青龍を招く ― 2024年01月29日 20時27分03秒
思い付きで記事を書き継いでいるので、まとまりがなくなりましたが、今年の正月には干支にちなんで、どこから見ても龍という品を登場させようというのが、昨年末からの構想でした。
もちろんこれだけでも十分なのですが、上の元記事を書いてから月日が経つうちに、この渾天儀もパワーアップし、今や新たな龍がそこに加わっています。
それがこの青銅の青龍。
渾天儀というのは、いわば「この世界全体」を表現しているものですから、世界を守護する霊獣をその四方に配置したら、さらに世界は全きものになるだろうと思ったのです。
霊獣とはいうまでもなく「東方・青龍、南方・朱雀、西方・白虎、北方・玄武」の四方神です。
この渾天儀をゆったり置けるだけのスペースが部屋にあれば、四方神もこの世界を守る守り甲斐があろうというものですが、残念ながら今は下の写真のように、ゴチャゴチャとその足元に押し込められています。
とはいえ、本場・中国の渾天儀だって、これだけの備えはしてませんから、私の部屋の隅っこに在る「世界」は、その全一性において無比のものだと自負しています。(もちろん真面目に受け止めてはいけません。)
コメント
_ S.U ― 2024年01月31日 09時22分59秒
_ 玉青 ― 2024年02月01日 18時50分46秒
まじめなご質問とのことですので、まじめにお答えせねばなりませんが、知識が薄いので、あやふやな答になることをお許しください。
まず星図そのものに青龍や朱雀が登場する例、すなわち「青龍座」や「朱雀座」とでもいうべき星座が、図中に描き込まれた例は、たぶん無いのではないでしょうか。星図とともに四方神が登場する例なら、キトラ古墳がそうですね(高松塚古墳も)。たぶん半島や大陸にも、そのお手本となった例がかつてはあったのでしょう。
これに関連して、先に言及した本(林巳奈夫『龍の話―図像から解く謎』)に興味深い話が載っていました。
紀元前後、漢代の画像磚(型押し煉瓦)に龍が描かれたものがあるのですが、そこには「房・心・尾」の三宿の星の並びも重ねて描かれています。しかし、龍本体と星の配置には対応関係がなくて、星を表す小円は単に龍の周囲を彩る装飾文様のようになっています(言い換えれば、龍の絵が星の配置を離れて奔放になっています。なおこれは単独例ではなくて、そうした例が複数挙がっています)。しかし、紀元前11~12世紀、殷代の遺物に描かれた龍を見ると、「房・心・尾」の星の配置をなぞるような姿をしています。ここから林氏は、 「前二千年紀の晩期、殷時代の龍の図像は図13の房、心、尾の星の並び方と合っている〔…〕。その後年代が経ち、星の並び方と星座名の動物の形との対応がはっきりしなくなってきたものと思われる。」(林上掲書p.27) と推測しています。
朱雀と玄武はよく分かりませんが、白虎もかつてはオリオンと同体と見られ、「参(オリオン座の三つ星)は白虎である。その外の四星は左右の肩と足だ」と、『史記』にあるそうですから(同p.26)、四方神もかつてはご推察のとおり、確かに実体を備えた星座と観念されていたのでしょう。しかし、二十八宿が整備され、後発の星座も続々登場する中で、四方神は象徴的な意味合いに転じ、星図というものが描かれるようになる頃には、そこから退場していた…ということではないでしょうか。
+
渾天儀や天球儀(中国では「渾天象」とか「渾象」と呼ぶそうです)は、言葉としては古くからあるので、西洋との接触以前からあったことは確実です。
渾天儀は前漢にはじめて作られ、その後改良が加えられ、唐代に至って、後代と共通する完備した形式のものが作られるようになりました。それが宋~元を経て、明代にも作られ続け、15世紀半ばにできたのが、今も南京に残る渾天儀です(北京にあるのはそのレプリカ。私の部屋にあるのも同じです)。明代以前の渾天儀は、どうやらモノとしてはもう残ってないようです。いずれにしても、あの龍の絡む渾天儀は、イエズス会士とかとは関係がなく、まさに東洋のオリジナルです。
以上のことは、昭和33年に出た恒星社の『新天文学講座12・天文学の歴史』(分担執筆者は藪内清氏)で読んだ、おそろしく古い情報ですので、参考程度にご覧ください。なお、天球儀(渾天象)の古例については、同書にも書かれてなかったので不明ですが、言葉としては隋・唐にさかのぼる由。
まず星図そのものに青龍や朱雀が登場する例、すなわち「青龍座」や「朱雀座」とでもいうべき星座が、図中に描き込まれた例は、たぶん無いのではないでしょうか。星図とともに四方神が登場する例なら、キトラ古墳がそうですね(高松塚古墳も)。たぶん半島や大陸にも、そのお手本となった例がかつてはあったのでしょう。
これに関連して、先に言及した本(林巳奈夫『龍の話―図像から解く謎』)に興味深い話が載っていました。
紀元前後、漢代の画像磚(型押し煉瓦)に龍が描かれたものがあるのですが、そこには「房・心・尾」の三宿の星の並びも重ねて描かれています。しかし、龍本体と星の配置には対応関係がなくて、星を表す小円は単に龍の周囲を彩る装飾文様のようになっています(言い換えれば、龍の絵が星の配置を離れて奔放になっています。なおこれは単独例ではなくて、そうした例が複数挙がっています)。しかし、紀元前11~12世紀、殷代の遺物に描かれた龍を見ると、「房・心・尾」の星の配置をなぞるような姿をしています。ここから林氏は、 「前二千年紀の晩期、殷時代の龍の図像は図13の房、心、尾の星の並び方と合っている〔…〕。その後年代が経ち、星の並び方と星座名の動物の形との対応がはっきりしなくなってきたものと思われる。」(林上掲書p.27) と推測しています。
朱雀と玄武はよく分かりませんが、白虎もかつてはオリオンと同体と見られ、「参(オリオン座の三つ星)は白虎である。その外の四星は左右の肩と足だ」と、『史記』にあるそうですから(同p.26)、四方神もかつてはご推察のとおり、確かに実体を備えた星座と観念されていたのでしょう。しかし、二十八宿が整備され、後発の星座も続々登場する中で、四方神は象徴的な意味合いに転じ、星図というものが描かれるようになる頃には、そこから退場していた…ということではないでしょうか。
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渾天儀や天球儀(中国では「渾天象」とか「渾象」と呼ぶそうです)は、言葉としては古くからあるので、西洋との接触以前からあったことは確実です。
渾天儀は前漢にはじめて作られ、その後改良が加えられ、唐代に至って、後代と共通する完備した形式のものが作られるようになりました。それが宋~元を経て、明代にも作られ続け、15世紀半ばにできたのが、今も南京に残る渾天儀です(北京にあるのはそのレプリカ。私の部屋にあるのも同じです)。明代以前の渾天儀は、どうやらモノとしてはもう残ってないようです。いずれにしても、あの龍の絡む渾天儀は、イエズス会士とかとは関係がなく、まさに東洋のオリジナルです。
以上のことは、昭和33年に出た恒星社の『新天文学講座12・天文学の歴史』(分担執筆者は藪内清氏)で読んだ、おそろしく古い情報ですので、参考程度にご覧ください。なお、天球儀(渾天象)の古例については、同書にも書かれてなかったので不明ですが、言葉としては隋・唐にさかのぼる由。
_ S.U ― 2024年02月02日 07時46分24秒
真面目なご返事、ありがとうございます。深く感謝いたします。
四方神の星座の歴史的な図解はなさそうなのですね。私は、古星図の趣味はないのですが、星座の歴史は興味があるので、経験上、いちども見たことがないのをいぶかしく思っていました。たしかに、本格的な龍の絵の上に、ちっちゃい星座がチマチマとならんでいるような絵なら見たことあるかもしれません。
東洋製の天球儀のほうも、星座が球面に散らばっているのは、イエズス会よりあとの作品ですよね。西洋でも、科学的目的に限れば(宗教美術を除けば)おもにルネサンス以後のものと言えるかもしれません。それでも、東洋のオリジナルで、渾天象の球面に赤経目盛りの輪っかから枝を伸ばして恒星位置を記載した物を探す値打ちはあるかもしれません。(でも、仮にそういうのがあっても、アストロラーベの影響は排除できませんね)
四方神の星座の歴史的な図解はなさそうなのですね。私は、古星図の趣味はないのですが、星座の歴史は興味があるので、経験上、いちども見たことがないのをいぶかしく思っていました。たしかに、本格的な龍の絵の上に、ちっちゃい星座がチマチマとならんでいるような絵なら見たことあるかもしれません。
東洋製の天球儀のほうも、星座が球面に散らばっているのは、イエズス会よりあとの作品ですよね。西洋でも、科学的目的に限れば(宗教美術を除けば)おもにルネサンス以後のものと言えるかもしれません。それでも、東洋のオリジナルで、渾天象の球面に赤経目盛りの輪っかから枝を伸ばして恒星位置を記載した物を探す値打ちはあるかもしれません。(でも、仮にそういうのがあっても、アストロラーベの影響は排除できませんね)
_ S.U ― 2024年02月02日 08時51分49秒
付記:
朱雀と玄武については、野尻抱影『日本星名辞典』の最終節に解説があり、基本的に、翼宿を「朱鳥」の翼とし、うみへび座の全身を朱鳥の体躯としています。抱影の出典は書いてないのでわかりませんが、よくみるような百度百科の「中国星座」
https://baike.baidu.hk/item/%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E6%98%9F%E5%BA%A7/1728947
の概述図を見ても、柳宿~軫宿は翼を半開きの首の長い鳥に見えるので、抱影は明らかな問題はないとして、その当てはめを採ったのかと思います。
玄武については、よくわからないらしく「中国では室、壁の方形を玄武の亀甲とする学者も少なくない」とある程度です。
朱雀と玄武については、野尻抱影『日本星名辞典』の最終節に解説があり、基本的に、翼宿を「朱鳥」の翼とし、うみへび座の全身を朱鳥の体躯としています。抱影の出典は書いてないのでわかりませんが、よくみるような百度百科の「中国星座」
https://baike.baidu.hk/item/%E4%B8%AD%E5%9C%8B%E6%98%9F%E5%BA%A7/1728947
の概述図を見ても、柳宿~軫宿は翼を半開きの首の長い鳥に見えるので、抱影は明らかな問題はないとして、その当てはめを採ったのかと思います。
玄武については、よくわからないらしく「中国では室、壁の方形を玄武の亀甲とする学者も少なくない」とある程度です。
_ 玉青 ― 2024年02月03日 17時16分49秒
追加の情報をありがとうございます。
ときに、その後思ったことですが、古代ギリシャ人にとっては、天球を模すのに天球儀をこしらえるというのは自明のことで、そこに何の疑問もなかったでしょうが、中国では例の蓋天説と渾天説が長いこと拮抗していましたから、天球儀というのは、それほど自明な存在ではなく、むしろ天球儀を見せられて、はじめて渾天説に理のあることを覚った人が多かったかもしれませんね。隋唐以前の中国の天球儀は、単に星空を写したもの…というにとどまらず、特定のコスモロジーと結びついた、より「尖った」存在だったのかなあと想像します。
ときに、その後思ったことですが、古代ギリシャ人にとっては、天球を模すのに天球儀をこしらえるというのは自明のことで、そこに何の疑問もなかったでしょうが、中国では例の蓋天説と渾天説が長いこと拮抗していましたから、天球儀というのは、それほど自明な存在ではなく、むしろ天球儀を見せられて、はじめて渾天説に理のあることを覚った人が多かったかもしれませんね。隋唐以前の中国の天球儀は、単に星空を写したもの…というにとどまらず、特定のコスモロジーと結びついた、より「尖った」存在だったのかなあと想像します。
_ S.U ― 2024年02月03日 18時06分09秒
ご指摘の点、もっともと思いました。山田慶児『朱子の自然学』によると、中国で、渾天説が標準となったのは、『晋書天文志』(7世紀)以来降だそうですが、これで、蓋天説に打ち勝ったわけではなく、「構造論」が天文学者の関心から離れ、「生成論」に向かったと説明がありました。生成論というのは、朱子学でいうところの太極とか理気とかいうやつだと思いますが、こちらも決着が着かなかったと思います。天文観測の都合上、円環の渾天象を使うことは同意できても、球面に恒星をまぶすことには必ずしも同意できなかったかもしれませんね。
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また、東洋の星座名を書いた渾天儀・天球儀というのも、東洋のオリジナルっぽいものは見聞きしたことがありません。そういう物は、大航海時代以降に西洋の天球儀を真似た物であって、そもそもはないものなのでしょうか?