神保小虎・『鉱物界教科書』(2)2008年10月21日 22時27分50秒

(↑石膏の結晶が岩に附着する状)

この「古い鉱物教科書を読む」シリーズは、非常に少ないサンプルに基づき、過剰解釈気味に印象を語っているので、できれば話半分に読み流してください。

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さて、明治30年代の鉱物教科書を見ていて、気付いたこと。それは「挿絵」です。
銅版画風の(木口木版か?)挿絵が、まずもって明治な味ですが、印刷技法だけではなく、こうした鉱物の図像表現そのものが、当時ハイカラなものだったのではないか…ということをフト思いました。

今では当たり前すぎて、あまり意識に上りませんが、でも鉱物の典型を「水晶のクラスター」的な形象で捉える習慣は、それ自体カルチャー・バウンドというか、一種の約束事なんだろうと思います。

鉱物を鉱物らしく、どう図像で表現するか。本家のヨーロッパでもこういうイコンに到達するまでには、試行錯誤があったことでしょう。博物図の図像表現の進化というのは、動・植物図については荒俣宏さんが、昔さんざん書いたと思いますが、鉱物については、どうも読んだ記憶がありません。

鉱物は動・植物と違って、描写すべき単位である「個体」というのがありませんから、昔の人は大いに難渋したでしょう。いや、昔に限らず、これは今にいたるまで大きな問題で、図鑑作者は頭を悩ませているはず。美品主義によって巨晶を選んでも、それが鉱物尋常の姿とは言えませんし、かといって尋常の姿を載せても読者にはさっぱり伝わりませんし…。

何か話がどんどん逸れていってしまいますが、江戸時代の代表的鉱物誌、『雲根志』を見ても、鉱物の図示では大分苦労しています(以下九大デジタルアーカイブより)。現在の目で見て、いかにも結晶らしいのは、「自然銅」の図(前編巻之二)と「三稜石(著者は方解石の一変種としています)」の図(三篇巻之六)ぐらいでしょうか。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/unkonsi/zenpen/zenpen2/024.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/unkonsi/sanpen/sanpen6/104.html

でも、これは本当の例外です。
玉髄の図(後編巻之一)なんかは、はっきり美石の類として紹介されているのですが、現代的な感覚では、かなり変てこりんな、まるで美しくない絵です。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/unkonsi/kouhen/kouhen1/023.html

江戸時代、花鳥画の伝統のある日本では、動植物についてはすぐれた博物図譜が作られましたが、鉱物関係はダメっぽいですね。

要するに、鉱物を美しいものとして図示する作法は日本では未成熟で、明治になって外来の書物を通じてようやく身に付けたものではないか…そして、こういう図に親しく接することで、一部の生徒の内部に鉱物趣味が育ってきたのが明治の後半あたりではないか…と、想像しました。

賢治が小学校にあがったのは、ちょうどこの本が出た明治36年で、彼が「石ッコ賢さん」と呼ばれて、鉱物採集に夢中になったのは明治40年ごろ。足穂は賢治より4歳年下ですから、同じように鉱物熱に取り付かれたのは明治も末年のことでしょう。

(この項続く)