「リアル」な自然とは…GW雑感2015年05月03日 19時45分26秒

今日は憲法記念日。
憲法をめぐっては、従来からやれ改憲だ、護憲だと議論があり、最近は「加憲」という妙な言葉も耳にします。

憲法というと、私は昔社会科で習った「あたらしい憲法のはなし」というのを懐かしく思い出します。これは昭和22年(1947)、まだ焦土の広がる中、文部省が出した子供向けの新憲法解説書です。その全文を青空文庫で読めることを先ほど知って、生まれて初めて、その全文を読んでみたんですが、何と言いますか、本当に時代というのは変るものだなあ…と痛切に感じました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

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ここしばらくは、例のタルホ関係の計画で脳内が満たされていて、なかなか文章を綴るどころの段ではありませんでした。しかし、この辺でちょっと一服して記事を書きます。

先日、ジャネット・マーシュの水辺の絵日記』の記事にコメントをいただき、個人的な自然体験のことが、ちょっと話題になりました。蛍以下さんからは、1980年代に遊びの世界が激変して、子供たちがピコピコしたゲーム類に一気に呑み込まれていったことを告げられ、確かにと思いました。

そして1990年の湾岸戦争の際には、「戦争の映像がまるでゲームにそっくりだ!」、「いや、その言い方は倒錯している。ゲームの方が実際の戦争にそっくりと言うべきだ」…というような議論があって、リアルとヴァーチャルの境界が不分明になったことを強く実感しました。

親たちは、子供が現実とゲームの区別が付かなくなることをおそれ、自然体験教室などもなかなか賑わったのでした。そうした流れは今も続いていると思います。

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ヴァーチャルとリアルの関係。これは事新しい問題ではありません。

たとえば昔は文学がそうでした。
今は本を読むことが何となく良いこととされているので、ピンときませんが、明治・大正の頃は、息子や娘が文学書なんぞを読みふけっていると、親はずいぶん心配したものだそうです。柔弱で不健全なものというネガティブなイメージに加えて、文学の世界に沈潜すると、現実に不適応をきたすのではないかと憂えたわけです。後の映画やテレビもそうですね。

江戸の頃でも事情は同じです。
江戸後期の筆録『世事見聞録』には、「世の中が芝居の真似をするやうになれり」とあって、現実が歌舞伎の世界をなぞる世相を皮肉っていますが、これは江戸時代のこととはとても思えず、まるで今の世を諷しているようです。

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ここから私の連想は突如飛躍するのですが、ヴァーチャルな世界というのは、そもそも言葉の世界自体がそうなのではないかと思います。

ヘレン・ケラーが言葉を獲得した瞬間。
あれは感動的な場面で、あるいは人類の精神史においても、あれに似た瞬間があったのかもしれません。人間は言葉を獲得したことによって、自らの経験を自由に描写できるようになりましたが、しかし実は言葉の誕生こそ、人間が「生(なま)の現実」から切り離された、原罪的出来事でもあったのではないか…と、ふと思います。

青い空と白い雲を前にした時の経験と、「アオイソラ シロイクモ」というコトバは全然別物なのに、その区別を人は忘れがちです。これは、別に言語学とか、記号論とかの、ヤヤコシイ議論を持ち出さなくても、ちょっと立ち止まれば誰でも分かることです。にも関わらず、それを難しいものと感じるとしたら、それはかなり言葉に絡め捕られている証拠です。

そして更に一歩進めると、人間の感覚的経験そのものが、「生の現実」とは別物なんじゃないかということに思いが至ります。つまり、人間は最初からヴァーチャルな世界しか体験できない存在なんだ…という考え方です。もちろん、これには反論もあって、感覚を超えたところに「生の現実」があるわけではなく、感覚的経験を通じて世界は自ずと「立ち現われる」のだという人もいます。

確かに、原理的にヴァーチャルしか体験できないなら、ヴァーチャルとリアルの区別は元々意味がなくて、「人間の感覚を超えた真の現実」などというのは、エセ宗教家の寝言だということになります。でも、実はこの辺になると、言葉があまりうまく機能しないので、議論はすぐに上滑りして、肚に落ちる結論にはなかなかたどり着けません。

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結局何を言いたいのか、自分でも分からなくなってきました。
たぶんこういう議論をしたくなるのは、ここしばらく、自然を相手に「無心」になることから遠ざかっているせいだと思います。光る川面に目を細め、水草の匂いを嗅ぎ、魚の胴の手触りを確かめるときは、およそこんなことは脳裏に浮かばないものです。