細見・味噌蔵町小学校2013年07月03日 19時52分00秒

雨脚が強まってきました。
梅雨の夜話に、今日は2連投です。まずは1本目。

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一昨日ご紹介した味噌蔵町小学校の理科室。

昭和編の方は、明治との時代差を見る目的で掲出したのですが、教室そのものに注目すると、コメント欄で蛍以下さんが仰ったように、これはなかなか素敵な理科室なので、改めて細部に注目してみます。
以下、図中に数字を振ったので、画像を拡大してご覧ください。


の凝った機械は、当時の理科室が誇ったハイテク装置、大型の実験用電源装置です。実験内容に応じて、交流・直流別に一定の電流・電圧を作り出し、各実験机に供給するためのものです。この装置にもいろいろなグレードがありましたが、この味噌蔵町小のものは、操作パネルの複雑さから想像するに、最も強力な部類だと思います。

は隣接する理科準備室への扉でしょう。
立派な理科準備室がありながら、(人体解剖模型)(人体骨格模型各種標本備品棚)が理科教室に置かれていたのは、先生の教育方針もあったかもしれませんが、備品自体の量が多くて、準備室に収まりきらなかったことをうかがわせます。
それぞれのケースや棚の造作も非常に立派ですし、同小学校は、少なくとも理科室には相当お金をかけていたようです。

いちばん感心したのは、実験机で、危なくないように、角に丸みを持たせてある(いわゆるアールが付いている)ことです。こうしたタイプの理科室机は、他に見た記憶がありません。椅子も、回転させることで高さを調整できるタイプのように見えますし、こういう細かい工夫は、子供本位で考える人でないと、なかなか発想が浮かばないと思うので、味噌蔵町小学校の設計・デザインをした人の優しさを、そこに感じます。

そんなこんなで、これは文句なしに良い理科室だと思います。

「おじいさんが子供だった頃は」…歴史を生きるということ2013年07月03日 20時02分03秒

(2連投の2本目です。)

一昨日の記事には、もう1つS.Uさんから素敵なコメントが付きました。

私自身は、「今」と「昔」という、本来非対称なものを、あたかも対称的なものとして語る思考の雑駁さを、いくぶん咎めだてする意図で、あの記事を書いたのですが、S.Uさんは、そこにちょっとした工夫さえあれば、そうした「昔がたり」は、むしろ生き生きした、豊かな歴史イメージを喚起しうるものだ…ということを、実例を挙げて教えてくださいました。

曰く「お父さんが子どもだった頃は…」、「おじいさんが子どもだった頃は…」、「ちょんまげを結ってた頃は…」、「これは、わしが祖父さんから聞いた話じゃが…」、etc。

ええ、確かに私が子供のころは、そういう語り聞かせがあった気がします。きっと、今でもあるのでしょうけれど、私自身は、最近そういう手間を惜しんで、単に「昔は…」で済ませがちなので、上の批判は、実は過半が自己批判でもあったわけです。

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S.Uさんのコメントを読んで、鮮やかに思い出したエピソードがあります。
以前、失われた化石記録(講談社現代新書、1998)という、初期の生命進化を扱った本を読んでいて、大いに感銘を受けた話です。



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この本の著者は、J.ウィリアム・ショップというUCLAの古生物学の先生で、上でいうエピソードとは、ショップ氏の個人的な思い出ばなしとして、p.160以下に出てきます。

(ジェイムズ・ウィリアム・ショップSchopf (1941-) 出典:上掲書)

ときは1976年。
当時、オパーリン ― 生体を構成する物質の「分子進化」を詳述し、生命の起源を解き明かす上で指導的役割を果たした、あの偉大なロシア(旧ソ連)の生物学者が、UCLAの客員教授として、ショップ氏の研究室に2か月間滞在したことがあったそうです。
 
(アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・オパーリン(1894-1980)
出典: http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Oparin )

ショップ氏と10人あまりの学生たちは、毎週1回、オパーリン夫妻と昼食を共にする習慣があり、あるランチの席上、この碩学は自分がどうして生命の起源に関心を持つようになったのか、親しく語ってくれたそうです。
以下、長文ですが、その内容を引用します(一部漢数字をアラビア数字に改めました)。

「ヴォルガ川に沿ったモスクワの北方、木造家屋、農民市場、ガス灯、馬引き荷車、どろんこ道などのあった田舎の中心地のひとつウルグリッチに暮らしていた若い頃、オパーリンは植物学に熱い興味を抱いていた。その土地の植物を収集し、植物の生長に関する簡単な実験さえ行っていた。

 1912年に国家試験に合格し、モスクワ州立大学に在籍する機会を与えられた。ここは今日でも、全ロシアの高等教育でもっとも名高い機関である。その年の春、高校の理科の教師は、彼が大学を訪問する手はずを整えてあげた。しかし指定された日、二人は朝の汽車に乗り遅れて遅刻してしまい、講義をひとつしか受けられなかった。

 ひとつの授業だけ聴講する機会が与えられたオパーリンは、当時一流のロシア人植物学者K・A・ティミリャゼフ(1843-1920年)の授業を選んだ。オパーリンは常日頃、有名な植物学者にして古典的教科書『植物の生』の著者について話していたので、この選択は高校教師にとって驚くものではなかった。ちなみにオパーリンはこの本をそらんじていた(そして著者を「最高の先生」としてとても尊敬していた)。そのうえティミリャゼフ教授は70歳近い年齢であったにもかかわらず、科学を分かりやすく説くのには定評があり、一般を対象にした情熱的な講演で広く知られていた。また革新的なダーウィン主義者でもあった。この考えは帝政ロシアではあまり支持されていなかったのだが、若きオパーリンをたいそう魅了した。
 

(クリメント・アルカディエヴィッチ・ティミリャゼフ(1843-1920)
出典: http://en.wikipedia.org/wiki/Kliment_Timiryazev )

 ティミリャゼフは、自分がいかにしてダーウィンの見解を支持するようになったのかという話を講義で行った。『種の起源』出版のわずか10年後に、当時モスクワ州立大学の大学院生になったばかりのティミリャゼフは、ロンドン郊外のケントにあるダウンハウスまで、偉大なるナチュラリストに会いに行こうと旅をした。ここはダーウィンの20エーカーもある田舎の土地で、ゆるく傾斜した丘の中腹にあるので「ダウン」と呼ばれている。

 
(チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1882)
出典: http://en.wikiquote.org/wiki/Charles_Darwin )

 ダーウィンは中年以降しばしばそうだったが、この時も病気で、訪問客を受け入れていなかった。しかしティミリャゼフは諦めようとしなかった。ラクステッドロードのパブの2階に部屋を借り、1週間以上も毎日通って、玄関前の階段に座って辛抱強く機会を待った。ついにダーウィンは若きロシアの学者に面会する機会を与えてやった。二人はダウンハウス裏の、ダーウィンが何かを考えるときによく歩いた「砂の散歩道」に肩を並べ、進化について話をした。ゆっくりとした散歩が終わるまでには、ティミリャゼフは確信していた。ダーウィンは正しいに違いないと。

 若きオパーリンは魅了され、彼もまたすぐに確信した。しかしティミリャゼフ教授の話に耳を傾けていたとき、この理論にぽっかり開いた穴のようなものがあるのを彼は見抜いた。ダーウィンは動物の進化をみごとに扱い、ティミリャゼフは植物の進化を扱った。しかし、動物や植物はどこから来たのだろうか。「ダーウィンは本を書いたけれども、最初の一章が欠けている」、そうオパーリンはその日の昼食時に学生に語った。学生たちは、彼が生命の歴史のこの失われた第一章を書くために、いかに長い研究人生を捧げてきたかを語ったとき、すっかり魅了されてしまった。」

ショップ教授は、この経験に強烈な感動を覚え、一文をこう結んでいます。

「その昼食会を私はありありと思い出す。その場にいた学生と私は、自分たちをダーウィンの真の学問上の弟子の内に数えることができるのだと思った。驚くほど短い人間の相互関係の糸によって、幾世代かが結びつけられているのだと感じた。年老いたダーウィンから若き日のティミリャゼフヘ、熟年のティミリャゼフから向上心に燃えた若きオパーリンヘ、初老のオパーリンからランチテーブルを囲んだ者たちへ。ぞくぞくしてくる。」

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歴史とは本の中にあるのではなく、この我々が生きている世界の中にある。
いや、世界そのものが歴史なんだ…ということを、子供たちは、生きた「昔がたり」から学んでほしいと思います。

たとえ、それがダーウィンのような偉人の登場しない、もっとささやかな昔語りであったとしても、「自分も歴史のひとこまなんだ」と気づくとき、子供たちは非常に感動するでしょうし、自分が生きる意味を、それぞれに感じ取ってくれるんじゃないでしょうか。(もちろん、子どもばかりでなく、大人だってそうでしょう。若き日のショップ氏と学生たちがそうであったように…。)