寄り道の寄り道2008年02月13日 22時41分20秒

(コルベ氏験電器。大阪教育大学蔵)

また勢いで脇道に入ってしまいますが、昨日の記事にいただいたRoyalBlue さんのコメントにあるように、ビジュアル的には今一つながら、国内のサイトにも古い機器や標本をまとめて拝めるところは多々あります。コメントで挙がっていたのは以下のページ。

★東京大学総合研究博物館データベース
 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/database.html

★国立科学博物館データベース
 http://research.kahaku.go.jp/db/japanese/index.html

こうしたナショナルな場所が、横綱級の充実振りを見せているのは、ある意味当然ですが、もっと「学校の理科室」的な親しみの感じられる場所もそちこちにあるようです。

古い学校のある所、必ず古い備品あり。
そして奇特な先生がいれば、それを丹念に調査して、ネット上にも公開しているというわけです。ちょっと探しただけでも、すぐ次のようなページが見つかりました。探せば、もっと沢山あることでしょう。

★新潟大学展示館(旧制新潟高校、同長岡高等工業時代の備品類)
 http://museum-eng.eng.niigata-u.ac.jp/

★大阪教育大学・種村研究室(天王寺師範学校時代の物理実験機器)
 http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~masako/shihan/item/exp_item.htm


そして、こんな風にきちんと整理されてない学校の方が圧倒的に多いのでしょうから、そういう現場をぜひ生で見てみたいです。黒々とした機器が、埃や蜘蛛の巣をかぶって、ひっそりと棚に眠っている光景は、なかなかそそるものがあります。

 ■  □  ■

さて、こうしてドンドン脇道に入っていくと、何か「一見有限、実は無限」というフラクタル図形の上を歩んでいるような気がしてきます。反射望遠鏡の話、賢治先生の話、そして銀河鉄道の話と、徐々に元の道に引き返さねば。。。

コメント

_ mistletoe ― 2008年02月14日 13時22分27秒

こんにちは。
私は職場が医学系の学会なので、この手の器具に
興味がある・・・と教授たちに言いまくっています。
・・・が大学や研究者は最新器具に興味があり、
古いものに興味が無く、捨てたり、放置したりらしいです。(だったらくれっ!と言いそうになりますよ・・・)

小石川分館のも眠っていたモノ達ですものね。
日の目に当たれて良かった。

蜘蛛の巣の張ったような理科室・・・廃墟好きでも
あるので興奮してしまいそうです(汗)

_ S.U ― 2008年02月14日 19時38分36秒

なるほど。国内の皆様も健闘していらっしゃいますね。研究に多忙な中、立派な
サイトを作っていらっしゃいますが、「電気古道具」となると相対的に少ないようですね。

私の勤務先も「理科実験施設」なのですが、いかんせん、前身から含めてもまだ
たかだか50年くらいの歴史しかないので、「アンティーク」と呼べるようなものはありません。
もちろん、主力は最新鋭の装置群です。

でも、一つ自慢の品があって、マニアの見学者に絶大なる人気(?)を誇っているのが、
下にある写真の陽子前段加速器(コッククロフト・ウォルトン型)です。

http://www.kek.jp/photoarchive/accel/ps08M.jpg

「国内最大級の理系アンティーク」といいたいところですが、1970年代に作られた
この装置はまだ現役ですので、そんなことを言うと怒られてしまいます。
(なお、加速器本体は運転期間中は、放射線安全の関係で見学できません)

_ 玉青 ― 2008年02月14日 22時02分29秒

>mistletoe さま

だったらくれ!…この言葉を何度呑み込んだことでしょう。まったく、もったいないお化けが出ても知らないよ、ほんとにもー…と思いながらも、この状況を利して、何とか逸品がすっと手に入らんものか…いやいや、そんな浅ましいことを考えてはいかん…と思いは千々に乱れます。人間の煩悩は滅却しがたいものです。

個人的なことはさておき、「物」はやっぱりその価値に相応しい扱いを受けて然るべきだと強く思います。

>U さま

おお、これは凄い。何かデジャヴュを覚えますが、ちょっと昔の特撮物のセットのようですね!不思議なカッコよさがあります。それにしてもデカイ。。。

ときに業務連絡。本日『華胥国物語』が届きました。なかなかしっかりした造本です。「ほー」と思いながら、おもむろにページを開くと…

何と、翻刻本ではなくて、影印本でした(驚)。楷書の部分はまだしも、御家流(?)のくずし字はなかなか手ごわいです。それと「顕微鏡記」ですが、ひそかに和製「ミクログラフィア」のようなものを想像していたのですが、一寸勝手が違って、確かに興味深い内容ではあるのですが、些かむむむ…という感じでした。

口絵のカラー図版は「!」です。これはいずれ記事にしたいと思いますが、まさに「江戸のオーラリー」というべきもので、実に素朴な手わざながら、斬新さを感じます。ひょっとしたら日本初のプラネタリウムかもしれません。先行例をご存知でしたら、ぜひご教示ください。

_ S.U ― 2008年02月15日 23時24分28秒

拙宅にも『華胥国物語』が本日届きました。漢文や御家流はなかなか長期間
楽しめそうです。
顕微鏡記の詳述といいオーラリー(?)といい、中井履軒はけっこう器械好き
(メカマニア)だったのかもしれないと思いました。
これらがいつ作られたものかもよくわからず、先行例については知識がないのですが、
天動説と地動説が並立しているところから、これも『天経或問』に発したものなのかも
しれません。また、『天経或問』、『天文図解』に類似の図がないかあたることにします。
「天文古玩」でのご論評をお待ちしています。

プラネタリウムといえば、仙台漂流民の聞取記「環海異聞」巻十巻(1807)末尾に
ペテルブルクで漂流民が見たという施設の図が出てきますが、この履軒の作品の
ほうが少し古いでしょうね。

ところで、脇道にそれますが、『環海異聞』をカラーで公開しているところをみつけました。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kankai/frame_10.html

プラネタリウムの図はなかなか美しいです。

_ 玉青 ― 2008年02月16日 18時24分57秒

Uさま

!!該博な知識に脱帽です。

コメント欄に押し込めておくのは勿体ないので、泥縄式に調べたことも含めて、独立した記事としてアップする予定です。Uさんのコメントも引用させていただきたく、この点ご寛恕くださいませ。

_ S.U ― 2008年02月16日 20時28分42秒

いえいえ、恐縮です。...... 私の狭い了簡を「天文古玩」の広い沃野で相対化して
くだされば有難い限りです。

_ S.U ― 2008年02月23日 14時40分53秒

玉青様、つ、ついに...別の文献にも「江戸のオーラリー」の図を見つけましたよ!
というか、以前から所有していた広瀬周伯著「三才窺管」巻之上(1799)に出ていま
した(うかつにも忘れていただけ)。しかし、これが中井履軒のオーラリーに先行して
いるかどうかは微妙で、履軒のほうが少し早いような気がします。ちなみに周伯は
現在の茨城県つくば市の医者でした。

周伯のオーラリーは天動説によるものですが、中国書「歴算全書」を参考にして、
木星を磁針の先に配し、太陽を地球の北側の固定させて、木星が太陽の周りに
円軌道を描くようにする工夫が取り入れられています。(言葉で書くとわかりにくい
ですね。図を見れば明解なのでコピーを表記URLにアップしてしまいました。
ご覧ください!)。すわ、と大学図書館で「歴算全書」を見てきました。

「歴算全書」の該当部分に図はありませんが、ティコ・ブラーへが惑星太陽間距離が
一定である事を説明するために磁石の譬えを引いたと書かれています。その他、
「天経或問」にも「天文図解」にもオーラリーの図はありませんでした。

周伯のオーラリーがオリジナルなのか西洋起源なのか気になります。台の形は、
「天文古玩」2006.1.30の写真にかなり似ています。西洋のオーラリーで磁石を利用して
惑星の位置を制御するものはあるのでしょうか。またお聞かせいただければ幸いです。

_ 玉青 ― 2008年02月23日 19時43分25秒

情報をありがとうございました。これぞまさに日本のオーラリーですね。

製品の完成度からいえば、仲井履軒よりもはるかに良くできていると思いますが、履軒は自分の頭で考えてあれを作ったのでしょうから、私はその発想の妙に感服します。

周伯のオーラリーは、西洋由来のデザインと見て間違いないでしょうが、ああいうプトレマイオス的なオーラリーは、どこに起源があるんでしょうね。

オーラリーが生まれたのは、その前身を含めて考えても、コペルニクスの説が確立した後ですから、天動説的オーラリーというのは本来的にありえず、ただ色物的に(過去の学説を視覚化する目的で)そうしたものが作られた形跡はあるので、それが中国を経由して歪んだ形で入ってきたんでしょうか。どうもはっきりしません。磁石を利用したメカも、すぐには思いつきませんが、きっと何か先行例はあると思います。

あやふやなことばかりで申し訳ありませんが、おいおい正体を明らかにしたいと思います。

(ちなみに、この前かすてんさんに聞かれたことの補足ですが、2006.1.30の写真は、手近な本からスキャンした画像で、家蔵品ではありません。この記事の前後に、「写真はイメージです」と適当なことを書いた記事が並んでますが、いずれもこの類ですので、一言申し添えます。)

_ S.U ― 2008年02月23日 22時46分44秒

玉青様、コメントありがとうございました。西洋でも比較的新しい時代のものなのですね。

「三才窺管」のテキストをよく読むと、「地動新説」の節に具体的に何を指すのかわかり
ませんが「オルレレー」ということばが出ていました。もしこれが「オーラリー」だとすると、
確かに当時すでに日本に蘭学ルートでオーラリーが知られていたことになります。
関連部分を以下に引用します。

 「此コレヲ詳ニセバ実ニ至妙ノ理アリテ存ス然レドモ其説奇異聞者キツ然ト
  シテ恠ム此ノ測器ヲオルレレート呼吾 邦ノ人之ヲ銅板ニ鐫テ世ニ行フ故
  ニ茲ニ贅セズ」

_ 玉青 ― 2008年02月24日 12時43分14秒

「三才窺管」が出る直前に、司馬江漢が西洋書を直模して、「ヲルレレイ(屋耳列礼)」の銅版刷りを出していますね。

http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kichosearch/src/ippan683.html

これが当時どの程度評判になったかは分りませんが、広瀬周伯が司馬江漢の図を指してこう述べているならば、知識人の間でヲルレレイ図がかなり広まっていたことの傍証になるかもしれません。

Orreryが、惑星儀の意味で使われるようになったのは、1713年ごろだそうですから、その名が日本に到達するまで80年。長いような、短いような…。

_ S.U ― 2008年02月24日 16時36分40秒

玉青様、情報をありがとうございました。司馬江漢はすごいですね。
題名の「屋耳列礼図解」は判じ物ですが、内容は超明瞭。

広瀬周伯がこれを見たのなら、プトレマイオス流オーラリーを自分でデザインできたかも
しれません。問題は、ご指摘の通り、このような「西洋グッズマニア」的情報を当時の
旧来の知識人がどれほど受け入れたかということだと思います。

周伯は地元つくば市でもそれほど有名ではなく、蘭方医学を杉田玄白、桂川甫周という
ビッグネームに習ったことになっていますが、その詳細はよくわかっていないようです。

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