博物学の「目的」とは?…カテゴリー縦覧:博物学編2015年05月04日 19時38分37秒

博物学の目的とは何でしょうか?
博物学というのは、人間の純粋な好奇心の発露ですから、強いていえば「知ること」それ自体が目的だということになります。

ところが「教育」というのは、どうもそれだけでは済まなくて、何か立派な目的がいるわけですね。先日、明治時代の教科書を開いたら、そのことが冒頭に出ていて、驚くと同時に、面白いと思いました。


上は明治30年代に、旧制中学校(すべて男子校です)や高等女学校で用いられた「博物」の教科書。


戦前は「博物」という授業がありました。当時の教育者の中には「博物」と「博物学」は違うと主張した人もいますが、上の表紙には「Natural History」と明記してあるので、まあ一般的には同じと解していいでしょう。

「博物」は、動物学・植物学・鉱物学の基礎を学ぶ科目で、これは自然界に存在するものを、これら3つの「界」(動物界、植物界、鉱物界)に区分して把握するという、古い古い三界説の伝統を引くものです。

そして、戦前の中等教育における理科のカリキュラムは、「物理・化学」とこの「博物」のペアから構成されており、それぞれが今の「第1分野」「第2分野」の淵源になっています。

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さて、その博物の教科書を編むにあたり、ドイツ留学中の気鋭の理学士・藤井健次郎(後に東京帝大教授)は、博物学の目的を以下のように宣言しました(平仮名表記に直し、適宜句読点を補いました)。


第一 動植鉱物学を修むるの階梯〔基礎〕を与ふること
第二 理学的思想を与へ、迷信を去ること
第三 観察力を養成し、五官の機能を完全ならしむること
第四 他の諸学科と相待ちて、思想発達上に於て偏頗〔偏り〕なからしむること
第五 親しく自然界を観察して、其完全なる理会〔理解〕を為さしめ、天然物を愛するの心情を喚起し、自然の美を認識し、優美高尚の性を得しむること
第六 実験によりて道理に基ける確信の道を開き、徳性を涵養すること
第七 天然物に就きて利用厚生の道を覚(さと)らしむること

何だか分かったような分からないような話ですが、博物の授業は、立派な人格を形成するためにあるという、道徳教育的な目的がそこに大きくかぶさっているのは、今の目から見ると一寸不思議な気がします。


さらにこれに続けて、この目的を敷衍し、より理解を全きものにするため、このような道歌めいた詩句が書かれています。

  完全無欠不足なき 天然界のさま見れば
  胡蝶も花も塊(つちくれ)も 天地万物それぞれに
  互に依りつ助けつつ おのがむきむき様々に
  所得ぬものなかりけり。

  動植鉱物さまざまに 優り劣りの差(しな)あれど
  同じ天地の物なれや 中にすぐれて霊長と
  世にもいはるる人々よ 天地の広き心もて
  天然物を愛すべし。

  少しの草木むしけらも みだりに折らず捕へずに
  おのもおのもに所得て 皆それぞれに其生(しょう)を
  全からしめ遂げしめよ これ万物の霊長の
  人の人たる徳ならん。

万物の霊長の責務として、自然界のすべてを愛し、慈しみ、いたずらにその生を奪ってはならない…。人間を「高貴な存在」と見て、一種のノブレス・オブリージュ(高貴なる者が負わねばならない義務)を課す考えです。これは今でも一部に共感を誘う考え方でしょう(賛否はあると思います)。

さらに興味深いのは、第一段にうたわれている「相互依存」の考え方です。
これは、19世紀ドイツの理科教育者ユンゲが唱えた「生活共存体」説に由来し、それが明治半ばの日本にも輸入されて、一時はだいぶ流行ったものらしいです。

地球上のすべての生命(さらに鉱物)は互いに依存し合い、有機的な全体を構成している…というのは、今でも「ガイア説」などに生き残っていて、いわゆるエコ・ムーブメントの根本教義の1つだと思います。それをあながちに否定する根拠もありませんが、上記のような歴史的外延を知っておくことは、議論に一層広がりを生むものと思います。

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博物の教科書1冊からも、いろいろなことに連想が及びます。
人間と自然の関係、その関わりの歴史、さらに人間と自然の関係をある時点でどう概括するか、まあ、あまり大きなことをこのブログで論じてもしょうがありませんが、興味深い題目であることは間違いありません。

この教科書をめくっていると、他にもいろいろ面白い点が目につくので、もう少し内容を見てみます。

(この項つづく)