雨と月2020年06月14日 12時12分14秒

雨がやんで、少し空が明るくなりました。
それでも、空は依然として湿った灰色をしています。

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今は官許の旧暦がないので、何を以て正しい日付とするか、そこに確かな答があるわけではありません。それでも日めくりを見れば、旧暦の日付が載っています。

旧暦は、新暦のだいたいひと月遅れですから、梅雨の今頃は、例年だと旧暦5月に入って幾日か過ぎた時分にあたります。ただし、今年は4月と5月の間に「閏(うるう)月」がはさまったせいで、来週の今日(21日)から、ようやく旧暦5月が始まるんだそうです(今日はまだ閏4月の23日です)。

例年でいえば、旧暦5月はたいてい梅雨の盛りなので、5月には「雨月(うげつ)」の異称があります。そして「雨月」は「雨夜の月」も意味し、雨雲に隠れた月を偲ぶ語でもあります(俳句の世界だと、お月見の晩に限って言うので、秋の季語です)。さらにまた、上田秋成は「雨が上がり、おぼろな月が顔をのぞかせた晩に編纂したから…」という理由で、自らの怪談集を『雨月物語』と命名しました。

雨と月の関係性もいろいろです。
両者は人々の心の中で、反発し合いながらも睦み合うところがあって、文学上の扱いが、なかなかこまやかです。

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野口雨情の「雨降りお月さん」は、意味のよく分からない、不可解な歌ですが、私はずっと寂し気な「月の花嫁」が、雨の降る晩、天馬に揺られて空の旅路を行く場面を想像していました。そして、月に帰ったかぐや姫のことを思ったりしました。

たぶん、これは作者の意図とはずいぶん違ったイメージでしょうが、「雨情」と名乗るぐらいですから、彼が雨に思い入れがあって、月の横顔に麗人の姿を重ねて愛していたことは確かだという気がします。

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明月もよく、おぼろ月もよく、そして雨月もまたよいのです。

(月と流水紋。京都十松屋製の舞扇。いっとき月にちなむ「和」の品にこだわった時期があって、今もその思いは伏流水のように潺湲(センカン)と続いています。)

コメント

_ S.U ― 2020年06月15日 21時26分04秒

野口雨情は、私が在住する茨城県では、郷土(出身)を代表する偉人とされています。県自慢の文化人として、横山大観と双璧かもしれません。

 その代表作が「雨降りお月さん」で、確かによく意味のわからない詩ですね。こういう暗めな曲にわけのわからない詩というのは、ある一部の子どもの成長には欠かせないもので、こういう童謡を必要としている子どもたちは今も大勢いることと思います。楽しくて子どもに受けそうな曲ばかりの昨今の童謡界にはちょっと考えていただきたいです。

  脱線しますが、北原白秋作曲、弘田龍太郎作曲の「雨」(雨が降ります雨が降る・・・)も「暗い童謡」のベストです。こちらは今思えば謎でも何でもない詩ですが、子どもの時には、「べにおのかっこもおがきれた」は何のことやらさっぱりわかりませんでした。

_ 玉青 ― 2020年06月16日 06時38分16秒

心の表面ではなく奥底に触れることで、逆に心の表層にいろいろなイメージを喚起するタイプの作品って、確かにありますよね。音楽に限らず、文学や映像作品にもあると思います。そして、いろいろな人の、いろいろなイメージの奥に、やっぱり確かな真実がひそんでいる感じがあって、そこが名作の名作たる所以なのでしょう。

最近の子供向けの曲だと、「パプリカ」なんかは、そんな感じがありました。
https://www.youtube.com/watch?v=s582L3gujnw
あれもよく分からない歌詞でしたが、原爆犠牲者を悼む曲と言われたり、震災の津波犠牲者を悼む曲と言われたり、いろいろな解釈を許容しながら、明るい曲の奥に暗く悲しい感じを滲ませて、聞く人の心を揺さぶったようです。

>「べにおのかっこもおがきれた」

あはは。「うさぎ美味しかの山」とか、いろいろ子供を悩ます歌詞は多いですね。
私は「十五で姐やは嫁に行き、お里の便りも絶え果てた」という「赤とんぼ」の一節が、長いこと謎でした。

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