夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(5)2013年02月27日 21時32分16秒

賢治と抱影のかかわりは、実は戦前ないし戦中に遡りそうだ…ということを、コメント欄でS.Uさんにお教えいただきました(どうもありがとうございました)。

昭和28年に草下英明氏の『宮沢賢治と星』が出た際、抱影がその感想を、自分の弟子でもある草下氏に葉書で知らせて寄こした…ということを、先日記事に書きました。のみならず、実は抱影はこの本の序文も書いており、その中で「自分は以前賢治全集のために天文関係の言葉に註を付けたことがある」旨を書いているというのですが、この抱影の序文自体、学藝書林から出ている再版本からは割愛されているので、一般の目に触れることはごくまれだと思います。もちろん私にとっても初耳の情報でした。

抱影と賢治のかかわりを考える上で、これはきわめて貴重な資料と思いますので、S.Uさんからお送りいただいた問題の序文を、以下に掲げます。

 「宮沢賢治氏の詩や童話に、星座と星が実に自由に、時には奔放に採り入れられていることは、私たち天文ファンを常に驚嘆させる。而も日本に於けるこの趣味の萌芽期に、「銀河鉄道の夜」「よだかの星」などの名作を書いた博識とファンタジーとは永く記憶さるべきだろう。私は曾って藤原嘉藤治氏から依頼されて、全集のために天文関係の言葉を註解した。しかし屡々迷路を引き廻されたり、氏の創作らしい星座や星にもぶつかって、疑問に残ったものも少〔すくな〕くなかった。

 ところで草下英明君は、学生時代から賢治氏の文学に傾倒して、特にその天文知識から、年来全作品に現れている星座と星とを熱心に探り、その典拠をも考証し、進んでは氏の旧居を訪ねて遺稿から新事実さえ発見している。こうして様々の面よりする解釈と鑑賞とを収めたのが本書である。これが賢治研究の上に、従来の遺漏を充たしながら新たに読者を啓発するのは勿論、独立した読物としても楽しく清新であると私は信じている。」

抱影は私信の中でもかなりキツイことを言っていましたが、ここでも「迷路を引き廻されたり」とか、「疑問に残ったものも少」なからずあったとか、賢治の天文知識に厳しい注文を付けています。

なお、ここで藤原嘉藤治から依頼があった全集というのは、同氏が編集にかかわった文圃堂版(昭和9~10、全3巻)、十字屋版(昭和14~19、全6巻)のいずれかを指しますが、終戦前に出た賢治全集はこの2種類だけです。そして、十字屋版は文圃堂版から譲られた紙型を流用しているそうなので、要は十字屋版を見れば、抱影の註解の内容も分かるのではないかと思います。

私なりに、現在、自助努力中ですが、もし十字屋版全集をお持ちの方、あるいはこの件について既にご存じ寄りの方がいらっしゃいましたら、抱影による註解の実際をお教えいただければまことに幸いです。

   ★

さて、以下は純然たるおまけ。
「はたして賢治と足穂はどこかで行き会ったことがあるのかどうか?」

両者の行動範囲を考えると、両者が出会う可能性があるのは東京以外にありません。
大正~昭和にかけて、二人は何度か東京で過ごしているので、偶然街路で行き会ったとしても決して不思議ではないはずですが、しかし両者の年譜を突き合わせると、奇妙なほどすれ違っていることに気づきます。

足穂の初上京は大正8年の3月です。彼は関西学院卒業と同時に、東京羽田の自動車学校に通って車の免許を取るというハイカラぶりを見せました。
賢治の方も前年の暮れから、病気療養中の妹トシに付き添って滞京していましたが、ちょうど足穂と入れちがいに花巻に帰ったので、このとき両者が出会う可能性はありません。

賢治が再度上京したのは大正10年のことで、このときは日蓮宗系の国柱会に出入りしながら、1月から8月まで東京で過ごしました。しかし、足穂はこの時期、ちょうど地元に戻っていて、再度上京するのは同年9月ですから、これまた出会う可能性はありません。

残された可能性は、賢治がそれぞれ1か月足らず滞京した、大正15年(=昭和元年)と昭和3年に限られます。
大正15年の12月、賢治はタイピスト学校に通ったり、オルガン・チェロ・エスペラントを習ったり、はたまた築地小劇場や歌舞伎座に出かけて観劇を楽しんだり、東京中を忙しく歩き回っていました。昭和3年も似たような感じで、文字通り寝食を忘れて、文化的刺激の吸収に余念がありませんでした。
いっぽうの足穂は、『星を売る店』(大正15)、『第三半球物語』(昭和2)、『天体嗜好症』(昭和3)と、珠玉の作品集を立て続けに刊行し、まさに若き日の絶頂期にあった時期にあたります。
賢治もことさら先鋭的なものに目が向いていた頃ですから、あるいは足穂の名前を耳にしたことがあったかもしれませんし、街ですれ違ったことだって、ないとはいえません。

二つの巨星のコンジャンクションが現実にあったかどうかは永遠の謎ですが、「あった」と想像するのは楽しいことです。そして、少なくとも二人が同じ街の空気を吸ったことがあるのは確かな事実です。

コメント

_ S.U ― 2013年02月28日 06時31分54秒

賢治と足穂の「コンジャンクション」を考えるのは楽しいですね。ありそでなさそな...といった趣です。

 直接会っていた可能性はそんなに高くないにしても、、賢治が足穂の名を知っていたというのは考えられそうです。
 足穂が作品を発表していた雑誌は、「婦人公論」、「中央公論」、「新青年」、「新潮」など、名前から感じるところどれも相当メジャーで、文芸雑誌といえば当時の代表格であったのではと思いますが、どうなのでしょうか。仮に、賢治が足穂作品を読んだとすると、二人が童話やファンタジーを量産していた1923~25年頃が考えられますが、これだと賢治は花巻ですから、書店か図書館で読んだとせねばなりません。当時の地方で、愛好家が主だった文芸雑誌を毎号チェックすることが行われていたのでしょうか。

 もう一つのルートとして、賢治の知り合いの誰かが足穂を紹介、というのが考えられます。この方向があれば誰かが賢治の文学的交流として研究していそうなものですから、そういう話がないということは最早そういう方向は考えにくいということかもしれません。

_ 玉青 ― 2013年03月01日 05時56分43秒

あまり意識していませんでしたが、お知らせいただいた雑誌名を見ると本当にメジャーどころばかりですねえ。戦前の足穂は、別に「サブカル的人気」を博していた作家ではなくて(そんなイメージが何となくありましたが)、ふつうにメジャーな存在だった…と見た方が適切なんでしょうか。

以前、少年向け科学雑誌の読者投稿欄を中心として、各地の理科少年の自生的ネットワークが形成されていた事実に注目した記憶があります。きちんと調べたわけではありませんが、例示いただいた雑誌についても、戦前はおそらく類似の状況が存在したはずで、地方在住の知識人にとって、中央の文芸誌・思想誌を購読することは、自らのアイデンティティ確認のために必須の行為だったのでは…と想像します。

となると、賢治が足穂の作品にリアルタイムで触れた可能性は高く、賢治も人の子ですから、4歳年下の流行作家の存在に、ちょっと羨望を感じたり…ということもあったかもしれません。まあ、この辺はすべて想像で語っていますが、想像力をいたく刺激されるテーマではありますね。

_ S.U ― 2013年03月02日 08時02分32秒

大正~昭和の時代の足穂は、「サブカル的」というのとは少し違って「新思潮的」というかもっと未来に開かれた分野に属すると見られていたと想像します。足穂自身の紹介するところによると、同年代の女性ややや若い男性にファンがあったようです。「婦人公論」に童話を載せていたのは、児童向けという理由の他にも新しい思想の女性向けということもあったのだろうと思います。

 「未来派」だと受け取れば、昭和初期までの大勢の人の志向に合っていたのでしょうが、一般の人にどれほど足穂が知られていたかは、今となってはもはや想像すら出来ません。その後、「弥勒」がヒットした以後はファン層の観点が「哲学的な難しいことをいう人」に変わってしまったと思いますが、そこでファン層も入れ替わったかもしれません。

_ 玉青 ― 2013年03月03日 11時30分25秒

>新思潮

「未来派」とともに、時代をよく表す言葉ですね。タルホの立ち位置が分かる気がします。
当時、タルホが時代の寵児として歓迎されたとすると、一つ分からないのは、なぜ彼の亜流が登場しなかったかという点です。後世、足穂の世界観を受け継ぐ表現者が数多く現れたことを考えると、ちょっと不思議な気がします。それとも登場したんだけれども、時代とともに埋没してしまったんでしょうかねぇ。

_ S.U ― 2013年03月04日 07時31分41秒

>彼の亜流
 うーん。足穂の亜流というのは聞きませんね。衣巻省三、石野重道はそこそこ知られているみたいですが、これらの人は、足穂と影響し合った学校仲間ですから「同流」というべきですしね。

 とても文学史評をするだけの知識はありませんが、省エネ考察をすると、追随する亜流が出なかったのは、時代的なもの、すなわち日本社会の文化的事情が関東大震災以降悪くなったこと、幻想文学が怪奇小説、探偵小説と同一ジャンルになって肥大化したのに新人が取られたこと、が考えられるのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2013年03月04日 21時06分07秒

戦前の足穂が同時代人にどう評価されていたのか、改めて考えると、分かっているようで分からない部分が多いですが、幻想文学が結局「昭和エログロナンセンス」に絡め取られた…というのは、ありそうな話です。戦前にあっては仇花、本格的な開花まではずいぶん時日を要したということかもしれませんね。

_ S.U ― 2013年03月04日 22時02分46秒

 足穂の跡を継ぐべき新人が絡め取られたというのはあながち間違ってはいないと思いますが、当時の足穂愛好家にはまた別の弁護が必要な気がします。

 二世代前のことなど考えてわかるはずもないのですが、思うに、足穂文学は、そもそもは日常の感覚に美学や幻想的な心理のアヤを見いだすもので、そのファン層は案外古いパターンの人、すなわち晩年の漱石とか芥川龍之介の路線上にあったのではないかと思います。足穂のファンが夢野久作や江戸川乱歩のファンと同一であったとはあまり思えないのですが、どうでしょうか。足穂文学が漱石や芥川の延長というのではなく、ファンがそうだというのです。

 こうしてファンの立場から見ると、足穂の亜流が出なかったのもなんとなく説明できそうな気がします。芥川を読み、足穂を読み、次に何を読むか、私にはわかりませんが、亜流に親しむことなく、メジャーな路線の文学に戻って行ったと考えてよいのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2013年03月05日 20時22分45秒

足穂は純文学として受容されていたのでは、という視点ですね。
改めて当時の雑誌で足穂がどんな扱いだったか見てみようと、手っ取り早く「日本の古本屋」で古雑誌を探してみました。

たとえば、『新小説』(大正15年4月号)は、「明治大正文芸運動大観」という特集を組んでいますが、そこには、木村穀の「社会主義文学一瞥」、青野季吉の「プロレタリア文学運動概説」といった記事と並んで、足穂による「芸術派の意義」という一文が載っています。どうやら足穂は、当時「芸術派」の頭目と見なされていたようです。

さらに、昭和4年に出た『中央美術』(15巻4号)には、「超現実主義の研究」という題目の下、「白の廃頽 北園克衛(稲垣足穂へ)」という一文が載っており、翌年、「超現実主義研究号」と銘打った『アトリエ』(7巻1号)誌の中でも、内容不明ながら足穂が取り上げられています。その辺からすると、「芸術派」の中でも、彼はシュールレアリストと目されていたのでしょう。

かと思うと、吉行エイスケが大正15年に出した雑誌『虚無思想』の創刊号にも、なぜか辻潤、今東光、小川未明らと並んで足穂の名があります。

当時は思想の時代、イズムの時代でしたから、足穂が関わった芸術・文化運動にしても、モダニズム、ダダイズム、シュールレアリスム、アナーキズムと多様だったでしょうが、この辺の並びを考えると、足穂の亜流が何故いなかったか分かるような気がします。

つまり、後世の我々は当時の足穂を、そびえ立つ独立峰のように感じますが、当時の人からすれば、足穂も有象無象の「新しい作家」の一人に過ぎず、ひょっとしたら足穂自身が亜流視されていた可能性すらあるかもしれません。そして、「新しい作家」はまさに「新しさ」が身上ですから、それを模倣したのでは、目新しくも何ともないので、模倣する意味がなかった…ということではないでしょうか。

S.Uさんが仰るように、足穂は軽文学よりは純文学、そのうちでもいわゆる「尖端的かつ実験的な作家」という位置づけだったとみるのが至当のようです。まあ、文学史の常識に暗いので、以上のことは全然的外れかもしれないのですが、とりあえずのショートレポートとしてご参考までに。。。

(別件ですが、ご恵送いただいた冊子、無事落手しました。どうもありがとうございました。)

_ S.U ― 2013年03月05日 21時36分20秒

 おぉ、「日本の古本屋」で当時の雑誌の目次までわかるのですか!
 自分で言い出しておいて、わけがわからなくなって申し訳ないですが、おっしゃるところを良く解釈すると、当時は純文学がなぜかキラキラと未来に向かってオープンエンドになっていたけっこうな時代だったのでしょうね。そのうちの多少輝き方の違うのがタルホだったのでしょう。

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