10×12=602020年09月21日 06時51分16秒

突然ですが、あれ?と思ったことがあります。
先日、コメント欄で「天文民俗」というワードが出て、それについていろいろ考えていたときのことです。

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暦の「えと」ってありますよね。
例えば、今年の「えと」はネズミ(子)だし、来年はウシ(丑)です。順番に並べれば、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二個。いわゆる「十二支」というやつです。

でも、「えと」は漢字で「干支」と書くように、正式にはこれら「十二支」と「十干」の組み合わせから成ります。十干の方は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十個あって、両者を組み合わせた「甲子(コウシ/きのえね)」とか「乙丑(イッチュウ/きのとうし)」とかが正式な干支です。そういう意味でいうと、今年は「庚子(コウシ/かのえね)」の年で、来年は「辛丑(シンチュウ/かのとうし)」の年です。


正式な干支は、全部で60種類あって、60歳の誕生日を迎えると――より正確には、数えで61歳になると――生年と同じ干支に戻るので、「還暦」のお祝いをするのだ…というのは、ご承知のとおりです。

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あれ?と思ったのは、十干と十二支を組み合わせたら、全部で120個の干支ができるはずだと一瞬思ったからです。実際には半分の60個しかないのは何故? 残りの60個はどこに消えたのか?

少し考えれば当たり前で、これは別に謎でも何でもありません。
十干と十二支を、順番に一つずつずらしながら組み合わせるとき、できるペアには或る制限があります。すなわち、十干より十二支の方が2個多いため、十干が一巡するたびに、ペアを組む相手の十二支は2個ずれる(=1つ飛ばしでペアを組む)ことになり、それが6巡すると元に戻って、その先はエンドレスだからです。

結果として、「甲、丙、戊、庚、壬」「子、寅、辰、午、申、戌」としかペアにならないし、「乙、丁、己、辛、癸」「丑、卯、巳、未、酉、亥」としかペアになりません。
全体の半分は永遠に結ばれぬペアだ――これが「消えた60個」の正体です。

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…というのは長すぎる前置きで、以下本題につづきます。

(年寄りは話がくどい、というのは事実です。いやだなあ…と思いますが、しょうがないですね。何せ事実なんですから。私は事実を尊びます。)

庚申信仰2020年09月21日 07時16分17秒

(今日は2連投です。前の記事のつづき)

その干支のひとつに「庚申(こうしん/かのえさる)」があります。
西暦でいうと、直近は1980年で、次は2040年。

ただし、干支というのは「年」を指すだけでなく、「日」を指すのにも使います。だから旧暦を載せたカレンダーを見ると、今日、9月21日は「丁卯」で、明日は「戊申」、あさっては「己巳」だ…というようなことが書かれています。

そういうわけで、庚申の日も60日にいっぺん回ってきます。近いところだと先週の月曜、9月14日が庚申の日でした。次は11月13日です。庚申塚とか、庚申講とか、いわゆる「庚申信仰」というのは、この庚申の日に関わるものです。

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庚申信仰について、ウィキペディアばかりでは味気ないので、紙の本から引用します。

 「〔…〕庚申(かのえさる)にあたる日には、特殊な禁忌や行事が伝えられている。とくに庚申の日に、眠らないで夜をあかすという習俗は、もともと道教の説からおこったものである。人の体に潜む三尸(さんし)という虫が、庚申の日ごとに天にのぼり、その人の罪を天帝に告げるという。そこで、その夜には、守庚申といって、眠らないで身を慎むのである。

〔…〕庚申待ちの礼拝の対象は、一般に庚申様と呼ばれている。しかし、もともと庚申の夜には、特定の神仏を拝んだわけではなかった。初期の庚申塔には、山王二十一社や阿弥陀三尊などがあらわれ、江戸時代になって、青面金剛(しょうめんこんごう)が有力になってくる。さらに神道家の説によって、庚申が猿田彦に付会され、道祖神の信仰にも接近した。

〔…〕庚申信仰の中核となるのは、それらの礼拝の対象とかかわりなく、夜こもりの慎みであったと考えられる。そのような夜こもりは、日待ちや月待ちと共通する地盤でおこなわれていたといえよう。」
 (大間知篤三・他(編)、『民俗の事典』、岩崎美術社、1972)

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引用文中に出てくる「青面金剛」の像を描いた掛け軸が手元にあります。(元は文字通り掛け軸でしたが、表装が傷んでいたので、切断して額に入れました。)


憤怒相の青面金剛を中心に、日月、二童子、三猿、それに二鶏を配置しています。
庚申の晩は、これを座敷に掛けて、近隣の者がその前で夜通し過ごしたのでしょう。といって、別に難行苦行というわけではなくて、ちょっとしたご馳走を前に、四方山の噂をしたり、村政に関わる意見を交わしたり、村人にとっては楽しみ半分の行事だったと思います。


線は木版墨摺り、それを手彩色で仕上げた量産型で、おそらく江戸後期のもの。
改めて庚申信仰を振り返ってみると、

○それが暦のシステムと結びついた行事であること、
○道教的宇宙観をベースに、人間と天界の交流を背景にしていること、
○日待ち・月待ちの習俗と混交して、日月信仰と一体化していること、
○夜を徹して営まれる祭りであること

…等々の点から、これを天文民俗に位置づけることは十分可能です。まあ、この品を「天文アンティーク」と呼べるかどうかは微妙ですが、このブログで紹介する意味は、十分にあります。

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ところで、手元の品を見て、ひとつ面白いことに気づきました。


この掛け軸は、絵そのもの(いわゆる本紙)は、割と保存状態が良かったのですが、一か所だけ、三猿の部分が著しく傷んでいます。特に「言わざる」の口、「聞かざる」の耳、そして「見ざる」に至っては顔全体が激しく摩耗しています。

おそらくこれを飾った村では、見てはいけないものを見た人、聞いてはいけないことを聞いた人、言ってはいけないことを言った人は、庚申の晩に、対応する三猿の顔を撫でて、己の非を悔いる風習があったのではないでしょうか。そうした例はすでに報告されているかもしれませんが、私は未見なので、ここに記しておきます。

(上の想像が当たっているなら、その摩耗の程度は、当時の「三悪」の相対頻度を示すことになります。昔は見ちゃいけないものが、やたら多かったのでしょう。)