野間仁根とタコと星(補遺) ― 2024年10月02日 18時06分29秒
毒を食らわば皿まで。
先日話題にした、画家の野間仁根によるエッセイを載せた、雑誌「改造」の昭和22年(1947)9月号を古本屋で見つけたので、送ってもらいました。
雑誌「改造」は、政治も経済も文芸もという、いわゆる総合雑誌のくくりに入る雑誌で、野間の文章は、「欧州における民主人民戦線」とか、「日本経済安定の重心」とかのお堅い記事にはさまって、箸休め的に載っています。それが以下。
ご覧の通り見開き2ページ完結で、ボリューム的にはイラストが主、文章が従です。
野間は愛媛県今治の対岸の島、伊予大島の出身で、東京に住んだ時期もありますが、この当時は一家で郷里に戻って暮らしていたようです。(野間の家は地元の豪家であり【参考LINK】、彼はその当主でしたから、その方が焼け跡の東京で暮らすよりも、暮らし向きははるかに良かったでしょう。)
文意から察するに、野間の娘さんは、船で四国本土の学校に通学しており(寄宿生活かもしれません)、その友人であるひとつ年上の女の子が野間の家に泊りがけで遊びに来ることになった、そしてみんなで磯遊びをして、エビを捕ったり、タコを捕ったりした…というのが、話の前段です。
そして話の後段は、「野間仁根とタコと星(中編)」で、草下英明氏が書写した通りの内容です。
★
このエッセイに触発されて、草下氏が「野間仁根と星」という一文を書いたというのは、「同(後編)」に書いたことですが、リンクをたどるのがめんどくさい方のために、再掲しておきます。
「野間仁根と星 「改造22.9より」
仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。
最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。
その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。
ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。
絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。
氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」
仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。
最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。
その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。
ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。
絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。
氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」
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こうして若き日の草下氏の追体験をし、氏の目に映じた野間仁根の姿を再確認できたこと、そして昭和22年の社会の空気をリアルに感じられたことが、今回のちょっとした収穫でした。
野間仁根とタコと星(後編) ― 2024年09月29日 12時03分48秒
(本日は2連投です。前回のつづき)
さて、それを読んだ草下氏の所感が「野間仁根と星」です。
日付けは昭和22年(1947)10月23日、大倉土木株式会社の社用箋にペン書きされています。
昭和22年というのは、草下氏が大学を卒業した年。
まだ大学生だった4月、「銀河鉄道の夜」に出てくる星について書いた文章が、岩手の「農民芸術」誌に掲載され、これは氏にとって自分の文章が活字化された最初の経験です。6月には上野の科博で野尻抱影と初対面の挨拶を交わし、その自宅を訪問しています。そして10月から父親のコネで大倉土木(現・大成建設)に入社したものの、経理の仕事がまったく性に合わず、翌年「子供の科学」編集部に転職。
そんな時期に、22歳の若者が仕事のつれづれに書いた文章が「野間仁根と星」です。あくまでも個人的感想として書いたもので、たぶん活字化されることもなかったでしょう。用箋2枚のごく短い文章なので、これも全文書き写しておきます。
「野間仁根と星 「改造22.9より」
仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。
最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。
その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。
ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。
絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。
氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」
仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。
最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。
その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。
ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。
絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。
氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」
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野間を画家として評価しつつ、その星の絵にはちょっと点数が辛いですね(私も同じ意見です)。そして、草下氏も野間仁根を『銀河鉄道の夜』の挿絵画家として想起した…というのも嬉しい点で、時を隔てて同じ思路をたどった「同志」のような気がします。
草下氏は1982年に『星の文学・美術』(れんが書房新社)を上梓し、その「あとがき」の中で、「なお、この本に取り上げた対象は、古典古美術が大部分で、明治以後の近代文学・美術については、未だかなりの資料をあたためているのだが、全体の体裁を考慮して、割愛させていただいた。それらについては、また稿をあらため、他日を期したいと思っている。」と書いています。
氏が言う「かなりの資料」は、今後、草下資料の中に見つかるかもしれませんが、結局、本の形で実現することはなく、草下氏も1991年に亡くなられました。でも、その構想の中では、きっと野間仁根についても1章を割り当てていたことでしょう。
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稲垣足穂に「銀河鉄道の夜」を読ませたのも草下氏だし、抱影と足穂を引き合わせたのも草下氏です。ここでは抱影と野間を直接引き合わせたわけではありませんが、このあと野間は現に抱影と親しくなり、その著書の挿絵まで手がけるわけですから、事態は草下氏の予言どおりに進んだことになります。
草下氏は独特の嗅覚で、互いにくっつきそうな素材を見つけては、自らがその結合を促し、それまで存在しなかった化合物や合金を生み出しました。一種の触媒的存在であり、それこそがジャーナリストの本領なのかもしれませんが、それにしても草下氏というのはつくづく稀有な人だなあと思います。
野間仁根とタコと星(中編) ― 2024年09月29日 11時57分25秒
今回の「野間仁根とタコと星」というタイトル。「野間仁根と星」はいいとして、「タコ」っていったい何だね?…と思われるかもしれませんが、野間仁根は「タコと星」という一文をかつて草しており、それを見た草下英明氏が今度は「野間仁根と星」という一文を書いているので、両者を合体させたわけです。
ここであらかじめお断りしておくと、私は草下資料を今年の6月に引き継ぎ【LINK】、資料内容を確認する際に、上記の表題を見て知ってはいました。でも、その内容に目を通すのは今日が初めてです。「野間仁根とタコと星(前編)」を書いた時点でも、まだ読んでいませんでした。
こういう行き当たりばったりが許されるのが個人ブログのいいところで、そこにライブ性やグルーヴ感が生まれるわけです(適当なことを書いています)。
しかし、実際にそれを読んでひどく驚きました。
あまりにも予定調和的な内容だったからです。
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まず、野間仁根の「タコと星」を見てみます。
これは雑誌「改造」の昭和22年(1947)9月号に掲載されたものです。私は現物を見ていませんが、草下氏がその一節を書き写したメモがあるので、それを孫写しします。
「タコと星 野間仁根 改造.22.9
…私の土から掘りとったのは、穴ダコといふのでまるで小さかった。この晩、星が美しかった。
…私の土から掘りとったのは、穴ダコといふのでまるで小さかった。この晩、星が美しかった。
夜釣に出て、この無数の星に対すると目じるしがない為に、いつも新しく、なじみがなかった。それで心淋しかったのであるが、近来やゝ目じるしが出来たのである。妻も子供のチビまでが「星を見に出るんですか」といふやうになった。亦やってゐるなとでも思ふのであらう。とにかく星の夢を二回見たのである。夜が更けやうが、明け方であらうが、楽しみが一つ出来たのである。小学生全集の星の巻が唯一の手引である。これで星の小学生である。」
(昭和4年(1929)『天文の話・鉱物の話』(小学生全集62)。「小学生全集」と銘打ったシリーズ物は、戦後も保育社や筑摩書房から出ていますが、年代的に合致するのは、この戦前に出た文藝春秋社・興文社の共同発行版だけです。「天文の話」の章は、山本一清の執筆)
前段がはしょられているので、文意がはっきりしませんが、夜釣りやタコ捕りの折に見上げた星空の美しさに目を見張り、遅まきながら小学生全集で星座入門をした経緯を訥々と綴った文章です。
(長くなるので、ここで記事を割ります。後編につづく)
野間仁根とタコと星(前編) ― 2024年09月27日 14時10分15秒
前回、野尻抱影の『星三百六十五夜』を採り上げた際、その挿画を担当した野間仁根(のまひとね/じんこん、1901―1979)の名前がチラッと出てきました。
(初版(1955)・表紙絵)
(同・タイトルページ挿画)
(その後、恒星社版の外函デザインにもなった双子座の図)
これら童画風の絵が上手いのかどうか、なんとなく素人目には下手にも見えますが、野間は専門的な画家修行を経て、独自の画風を追求した末に、こうした画境に到達したので、見る人が見れば、やはりそこに優れた芸術性があるのでしょう。
その経歴をウィキペディアの記述を切り貼りすれば、以下の通りです。
「大正~昭和の洋画家。明るい色彩の瀬戸内海の油絵で知られる。愛媛県伊予大島の津倉村(現・今治市)で生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大学)に学ぶ。1928年(昭和3年)の第15回二科展に出品した『夜の床』で樗牛賞を受賞。1933年(昭和8年)に二科会へ入会。1955年(昭和30年)に二科会を去り、一陽会を創設。釣りと海を愛し、東京に転居後も故郷・瀬戸内の海を描き続けた。画業を通じて熊谷守一や藤田嗣治と、挿絵の仕事等を通じて井伏鱒二や川端康成などと交流があった。」
抱影が自著の挿絵を野間に依頼した事情は、『星三百六十五夜』の初版「あとがき」に簡潔に記されています。
「野間仁根氏は瀬戸内海の魚介と、併せて星を描くことでは画壇第一人である。私は十年前、この書のプランと共に、氏を意中の人に選んでゐた。遂にその望みがかなって、十二ヶ月の扉画と美しい装幀もしていただけたことは喜びに堪へない。また、これによってこの著に海の星の新鮮な息吹をも加へることができた。」
さらに、『野尻抱影伝』には、抱影と野間の交友のきっかけを伝える私信が引用されており(p.226)、両者の出会いは、1950年(昭和25)にさかのぼるようです。
「二、三日前、銀座へ出て、二科で星の画を多くかいている野間仁根といふ人の画会を見ました。瀬戸内の大島の人で、ぼくの本からその趣味に入ったさうで、ひどく喜んでくれ一時間近く話しました」(中野繁宛、昭和25年10月24日)
★
そして野間は、抱影の『星三百六十五夜』ばかりでなく、賢治の『銀河鉄道の夜』初版本の装丁と挿絵も手がけています。
日本の天文趣味史における最重要著作2冊を、その筆で飾ったのですから、彼は海の画家であるばかりでなく、抱影も言うように「星の画家」と言って差し支えないでしょう。
★
野間のことが気になったのは、草下資料にもその名を見出したからです。
些末な話題のような気もするのですが、ここは興味の赴くままに筆を進めます。
(この項つづく)
草下英明と宮沢賢治(4) ― 2024年06月29日 19時21分46秒
草下の第一著書『宮沢賢治と星』(昭和28年、1953)に収められた文章を、発表順に並べ替えると以下のようになります(初出情報は1975年に出た改訂新版による。なお、「10. 総天然色映画…」は、「当時の時点での個人的な感想で、研究というものではなく、今考えても気恥ずかしい文章」という理由で、改訂新版からは削除されています)。
1. 『銀河鉄道の夜』の星
「農民芸術」第4集、昭和22年9月(昭和28年5月改稿)
2. 賢治と日本の星
「農民芸術」第6集、昭和23年3月
3. 星をどのくらいえがいたか
「四次元」第27号、昭和27年3月
4. 賢治の星の表現について
「新詩人」第7巻4号、昭和27年4月
5. 賢治の天文知識について
「四次元」第29号、昭和27年6月
6. 賢治の読んだ天文書
「四次元」第30号、昭和27年7月
7. 三日星とプレシオスの鎖
「四次元」第31号、昭和27年8月
8. 賢治とマラルメを結ぶもの
「四次元」第36号、昭和28年2月
9. 県技師の雲に対するステートメント
「四次元」第42号、昭和28年5月
10. 総天然色映画『銀河鉄道の夜』
未発表/書き下ろし
11. 宮澤賢治の作品に現れた星
未発表/書き下ろし
2. 賢治と日本の星
「農民芸術」第6集、昭和23年3月
3. 星をどのくらいえがいたか
「四次元」第27号、昭和27年3月
4. 賢治の星の表現について
「新詩人」第7巻4号、昭和27年4月
5. 賢治の天文知識について
「四次元」第29号、昭和27年6月
6. 賢治の読んだ天文書
「四次元」第30号、昭和27年7月
7. 三日星とプレシオスの鎖
「四次元」第31号、昭和27年8月
8. 賢治とマラルメを結ぶもの
「四次元」第36号、昭和28年2月
9. 県技師の雲に対するステートメント
「四次元」第42号、昭和28年5月
10. 総天然色映画『銀河鉄道の夜』
未発表/書き下ろし
11. 宮澤賢治の作品に現れた星
未発表/書き下ろし
年次を見ると、昭和23年(1948)から27年(1952)まで、少しブランクがあります。
前回述べたように、草下は昭和23年(1948)8月に念願の「子供の科学」編集部入りを果たし、昭和24年(1949)3月13日には、草下の仲立ちで、稲垣足穂と野尻抱影が最初で最後の顔合わせをするという、驚くべき「事件」もありましたが(過去記事にLINK)、基本的に身辺多忙を極め、独自に研究を進める余裕がなかったのでしょう。
(「子供の科学」発行元である誠文堂新光社・旧社屋(1937年築)。ブログ「ぼくの近代建築コレクション」より許可を得て転載)
しかし、その間も草下の賢治への関心は衰えることなく、昭和26年(1951)には5月と8月の2回花巻を訪れています。
〔昭和26年〕五月三~五日 連休を利用して宮澤賢治の故郷、岩手県花巻市を訪れた。「農民芸術」に二回ほど原稿をのせて頂いただけの縁なのに、厚かましくも関徳久彌氏をお訪ねし、さらに賢治の実弟である宮澤清六氏に御紹介頂いたのだから、かなり図々しいものである。〔…〕これまた粘って賢治の生原稿まで見せてもらった。「銀河鉄道の夜」や「夏夜狂躁」という詩の中で、どうしても確かめておきたい疑問の箇所があったからだ。「プレシオスの鎖」という明らかに天体を指すらしい謎めいた言葉と、「三日星(カシオペーア)」を、原稿で確かめたかったからである。〔…〕 (『星日記』127-8頁)
八月五日 友人と再び花巻市を訪れている。そのあと、仙台に移動して有名な七夕祭りに出会わした。〔…〕ただ、おどろいたのは、街を歩いていて、ばったり野尻先生と小島修介氏に出会ったことだ。野尻先生は七夕祭りに招かれて、小島氏はアストロ・サービスという天文普及の仕事兼野尻先生のボディガードで来ておられたのであった。しかし、何十万という人出の中でばったり会うなんて、まったく奇遇というべきであろう。〔…〕 (同128頁)
こうして原資料に当たり、着々と材料を揃え、翌昭和27年(1952)から、草下は立て続けに賢治と星に関する論考を発表していきます。その発表の場となったのが、「宮沢賢治友の会(後に宮沢賢治研究会)」の機関誌「四次元」です。
(昭和24年(1949)10月に出た「四次元」創刊号と、賢治没後25周年の昭和32年(1957)に出た号外の表紙。昭和57年(1982)に国書刊行会から出た復刻版のカラーコピー)
「四次元」については、ネットではよく分からなかったのですが、なんでも賢治全集を出していた十字屋書店(神田神保町)が始めた雑誌だそうで、最初は同社に「宮沢賢治友の会」事務局を置き、書店店頭でも販売していたのですが、1年もたたずに経営難から十字屋が撤退。以後は編集人の佐藤寛氏が「友の会」もろとも機関誌発行を引き継ぎ、葛飾区金町の佐藤宅がその拠点となりました。その後、氏の健康問題により昭和43年(1968)2月の第201号を以て終刊。昭和44年(1969)4月創刊の「賢治研究」(宮沢賢治研究会)がその後継誌となった…ということのようです。
(「四次元」を主宰した佐藤寛氏(1893-1970)。1972年3月発行「四次元 号外・佐藤寛追悼号」より)
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草下が再び賢治研究にのめりこんだ昭和27年から28年(1952~53)は、草下のライフヒストリーでは節目の年です。
昭和27年、草下は誠文堂新光社内で「子供の科学」編集部から「科学画報」別冊編集部に配置換えとなり、そのことと関係があるのかないのか(おそらくあるでしょう)9月で同社を退社。
一時、友人が経営する小出版社に腰掛けで入ったあと、昭和28年(1953)に平凡社に転職して、『世界文化地理体系』というシリーズものの編集を手掛けることになりました。そして同年9月に出たのが第一著書『宮沢賢治と星』です。
(『宮沢賢治と星』1953年版、奥付)
こうして青年期の草下の動きを見ていると、身辺の変化と賢治との関わりが妙にシンクロして感じられます。この辺のことは活字になった『星日記』では明確に書かれていないし、ひょっとしたら草下自身意識していなかったかもしれないんですが、草下は人生の決断をするとき、賢治に何かヒントを求めていたんじゃないかなあ…という気もします。
★
以上、草下と賢治のかかわりを、『星日記』をざっと眺めて抜き書きしてみましたが、これは本当のラフデッサンで、これを見取り図として、これからいよいよ「草下資料」を深掘りしていこうという腹積もりです。ただ、時間もかかることなので、この件はしばらく寝かせておきます。
(この項いったん終わり)
【おまけ】
『宮沢賢治と星』の1953年の初版には含まれず、1975年の改訂新版――こちらは正確には『宮澤賢治と星』と表記します――が出る際、新たに収録された論考についても、参考のため初出年代順に配列しておきます。
12. 賢治文学と天体
昭和32年8月『宮沢賢治研究』(筑摩書房)掲載(昭和49年12月改稿)
13. SF作家の先駆者としての稲垣足穂と宮澤賢治
昭和32年9月「宇宙塵」に掲載
(改稿して「四次元」第100号、昭和33年12月に転載)
14. 『晴天恣意』への疑問
「賢治研究」第4号、昭和45年4月
15. Xの字の天の川
「賢治研究」第16号、昭和49年6月
昭和32年8月『宮沢賢治研究』(筑摩書房)掲載(昭和49年12月改稿)
13. SF作家の先駆者としての稲垣足穂と宮澤賢治
昭和32年9月「宇宙塵」に掲載
(改稿して「四次元」第100号、昭和33年12月に転載)
14. 『晴天恣意』への疑問
「賢治研究」第4号、昭和45年4月
15. Xの字の天の川
「賢治研究」第16号、昭和49年6月
草下英明と宮沢賢治(3) ― 2024年06月25日 21時21分14秒
昭和22年から23年にかけては、草下にとって変化の多い年でした。
昭和22年(1947)には、前述のとおり賢治についてまとめた文章が初めて活字化されたのをはじめ、野尻抱影に初めて会っています(それまでも手紙のやりとりはありました)。
六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった。(『星日記』105頁)
(科博の天文ドーム。過去記事より)
抱影との絡みでいうと、8月にはこんな記述もあります。このとき草下は母校・都立六中の生徒を連れて、水泳指導教師という役割で千葉県館山付近に滞在していました。
八月一日 〔…〕この日、管理人のお爺さんから、「入定星」という星があることを訊いた。〔…〕もちろんこれは房総半島の南端一帯で「布良(めら)星」の名で知られる竜骨座のα(アルファ)カノープスの別名だ。しかも、江戸時代の文献にも、僧侶が死んで星になったという伝承が記載されているもので、後日、野尻先生に報告して、いたく喜ばれた。これでかなり先生の信用(?)を得たようである。「農民芸術」の原稿とともに学生生活の最後を飾るいいお土産であった。(同105—6頁)
こうして草下は学生生活を終え、社会人になります。当時の制度がよく分かりませんが、草下の場合、秋卒業だったようです、
十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭。(同106頁)
生活するために「いたしかたなく」建設会社の経理の仕事に就いてはみたものの、草下にはまるで肌の合わない世界で、1年もしないうちに転職を果たします。以下、昭和23年(1948)の『星日記』より。
七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社の「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定したが、あとでよく聞いてみると、他にも競争者がいたらしいのだが、私の立ちまわり方、根まわしが抜群だったらしく、その抜け目なさが買われたということだった。私の性格とまったくあべこべの面が認められたというのは、いまだに信じられない。二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。(同112頁)
まだ一介の新米編集部員とはいえ、これが科学ジャーナリスト・草下英明が誕生した瞬間でした。草下はその立場を活かして、人脈を徐々に広げていきます。
十一~十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などほとんど休んでいられなかった。〔…〕
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男、小山ひさ子、鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁、原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。(同113—4頁)
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男、小山ひさ子、鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁、原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。(同113—4頁)
そればかりではありません。草下はこのブログと切っても切れないもう一人の人物とも、この年に会っています(「遭っています」と書くべきかも)。草下は上の記述に続けてこう記します。
だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。
十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。(同114頁)
十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。(同114頁)
なんだか無茶苦茶な感じもしますが、何せ時代の気分は坂口安吾で、畸人型の文士が横行しましたから、足穂も遠慮なく畸人として振る舞えたし、世間もそれをもてはやしたのかもしれません。しかし“作家、畸なるがゆえに貴からず”、足穂の本分というか、真骨頂はまた少し違ったところにあり、だからこそ草下は足穂を終生敬慕したし、謹厳な野尻抱影にしても、後に足穂をひとかどの作家と認めることになったのでしょう。
(所番地が変わったせいで正確な場所がすぐには分かりませんが、図の左寄り「早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール」の建つ区画が昔の早大戸塚球場の跡地で、その脇を通る「グランド坂」に真盛ホテルはあった由。名前は立派ですが、ホテルとは名ばかりの安宿です。)
(真盛ホテルの自室に坐す、昭和23年当時の足穂。過去記事より)
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「草下英明と宮沢賢治」というわりに、今日は賢治のことが全然出てきませんでしたが、草下の賢治への入れ込みはまだ続きます。
(この項つづく)
草下英明と宮沢賢治(2) ― 2024年06月23日 13時45分18秒
ふと思ったんですが、今年は草下英明氏の生誕100周年ですね(12月1日が誕生日)。別に狙ったわけではありませんが、そのことを思うと、今回草下氏を取り上げることになったのも、何か偶然以上のものがあるような気がします。
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前回、草下に賢治の存在を教えた人として、後に彫刻家として名を成した阿井正典(1924-1983)に触れました。それについて、草下の『宮澤賢治と星』(初版1953、改訂新版1975)にも関連する記述を見つけので、挙げておきます(「宮澤/宮沢」の表記は原文に従います)。
(『宮澤賢治と星』、1953年版(手前))
「私が初めて宮沢賢治の名を知ったのは、「アメニモマケズ」の詩人としてでもなく、『風の又三郎』の作者としてでもない。殆どそうした予備知識なしに、或る友人から星をよく描く童話作家として教えられたのが、太平洋戦争末期であった。従って私が賢治を知った限りにおいては、比較的日も浅く、かりそめにも賢治の研究家などといえた義理ではない。だから、このささやかな著書も、あくまで賢治の研究書というようなものではなくて、賢治の作品に輝やく星を観察し分析してみただけのもので、主題は星にあるといってよい。」 (『宮澤賢治と星』、1953年版「あとがき」より)
「或る友人」とはもちろん阿井のことで、阿井は「星をよく描く童話作家」として賢治を語ったというのですから、阿井もまた具眼の士であり、阿井がそういう色彩で賢治を紹介したからこそ、草下の脳裏に賢治の名が刻まれたのでしょう。これはまことに幸運な出会いだったと思います。
(阿井正典 《果》 1968年、木、神奈川県立近代美術館蔵。
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草下がただの賢治ファンでなかったのは、その作品を愛読するばかりでなく、独自の研究を進めたことです。草下は、昭和22年(1947)になっても、大学にはまったく足を踏み入れず、友人が始めた古本屋の手伝いをしながら過ごしていましたが、その間にせっせと賢治研究を進めました。
「〔1947年〕四月二日 宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」に描かれた星についての研究をまとめた私の文章が、風樹荘〔…というのは件の古本屋〕の経営者、月田亨氏を通じて、月田氏の家に同居していた賢治研究家、堀尾青史氏に紹介された。岩手県花巻市で、賢治の縁戚にあたる関登久也編集「農民芸術」にのせてもらうことになった。九月一日発行の「農民芸術」第四輯に生まれて初めて活字となった。」 (『星日記』、104頁)
このとき「農民芸術」に掲載された「『銀河鉄道の夜』の星」は、改稿した上で、前述の『宮澤賢治と星』に収録されました。これについて、草下は以下のようにも述べています。
(『宮澤賢治と星』、1975年版)
「『銀河鉄道の夜』の星について」は、大学二年生の頃、暇にまかせて書き綴った幼稚な一文を、友人を通じて堀尾勉(青史)氏が目を通して下さり、花巻の故関登久也氏の許に御紹介頂いて、初めて活字になったもので、なんとも懐かしい思い出がある。」 (『宮澤賢治と星』、1975年版「あとがき」より)
ちょっと先回りすると、草下はこの後も精力的に賢治について文章を書き続け、それらをまとめたのが『宮澤賢治と星』です。昭和28年(1953)の出版当時のことを、草下は後にこう回想しています。
「この種の研究や文献資料は当時殆ど無いといってよく、私の試みが賢治文学を考える上での一ヒントにでもなったとすればこの上ない幸せである。
原本刊行後も、科学者の目で、或は科学的な手法によって、賢治文学の分析が試みられた例は極めて少ない。私の知る範囲でも、須川力氏(水沢緯度観測所、天文学)の「宮澤賢治と天文学」(「四次元」、第九十三号、昭和三十三年五月)がある位で、他に昭和三十四~三十六年頃、庄司善徳氏が「秋北新聞」、「秋田文化」、「文芸風土」(いずれも秋田県地方誌)に、しばしば賢治と星の関係について言及した文章を発表している程度である。」 (同上)
原本刊行後も、科学者の目で、或は科学的な手法によって、賢治文学の分析が試みられた例は極めて少ない。私の知る範囲でも、須川力氏(水沢緯度観測所、天文学)の「宮澤賢治と天文学」(「四次元」、第九十三号、昭和三十三年五月)がある位で、他に昭和三十四~三十六年頃、庄司善徳氏が「秋北新聞」、「秋田文化」、「文芸風土」(いずれも秋田県地方誌)に、しばしば賢治と星の関係について言及した文章を発表している程度である。」 (同上)
本当は、『宮澤賢治研究資料集成』(日本図書センター、全23巻)や、『宮沢賢治初期研究資料集成』(国書刊行会)のような基礎資料に当たって、草下の言い分の裏取りをしないといけないのですが、今はそこまでする必要もないでしょう。草下の視界にそれが入ってこないぐらい、「星の文学者・賢治」は当時マイナーなトピックであり、草下がこの分野のパイオニアの一人だったことは確かです。
草下は上の一文につづけて、さらにこう書きます。
「しかし、最近は賢治のすべての草稿を比較検討分析していくという精緻無類な天沢退二郎、入沢康夫両氏の研究方法が大きな刺激となり、斎藤文一氏(新潟大学、地球物理学)、宮城一男氏(弘前大学、地質学)といった純粋科学畑の人の研究が現れたし、星の分野でも川崎寛子、阿田川真理といった若き俊秀がおられて、私なども啓発されること多大である。どうやら科学と文学の切点の問題として、賢治の作品が見直される機運が盛り上ったといってよいだろうか。」 (同上)
ここでいう「最近」とは、今から約半世紀前の1975年当時の「最近」です。1970年代頃から、賢治像にはある種の変化が――いうなれば、「アメニモマケズ」や『風の又三郎』の作者ではない賢治像が目立つようになってきた…と草下はいうのです。
こうした変化は論文や研究書ばかりでなく、一般のメディアにも及び、「星の文学者・賢治」は急速にポップカルチャー化、あるいはサブカルチャー化して、ますむらひろしや鈴木翁二、あるいは鴨沢祐仁といった人たちが、賢治に取材した作品を次々と発表し、その先に松本零士の「銀河鉄道999」(「少年キング」、1977年連載開始)もあったように思います。
(新作・旧作を交えて構成された「ガロ 特集・宮澤賢治の世界」1995年9月号)
(同上掲載作、森雅之「宮沢賢治 星めぐりの歌」より)
その流れは天文界にも及び、アマチュア向けの天文雑誌である「天文ガイド」(1965~)や「星の手帖」(1978~1993)あたりを丹念に見れば、賢治作品、特に「銀河鉄道の夜」に言及した記事や読者投稿が、70年代以降急速に増えていくさまを確認できるはず…と個人的には睨んでいますが、これは将来の課題とします。
(当時、京都の福知山で星好きの少年たちが結成した「西中筋天文同好会」が会誌「銀河鉄道」を創刊したのが1972年と聞けば、当時の天文界の空気が何となくわかります。この件は同会の中心メンバーであり、本ブログにいつもコメントをいただくS.Uさんから、またお話を伺う機会があると思います。)
★
話が前に進み過ぎたので、昭和20年代の草下の動向に話を戻します。
(この項つづく)
草下英明と宮沢賢治(1) ― 2024年06月21日 18時16分28秒
宮沢賢治が「星の文学者」として認められる過程で、後に科学ジャーナリストとして世に出た、草下英明氏(1924-1991)の功績は甚だ大きいものがあったと思います。
でも、そもそも草下氏はいつ賢治に出会ったのか?
それを整理するため、草下氏の『星日記』から関係する記述を抜き出してみます(以下、敬称を略してお呼びします。なお、引用中の太字と〔 〕は引用者)。
(草下英明(著)『星日記―私の昭和天文史1924~84』、草思社、1984)
草下は大正13年(1924)12月、東京都荏原群駒沢村、今の世田谷に生まれました。そして満2歳を迎えた1926年12月に昭和改元があり、以後、昭和2年12月に満3歳、昭和3年12月に満4歳を迎えた…ということは、要するに彼は、昭和X年の12月に満「X+1歳」の誕生日を迎える計算で、その年の1月から11月まではぴったりX歳です。非常に分かりやすいですね。まさに昭和とともに歩んだ人生。
そんなわけで、草下がハイティーンから二十歳過ぎの青年期を過ごした時期は、終戦前後の激動期と丸被りです。
昭和17年(1942)4月に、立教大学文学部予科(予科というのは本科に進む前の教養課程)に入学したものの、勤労動員に明け暮れる日々で、とても勉強どころではありませんでした。昭和19年(1944)10月には大学を休学し、愛知県の豊橋第二予備士官学校で、幹部候補生としての速成訓練を受けます(自ら志願したわけではなく、いわゆる学徒動員です)。
明くる昭和20(1945)年6月に予備士官学校を卒業して、そのまま見習士官として名古屋の東海第五部隊に配属となり、知多半島の阿久比で「築城作戦」(という名の穴掘り作業)に従事しているとき、8月15日の終戦を迎えました。
草下が賢治を知ったのは、ちょうどこの時期です。
『星日記』 昭和20年(1945)の項の冒頭に、こうあります。
「二十歳。私の一生の中で、二度とないような一年。価値観念が正反対に転換した年、そして今年一杯生き延びられるだろうかとまで考えていた年だった。同室の友人、美術学校出の阿井正典氏から、宮沢賢治の名を教えられたのも、この頃である。」(94頁)
ネット情報によれば、阿井正典(あいまさのり、1924—1983)は、戦後に活躍した抽象彫刻家。草下と同時期にやっぱり学徒動員され、愛知時代の草下氏と同室になったのでしょう。阿井氏はおそらく本人も自覚せぬまま、その後の宮沢賢治受容史に計り知れない影響を及ぼしたことになります。
(草下に賢治の存在を教えた、阿井正典〔後列、右から2人目〕。
出典:『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』、「第三章 第三節 昭和18年 ⑭学徒出陣」(922頁)。
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戦争が終わり、昭和20年9月に無事復員。いったん信州に疎開していた両親のもとに身を寄せたあと、10月に東京に戻り、大学に復学。しかし何をする気も起らず、呆然と暮らす日々が続きました。
翌昭和21年(1946)の『星日記』の冒頭部。
「虚脱呆然の状態はまだ続いていた。学校へはろくに行かず、やたらと本ばかり読んでごろごろしていた。野尻先生の「星を語る」「星座風景」「星座春秋」「星座神話」といった本を古書店で見つけると、値段を問わず即座に買い込んだ(ろくに金もないのに)。その他の天文書なども片っぱしから買ってしまっていた。宮沢賢治の本も、全集を除いてこの時期にほとんど揃えていた。彼の詩は一行も理解できなかったのだが。」(99頁)
戦後の精神的空白の時期にあって、草下が拠り所としたのが、抱影であり、賢治であり、星の世界でした。賢治の詩は一行も理解できなかった…と草下は言いますが、その理解できない詩をも夢中で読み、そしてやっぱり深く感じるものがあったのでしょう。
(この項つづく)
草下氏の背を追って ― 2024年06月19日 18時39分15秒
今後、草下英明氏(1924-1991)が残された資料【参照LINK】を深堀りするとなると、氏への言及がいきおい増えると思うので、参照の便のため「草下英明」というカテゴリーを新設しました。野尻抱影 、宮澤賢治、稲垣足穂 と並んで「夜空の大四辺形」を構成する格好です。
偉大なる先達の余光を慕い、その事績にどこまで迫れるか、非力ながらも頑張るつもりです。
(草下氏壮年期のスナップ)
夜空の大四辺形(3) ― 2024年06月04日 18時20分20秒
この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。
日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。
(文面はアドレス欄の下部に続いています)
これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。
「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星の話は、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい。賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」
★
石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。
たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。
まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。
石田氏の読みは「刃金青といひなさい」ですが、ごらんの通り、実際には「…といひたい」です。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。
それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。
抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。
その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。
(誤) → (正)
○星の話 → 星の註
○吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
○アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
○「ペルセウス」の混沌 → 混淆
○〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落
重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。
★
情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。
美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。
草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。
(この項、ぽつりぽつりと続く)
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