星の城、あるいは星の地下要塞2015年10月03日 12時44分40秒

政治的には無能の烙印を押されたルドルフ2世。

このひどく珍奇を好んだ皇帝を、天文学の切り口から眺めると、何といってもティコ・ブラーエ(1546-1601)ヨハネス・ケプラー(1571-1630)のパトロン役を果たしたことが、大きな功績として挙げられます。

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今日はティコ・ブラーエにちなんで、古い図版を取り上げます。


ティコ・ブラーエが、皇帝のお膝元であるプラハに向ったのは1596年のことです。
彼がそうした行動に出たのは、それ以前のパトロン、デンマーク王フレゼリク2世(1559-1588)が没した後、後継のクリスチャン4世から思うような庇護を受けられなかったからですが、ティコ自身はもっぱら「天空の臣」を自認していたので、人間界の君主には、物質的恩義以上のものを感じておらず、その辺はサバサバしたものです。

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デンマーク在住時代、ティコが天空の神に謁見するため、フヴェン島(現・スウェーデン領ヴェン島)に築いた「天空の城(ウラニボルグ)」のことは、前も記事にしました。


そして、彼はそのそばにもう1つの「城」を構築していました。


Iconographia Stellaeburgi、「星城図」。

このラテン語は文字通り「星の城」の意で、一般には「ステルネボリ」(スウェーデン語)として知られます。


2つの城跡の現況を上空から見たところ。

中央の堂々たる「天空の城」に比べて、矢印を付けた「星の城」はごく小さな施設です。
しかし、「星の城」は驚くべきことに、地下観測施設でした。

物理的振動を極限まで排した、不動の観測拠点。観測の最中、恣意的にデータを比較できないよう、2つの城が独立して観測を行なうことで(ティコは何人ものスタッフを抱えていました)、観測結果の信頼性を高める目的もそこにはあったといいます。



(「星の城」の往時の外観。Wikipediaより)

「星の城」はティコが島を去ったあと廃墟となり、長く土中に埋もれていましたが、1950年代に発掘が行われ、今では建物も復元されて、観光名所になっている由。
「つわものどもが夢の跡」も、それはそれで情趣がありますが、ティコの強靭な意志がはっきり目に見える形でよみがえったことは、嬉しい出来事でした。

(なお、掲出したのはオランダの地図製作者、ウィレム・ブラウ(Willem Janszoon Blaeu 1571-1638)が1625年に出した出版物の1ページです。)

コメント

_ S.U ― 2015年10月04日 06時33分06秒

 このルドルフ2世と、奇本『ヴォイニッチ手稿』を買ったというルドルフ2世は同じ人なのですね。私は何となく趣味が違うようで別人かなと思っていました。『ヴォイニッチ手稿』は実はルドルフ2世が冗談で発注した発注者も承知のデタラメの内容の書物ではないかという説を私は考えています。

 ティコの観測所のデザインにも彼の趣味が反映されているのでしょうか。ルドルフ2世が現代にやってきたら、あるいは、我々が過去に旅行してルドルフ2世を訪問したら、果たして我々と話が合うのかと想像します。それともこちらは向こうについていけないのでしょうか。

_ 玉青 ― 2015年10月04日 13時48分28秒

ルドルフ2世もいろんなところに顔を出しますねえ。
もし彼が現代によみがえり、しかも王様なんぞでなく一市民だったら…
きっとゴミ屋敷問題で、ワイドショーを賑わせることでしょう。(他人のことは言えませんが・笑)

_ S.U ― 2015年10月05日 08時33分28秒

>ゴミ屋敷問題で、ワイドショーを賑わせ
 これは、けっこう我々と馬が合う人だったかも・・・(笑) 変人で恐い人かと思っていましたが、少し親しみがわきました。
 政治的には無能であっても、泰平の世にあっては、こういう文化趣味の王様がかえっていいかもしれません。徳川綱吉も最近はそのように評価されているようです。

 自らは戦争を知らないくせに、やたらと外患の憂をあおり、大時代的に「一億総なんとか」と、庶民はみんな働いてかろうじて食うだけの社会をめざしているような指導者と比べてそのように思います。

_ 玉青 ― 2015年10月05日 21時33分14秒

まあ、あの方の場合、文化の面でも○○ですし、政治の面でも○○ですから、なかなか美質を見つけ難いです。

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