賢治の抽斗(第6夜)…法華信仰の世界(前編)2013年06月24日 21時40分15秒

朝方は雨。仕事帰りには、澄んだ青空と茜の空がまじりあって、そこにいろいろな種類の雲が、まるで「雲の見本市」のように浮かんでいました。とても爽やかな夕暮れ空でした。

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鉱石、天体、音楽…ときて、最後は賢治にとって最も重要な、「宗教」をめぐる話題です。我ながら、天文趣味や理科趣味とどうつながるのか、よくは分かりませんが、おそらく大事な話題だと思うので、少しずつ綴っていくことにします。

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賢治が「雨ニモマケズ」をメモした、有名な手帳があります。

(『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』より)

あの、詩とも、随想ともつかぬ一文の後ろには、実は「南無妙法蓮華経」の文字を中心に、日蓮宗が本尊とする、いわゆる「板曼荼羅」の一部らしき仏や菩薩の名号が書き付けられています。

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賢治の家はもともと浄土真宗の篤信者でした。
賢治自身も、その弥陀専一の教えに、己の道を見出そうと努力した形跡があります。
しかし、青年期の煩悶や、家族との葛藤はなかなか深いものがあり、盛岡中学時代(今でいう高校生の年代です)には、西洋哲学書を耽読したり、曹洞宗の住職について参禅したり、いろいろ精神的試行錯誤を重ねていました。
そして18歳で旧制中学を卒業し、将来への展望も見えず、重苦しい苦悶にとらわれていたときに出会ったのが、法華信仰でした。

賢治はこの後、父から盛岡高等農林への進学を許され、科学の徒への道を踏み出しますが、法華経への信仰は、その後も陰に陽に、終生彼について回りました。

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話があちこちして申し訳ないですが、昔、「銀花」(1993年第94号、現在は休刊中)を読んでいたら、出久根達郎さんによる古本屋散歩の記が載っていて、そこに賢治の「国訳妙法蓮華経」が写真入りで紹介されていました。


その説明文には「宮沢賢治は、臨終に際し、自身が現代語訳した法華経を、翻刻して知己に頒布するように遺言した。没後、弟、宮沢清六さんの手で刊行され、知友百人に配られたものという」云々とあって、私はかなり長いこと、その記述を信じていました。

しかし、この「自身が現代語訳」というのは事実ではありません。

(この項つづく)

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