メデューサ姉妹の肖像2009年08月18日 18時18分48秒


20世紀初頭に出た、リービッヒの<クラゲ・シリーズ>全6枚。
やさしい浅緑の色合いが特徴的な、古風な味わいのあるクロモカードです。
色合いは涼しげですが、絵としては涼しげを通り越して納涼向きというか、奇々怪々。

  ★

ところで昨日のクラゲ。あれはどうも管クラゲ(クダクラゲ)の一種らしいです。
ポピュラーなところでは、カツオノエボシに近い仲間。

「クラゲ」というのは、「むし」と同じく、かなり多様な動物群を含む言葉で、管クラゲも、確かにクラゲには違いないんですが、ミズクラゲやエチゼンクラゲなんかとは、かなり縁遠い生物だとか。

まず動物界の下に、「刺胞動物門」というのがあって、その下に、
  「ヒドロ虫綱(これが管クラゲの仲間)」や、
  「鉢虫綱(こちらがよりクラゲらしいクラゲの仲間)」があって、
さらに刺胞動物門には、他にもいくつかナントカ綱というグループがあり、「クラゲ」は、それら全てにまたがり、しかも「有櫛動物門」のクシクラゲ類まで含むという、非常に大きな概念のようです。

わが身に引きつけると、我々は「脊索動物門」の「哺乳綱」に属すのですが、ここには他に「鳥綱」や「両生綱」や「軟骨魚綱」etcが含まれており、管クラゲ類とミズクラゲでは、それこそ哺乳類と魚類、猫とカツ節(?)ほども違うわけです。

管クラゲの特徴は、他のクラゲと違って、群体を構成する点。
普通のクラゲのシンプルさにくらべて、管クラゲがいかにもおどろおどろしい姿をしているのは、体形の特殊化した個体が多数集まって「一匹」のクラゲができあがっているためです。

形も、生き様も、人間の物差しでは到底測れない連中ですね。
(まさにラヴクラフトの世界!)

海は広いな、大きいな…

コメント

_ S.U ― 2009年08月19日 20時53分47秒

「刺胞動物門」と「脊索動物門」が「同格」というのは、かつて学校で「動物は『セキツイ動物』と『無セキツイ動物』に分類される」と学習したのとは、えらい感触の違いでショックに近いものがあります。

 私は何でも東洋のことが気になるのですが、本草学では、動物は「禽獣魚介虫」に分類され、「虫」はミミズからヘビまで含む広い概念で、「魚」もウニからクジラまで含むのですが、調べてみるとクラゲは「魚」のほうでした。生物学的には正しくなくても感覚的にはこちらのほうがほっとする思いです。

 ところで、食品の付録にこのようなグロというは、いささか、いかがなものでしょうか。

_ 玉青 ― 2009年08月20日 06時39分30秒

人間の視界に入る動物を分類する場合、背骨のあるなしは、素直な(そして秀逸な)発想だったと思いますが、いかんせん人間中心的であり、そうした<人間中心主義>はここでも崩れ去ったということなのでしょう。そういえば、昔は進化の系統樹でも、霊長類がいちばんてっぺんで威張っていましたね。

(でも考えてみたら、宇宙論における<人間原理>って、究極の人間中心主義ですよね。何となく「全ての動物は人間のために神が作られた」という主張と似た匂いがします。高みに立って反論を許さないのも、疑似神学っぽい感じ。)

クラゲは魚。英語でもジェリーフィッシュですから、この辺は洋の東西を問わない共通感覚なのでしょう。海を泳げばみな魚。(本草学では人魚も魚扱い?)

>食品の付録にこのようなグロ

(笑)当時の人はどう感じたんでしょうね。博物学全盛の時代だったら、こうした分類し、命名し、枠に収めるという、一連の博物学的手続きにより、グロさが浄化されたのかもしれません。

_ S.U ― 2009年08月20日 21時56分44秒

おぉ、「人間原理」ですか。クラゲの分類の問題も奥が深いですね。
人間原理は、哲学の問題かもしれませんが、そういうことを議論させられるとなると、宇宙・物理学にとっては目の上のタンこぶの一つだと思います。進化学においてもそうかもしれません。

一般に、東洋哲学では、人間世界は宇宙や自然と同じ原理で動く縮図ですから、宇宙の仕組みと人間の存在がつながっているのは当然なのですが、現代の物理学の発展で、自然界の法則は人間界の法則からかけはなれたものであるにもかかわらず、人間の生存には絶妙に都合がよい、という乖離を目にして、人間原理が生まれたのでしょう。結局は、「人間が宇宙に合わしている」のか「宇宙が人間に合わせてくれた」のか、の違いが、東洋と西洋の考え方の違いとしていまだに残っているということなのでしょうか。でも、事実として、物理定数の選択の絶妙さを見ると、東洋哲学で人間原理に抗うことはなかなか容易ではないように思います。

_ 玉青 ― 2009年08月21日 06時42分44秒

一人ひとりの個人と同じく、人間という種全体も、自己中心性を脱却し、より開かれた存在になっていくプロセスの中に成長がある…のかもしれませんね。

コペルニクスを受け入れ、ダーウィンを受け入れ、自分自身が多様な存在の中の “one of them” に過ぎないという、ビターな認識を重ねつつ、しかもその中で自分の価値をどう見出していくか。

人間原理は、ある特定の視点から見れば真理なのでしょうが、この宇宙を含むマルチユニバースの多様性が十分理解されてくれば(いつか理解されるんでしょうか?)、やはり偏頗な思考であったとみなされるんじゃないかという気が―これは過去からの単純な類推に過ぎませんが―何となくします。

まあ、地球は宇宙の中心ではないにしろ、それでも十分興味深い存在であることに変わりありませんし、この宇宙も、我々にとっては宝石のように貴いものであることは永遠に変わらないのでしょうけれど。

_ S.U ― 2009年08月21日 23時11分44秒

他の宇宙の姿を覗き見出来るようになるとはなかなか思えませんが、素粒子物理がもう少し進歩すれば、宇宙としてどのようなパターンが生じうるか、ということが解明される可能性はじゅうぶんにあると思います。

 しかし、人間原理の難問はむしろ「人間」のほうで、物理定数が違う他の宇宙にあっては、原子も光もなく、時空間の構造も違うとして、そこで精神活動のできる「人間」がどのような形態で存在しうるか、これはもう、管クラゲの奇抜さどころではないはずで、物理学よりもはるかに難しい問題であると思います。

_ 玉青 ― 2009年08月22日 07時38分39秒

想念が一気に膨張してしまいましたが、まずは、この宇宙における他の精神を理解することが、いやそれよりも、この惑星における他の精神を理解することが先決問題ですね。
それとも、まずは自分の精神を理解することが先?
…ここまでくると、例の世界と認識者との関係の問題が頭をもたげ、宇宙論と認識論がピタッとひっついて、グルグル回りだしてしまいますが、たぶん、このグルグルするところが、人間精神の一つの特徴なのでしょう。(←分かったような、分からないような…)

(まあ、優先度としては、同居人の精神を伺い知ることが、当面する第一の課題じゃないの?という内なる声も聞こえます・笑)

_ shigeyuki ― 2009年08月26日 00時05分15秒

クラゲって不思議ですよね。
何なんでしょうね、あれ。
最古の生物のひとつだとか聞きますが。
ヒドロ虫もそうですけど、海の中の生物は、なんだか正体不明な、ぐにょぐにょしたものが多いですよね。海は、そうした柔らかさが、最も強くなる環境なんでしょうが。見ていて、楽しいです。

でも実は、クラゲは水族館とかで見るのはライトアップとかされててきれいだと思いますが、実際のところ、海で見ると恐怖以外は感じないですね。結構早く泳ぐんで、うわ、寄るな、って。この辺のギャップも、いかに人間がその状況しだいで勝手なことを言うかという、その手短な証拠なのでしょうね(笑)。

_ 玉青 ― 2009年08月26日 20時02分23秒

野生のクラゲは、水族館のガラス越しに見るのとは違う!
…体験に裏打ちされた、力強い言葉ですねえ。
砂浜にだらしなく打ち上げられたクラゲぐらいしか見たことがないので、見くびっていましたが、彼らは泳ぎがけっこう達者なんですね。イルカと戯れるように、クラゲたちと戯れる…んー…何だか面白そうな気もしますが、やっぱりちょっと怖いかも。

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