惣める話2022年12月30日 21時16分59秒

昨夜夢を見ました。

なにか気の利いた博物趣味の品を探しに行く夢です(ここに昨日の記事が影響しているのは確実です)。でも、お目当てのデパートに着いても、その売場が思い出せず、「あれ?以前ここで買ったのは夢だったのかな?いや、でも買ったときの記憶は鮮明だから、自分は確かにここで標本を買ったはずだ…」と右往左往する夢です。

夢の中にいながら、以前その店で買ったという記憶が本当に鮮明に感じられて、もちろんその記憶自体、夢の中で作り上げた偽りの記憶なんですが、その鮮明さが目覚めたあとも、私に不思議な印象を残しました。なんだか莊子の「胡蝶の夢」の逸話のようです。

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さて、昨日書いたことを反芻しながら、改めて考えたことを、もう少しだけ書きます。(似たようなことを以前も書いた気がしますが、自分に言い聞かせるために、もういっぺん書きます。)

(彩りとして昨日貼りきれなかった写真を貼っておきます。)

対象を見慣れることで、そこから得られる驚異―感動と言ってもいいです―が薄れるという話。そこに決定的に欠けているのは「対話」だと思います。

モノではなくて、人間相手で考えてみます。

相手が家族でも恋人でも友人でも、見慣れるだけならとっくに見慣れているし、ある意味これ以上見慣れた存在もないんでしょうが、だからといって、見慣れたからそれで終わり…なんていうことはないですよね。そこには言語的・非言語的コミュニケーションがあり、たえず影響を及ぼし合い、常に新たな気付きと学びがあります。ともに過ごす時間の中で、ときに気の利いたやりとりがあり、ときに厳しいことを言われつつも、同時に大きな慰藉と励ましがあります。あるいは言葉はなくとも、ただそこにいてくれるだけで良かったりします。


これはモノとの関係でも、まったく同じじゃないでしょうか。
まあ、すべての人間関係が情愛と友愛で彩られているわけではないように、モノとの関係も文字通り即物的な場合も多いんでしょうが、少なくとも向き合うに足る相手と思って手元に引き寄せた品ならば、もっとゆっくり対話してしかるべきだと思います。

やたら目新しさを求めて次から次になんて、なんだか不品行な猟色家のようです。もっとも、猟色家には猟色家の言い分があるのかもしれませんが、やっぱりそこには何か大きな欠落がある気がします。モノと向き合う雅量に欠けると言いますか。


もちろん、上のことは反省を交えて書いているので、自らの雅量の乏しさを大いに嘆かないわけにはいきませんが、上のようなモノとの付き合い方が理想だという思いは平生から強いです。そして、そういう付き合い方こそが、結局いちばんタイムパフォーマンスがいいことにならないだろうか…とも思います。タイムパフォーマンスとかいうと、なんだか浅薄な感じもしますけれど、人生の有限性が身にしみるこの頃、それは結構切実な問題です。

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物に心と書いて「惣」。そして、この字は「惣(あつ)める」と訓ずるそうです。