自惚れ(うぬぼれ)を やめれば他に 惚れ手なし2018年04月07日 15時40分22秒

…という古い川柳があります。

アゴ足つきで遠い国から人を呼んできて、ひたすら日本を褒めてもらおうという、なんだか妙な番組がありますが(そのための人選がまた大変なんだそうです)、あれを見るたびに、この川柳を思い出します。

あんな夜郎自大的な番組を、汗水たらして作らなくても、もっと等身大の日本を見てもらって、いいところも、悪いところも、等身大の評価をしてもらえばいいと思うんですが、それだけの自信もないのでしょうか。

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そんなことを思ったのは、次のようなレポートを読み、「やっぱり見ている人は見ているな」と思ったからでした。



A Tour of Tokyo’s Bookstores(by Colin Laird)
 東京の書店めぐり(コリン・レアード)

古書検索サイトのAbeBooksが時々配信している古書関連ニュースのひとつで、その周辺的話題である古書店を紹介する内容です。

 「神保町は大学に囲まれた町で、町名は17世紀のサムライの名にちなむ〔註:神保長治という旗本の屋敷があったそうです〕。この地区は1913年の大火で焼け、その焼け跡から最初に復興した商売の1つが本屋であり、これは後に岩波書店へと発展した。
 その後、さらに多くの書店と出版社が続き、さらに喫茶店やバー、レストランも開店して、この町は読書家・蒐書家・学生たちの活動の中心地となった。今では約175軒の書店があり、そのうちの約50軒は古書専門店である。」

レポーター役のコリン・レアードさんは、この「愛書家の天国(pure heaven for booklovers)」を2015年に訪れ、何軒かの古書店主にインタビューして、記事をまとめているのですが、その前に、いかにも日本らしい読書風景を紹介しています。

 「多くの東京人は電車や地下鉄で移動するので、どこでも物理的な本を読んでいる人の姿を見かける。しかし、彼らが何を読んでいるのか知ろうと思っても難しい。多くの書店では本に専用のカバーをかけてくれるからだ。これには本を良い状態に保つことと、人出の多い街中の雑踏でプライバシーを護ることの二つの目的がある。また、本を「さかさまに」読む人の姿に慣れるまでに、しばらく時間がかかる。というのは、日本の本は読み手に対して、文章が右から左へ、そして上から下へと提示されるからだ。そのため日本の読者は、英語の本の読者なら本の裏表紙と考える位置から本を読み始めるのだ。」

なるほど。
ブックカバーの習慣も、文字の書き方も、今さら感はありますが、でもやっぱり英語圏の人からすると珍しいのでしょう。考えてみれば、漢文の本家・中国でも、横書きがスタンダードになって久しいですし、今や文字を縦書きするのは、日本の専売特許のようです(モンゴル語も縦書きですが、こちらは行が左から右に並ぶそうです)。

そして、電子書籍以外の本をわざわざ「物理的な本(physical books)」と呼んでいるのも、こちらからすると意外です。アメリカあたりでは、そんなに紙の本が減少しているんでしょうか。

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さて、コリンさんの古書店探訪記。
彼が紹介しているのは、老舗の一誠堂書店、小川図書、それから神保町を出て駒形橋の近くにある「Infinity Books」、それに日本橋丸善の中にある「ワールド・アンティーク・ブック・プラザ」の4軒です。

一誠堂は、明治36年(1903)に新潟県の長岡で創業し、後に神田に移転。関東大震災(1923)後に、最初に再建された書店の1つで、今や神保町の顔とも言える店です。

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…というところで、私の下書きは終わっています。
この記事を書きかけたのは、今から2年前です。何となく他のことを書いているうちに、記事にするタイミングを逃して、そのままになっていたのでした。

そのことを思い出したのは、今朝の新聞を開いたら、番組欄に「ニッポン視察団!こんなに豊かな食文化はない…私たちが毎日食べる“普通の食事”に今、世界が大注目!」というのが載っていて、それが3時間半もの時間を費やして放映されると知ったからです。

世帯のエンゲル係数が上昇し、子ども食堂に頼らざるを得ない今の日本。
「私たちが毎日食べる“普通の食事”」に、「世界」(とは何?)が「大注目!」しているとは思えないし、端的に言ってこれは虚言でしょう。でも、半ばウソと知りつつも、少なからぬ人が、この手の番組にチャンネルを合わせるのはなぜでしょう?

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2018年現在、改めて考えると、こういう日本スゴイ系の番組を、幼稚な夜郎自大番組と嗤うことは簡単ですが、その一方で日本人、特に若い世代の自己肯定感の低さや、自信の顕著な乏しさを指摘する記事に接することも多くて、この2つの現象をどう整合させるかが、悩ましい問題として残ります。

いちばんシンプルな捉え方は、ああいう夜郎自大的発想や発言は、極端な自信のなさの裏返しであり、それを補償するためにある…というものでしょう。もし、自分の価値の不確かさを補ってくれるものとして、人々がああいう番組を好んで見るのだとすれば、何だか涙ぐましい話です。

そして、ことはテレビに限らず、書籍にしても、評論家の言説にしても、人々が「日本スゴイ」的観念に縋(すが)りたいとき、その人の心中に分け入ってみれば、そこには非常に索漠とした不安が広がっているのではないか…と想像します。

さらに連想を進めれば、安倍政権を支持する心意にも、そうした要素があるのかもしれません。私はこれまで、安倍政権が日本の国運を傾けたことに、再三抗議してきましたが、視点を変えると、実は国の衰運に際会した人々の無意識こそが、安倍政権というダークなファンタジーを生んだのではないか…という疑念も湧きます。

もちろん、それによって現政権の正統性が示されるわけではなくて、人々の不安につけ入って、やりたい放題やっているとすれば、いっそうその罪は深いと言うべきでしょう。でも、普通に考えれば、安倍氏は自他の不始末によって、何度退陣してもおかしくないのに、いまだにあの顔をテレビで見るということは、そこに何か理性を超えた機序が作用しているのではないか…という気がするのです。いずれにしても、あの生命力は尋常ではありません。

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無意識の力と働きは正しく畏れるべきですが、それを理性に優先させては、人の人たる基礎が掘り崩されてしまうし、蛮勇を捨てて真の勇に従うことを私は欲します。