などというものは、この現実世界には、現在はもちろん、過去にもなかったはずだ…ということです。

アメリカ人がショーグンやニンジャに憧れ、ロマン派の徒が中世を賛美し、幕末の公家が王朝古代に黄金世界を見たように、現実を歪めてまでも、遠い世界を崇めるという、いわば贔屓の引き倒しのような行為は、いつの時代の、どこの国にもあったことでしょう。

天文古玩趣味もおそらく五十歩百歩でしょうが、別にそんなことはむきになって力説しなくても、全てが観念の遊戯だということは、最初からお約束だったはず…という気もします。

私が言いたかったのは、「だから、そんな夢物語みたいなものは下らん!」というのではなしに、人間とはそうした美しい夢を必然的に紡ぐ存在だということです。そして、そうした夢なしでは生きがたいほど、現実は苛烈だということも。

ふつうの天文趣味自体、少なからず地上世界からの逃避(と言って悪ければ、飛翔)の気味合いがあるのに、さらにわざわざ過去の天文趣味に耽溺しようというのは、二重の意味で現実逃避であり、ちょっと倒錯の気味すらあるのですが、しかし二度にわたって蒸留されたその一滴一滴は、溶解石英のように透明で、星の光を受けてきらきらと輝き…

だめだ。書けば書くほど、わけのわからない文章になってしまう。
このように自虐したり、言い訳めいたことを書いたりするのは、たぶん煮詰まっている証拠でしょう。自分がこれからどちらに向かって歩んでいくべきか、今はゆっくり考えてみる時期なのかもしれません。

 ★

閑話休題。
日曜日の朝日新聞に安野モヨコさんの「オチビサン」という漫画が連載されています。今日のを読んだら、オチビサンは実は「小さい巻貝(いわゆる微小貝)の収集家」だそうで、その友人(黒犬のナゼニ)は「革表紙の古本と、外国のマッチラベルと、鉱物標本と、古い文房具」を、さらに別の友人(白犬のパンくい)は「食パンの袋をとめるやつ」を集めているそうです。

なかなか渋いコレクションですね。
なんでも人類は、遠く旧石器時代から、実用を離れた収集行為を続けているそうです。

(↑は『オチビサン』単行本・第1巻、朝日新聞出版)

コメント

_ S.U ― 2009年02月23日 23時48分04秒

玉青様、相当苦心されているようですが、おっしゃることはわかります。では、例としてちょっと足穂の大正時代を考えてみてはどうでしょうか。
 大正時代は、本当に現実もハイカラな時代だったのでしょうか。
 神戸のボギー電車の火花は日常だったのでしょうか。足穂は「未来的な」と形容しているので、実は当時の人の未来への「夢物語」だったのではないかと思います。つまり、作家たちは、その時代にそのような虚構を書きたくなるような雰囲気にあった、ということを記録していることになります。
 そして、現在の私たちは、過去の人が描いた未来(もちろん、現実の現代とはならなかった)に魅力を感じているということでしょう。スチームパンクというのはこれがさらに屈折したもので、現代の作家が、過去の人々は未来に対してこういう夢を持っていただろうという虚構の予想と現実の現代とのあいだにミスマッチを作り出して楽しんでいるものといえると思います。倒錯ここにきわまれり、です。

 ところで、私は「オチビサン」の植物を見る目にはそうとう確かなものがあるのではないかと評価しています。

_ 玉青 ― 2009年02月24日 22時13分10秒

お気遣い、身に沁みます。我ながらちょっと精神のバランスを崩していたのかもしれません。でも回復してきました。

現実と虚構。現在と過去・未来。
本来は別の軸なんでしょうが、それらが時に入り混じり、重複し、「過去において現実に語られた、未来に関する虚構」のような、屈折した物語が出てくると、何がどうなっているのか、ますますわけが分かりませんが、その目眩にも似た感覚が妙に良かったりすることもあるので、人間とは厄介なものですね。

「オチビサン」には私も瞠目しています。

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