2月10日は理科少年の日 ― 2009年02月11日 19時17分58秒
昨2月10日は理科少年の日でした。
何となれば、日本の理科少年は1901年2月10日に生まれたからです。
いったい何を言い出すのか…と思われるでしょうが、上の日付は、日本理科少年史―そんなものがあるとすればですが―に屹立する、記念碑的作品が発行された日なのです。
その名は『理科十二ケ月』(博文館)。
作者は博学の編集者・文筆家として鳴らした石井研堂(1865-1943)です。
本書はその名の通り、月替りで1冊ずつ、計12分冊から成るシリーズものです(実際には同じ月に2冊出ることもあり、1901年2月に『第1月 新風船』が出た後、同年11月に『第12月 帰省録』が出て完結しています)。
もちろん、これ以前にも少年向きの理科読み物はあったと思いますが、後世への影響という点で、この作品は全く特異な地位を占めています。この本の幼い愛読者で、後にそれがきっかけで偉大な科学者となったのが朝永振一郎博士だ…と聞けば、その影響力の一端が分かるでしょう。
理科好きの少年たちが、対話や実験を通じて身近なサイエンスを追うという、そのシチュエーションが、まず子どもたちの共感と憧れを誘ったでしょう。そして研堂は、雑誌「小国民」の編集主幹として、子ども相手の文章の呼吸をすっかり飲み込んでいたので、20世紀の新時代を歓呼して迎えた世間の風潮ともあいまって、同書が人気を博したのは当然と言えます。
この作品において、研堂が造形した理科少年像が、その後の理科少年のイメージを方向付けたのは、まず間違いないでしょう。
さて、肝心の内容はまたおいおい見ていくことにします。
★
なお、12冊揃いの復刻版が現在クレス出版から販売されています。
何となれば、日本の理科少年は1901年2月10日に生まれたからです。
いったい何を言い出すのか…と思われるでしょうが、上の日付は、日本理科少年史―そんなものがあるとすればですが―に屹立する、記念碑的作品が発行された日なのです。
その名は『理科十二ケ月』(博文館)。
作者は博学の編集者・文筆家として鳴らした石井研堂(1865-1943)です。
本書はその名の通り、月替りで1冊ずつ、計12分冊から成るシリーズものです(実際には同じ月に2冊出ることもあり、1901年2月に『第1月 新風船』が出た後、同年11月に『第12月 帰省録』が出て完結しています)。
もちろん、これ以前にも少年向きの理科読み物はあったと思いますが、後世への影響という点で、この作品は全く特異な地位を占めています。この本の幼い愛読者で、後にそれがきっかけで偉大な科学者となったのが朝永振一郎博士だ…と聞けば、その影響力の一端が分かるでしょう。
理科好きの少年たちが、対話や実験を通じて身近なサイエンスを追うという、そのシチュエーションが、まず子どもたちの共感と憧れを誘ったでしょう。そして研堂は、雑誌「小国民」の編集主幹として、子ども相手の文章の呼吸をすっかり飲み込んでいたので、20世紀の新時代を歓呼して迎えた世間の風潮ともあいまって、同書が人気を博したのは当然と言えます。
この作品において、研堂が造形した理科少年像が、その後の理科少年のイメージを方向付けたのは、まず間違いないでしょう。
さて、肝心の内容はまたおいおい見ていくことにします。
★
なお、12冊揃いの復刻版が現在クレス出版から販売されています。
コメント
_ とこ ― 2009年02月11日 20時01分45秒
_ 玉青 ― 2009年02月12日 20時26分43秒
ええええ!
では、2月10日は理科少年と理科少女の日にしましょう。(でも理科少年の日のままの方がお気に召すなら、そのままにしましょう。)
遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます。
では、2月10日は理科少年と理科少女の日にしましょう。(でも理科少年の日のままの方がお気に召すなら、そのままにしましょう。)
遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます。
_ S.U ― 2009年02月14日 09時05分20秒
この石井研堂という人については、私は文学者か歴史家のように思っていたのですが、ちょっとwebで調べてみるとこれまたひと言では言えないつかみどころのない人のようです。地元で小学校教員をしていたが上京して編集の仕事をし、文筆家とのつきあいが広く自らも作品を書いています。それが、理科少年の創始者だとするとわけがわからなくなりました。また、なんらかのイメージをうかがえることがありましたらご紹介下さい。なお、私が石井研堂のことを初めて気にしたのは、『江戸漂流記総集--石井研堂これくしょん』(1992、現在も発売中)の存在によってです。
_ 玉青 ― 2009年02月14日 16時54分46秒
石井研堂は確かによく分からない人ですね。特に「これが専門」という分野もなくて、まあ強いて言えば、「在野の文化史家」とでも言うほかないんでしょうが、ただ思い起こすと、明治の頃には、ジャーナリスト上がりの博覧強記型の文筆家が、結構いたような気もします(宮武外骨とか)。彼らもまた時代の産物だったのでしょう。
その研堂がなぜ理科モノに手を出したのかは、あとで本の内容に触れる際、考えて見ようと思います。
その研堂がなぜ理科モノに手を出したのかは、あとで本の内容に触れる際、考えて見ようと思います。
_ S.U ― 2009年02月15日 10時31分54秒
>彼らもまた時代の産物だったのでしょう。
江戸時代に寺子屋で教えていた儒学者の先生の残照が文明開化とマッチした、というような事情があったのでしょうか。でも、昭和以降は、アカデミズムやら学閥やらがのしてきて、こういう気骨の通った在野の知識人は少なくなりましたねぇ... と今の私が嘆いてみても何のことやら、です。
江戸時代に寺子屋で教えていた儒学者の先生の残照が文明開化とマッチした、というような事情があったのでしょうか。でも、昭和以降は、アカデミズムやら学閥やらがのしてきて、こういう気骨の通った在野の知識人は少なくなりましたねぇ... と今の私が嘆いてみても何のことやら、です。
_ 玉青 ― 2009年02月15日 19時34分18秒
いやいや、S.Uさん(…は、在野ではないかもしれませんが)のように、気骨の通った方も世にいらっしゃいますので、我が平成日本も捨てたものではありません。古今東西、宇宙の果てから極微の世界まで、説いて止まざる気迫を以って、我が蒙を啓いてくださいませ。
_ S.U ― 2009年02月16日 20時28分32秒
これまたたいへんなおことばをいただき、恐れ入りますです。
在野だろうが内野だろうが、研堂さんのおっしゃる通り、眼前の現象を目に留め観察し、そして議論する、理科少年の精神に尽きますね。
在野だろうが内野だろうが、研堂さんのおっしゃる通り、眼前の現象を目に留め観察し、そして議論する、理科少年の精神に尽きますね。
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ワタクシは理科少年とおんなじ誕生日だったのですね!
うれしい、うれしいです。
この喜びをお伝えしたく、内容はありませんがコメントさせていただきました。
ニマニマがとまりません。