再びハリーとハレー ― 2017年01月04日 07時25分47秒
ハレー彗星と、その発見者であるエドモンド・ハレーに関する昨日の記事に、常連コメンテーターのS.U氏からコメントをお寄せいただきました。それに対してお返事を書いていたら結構な分量になったので、他の方からのご教示も期待しつつ、以下にその内容を記しておきます。S.Uさんの元のコメントと併せてごらんいただければと思います。
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S.Uさま
ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。
ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。
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まず、外来語の表記について、お上が何か言っているかな?と思って調べたら、文科省がずばり「外来語の表記」という内閣告示を出していました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html
でも、これはものすごくゆるくて、ほとんど何も言ってないに等しいです(慣用があるものは慣用に従え、語形に揺れがあるものはどっちでも良い、特別な音の書き表し方は特に制限を設けず自由に書いてよい…etc.)。他の決め事も、全てこれぐらい大らかだと結構なのですが、それはともかくとして、今に至るまで外来語の表記について、しっかりした官製ルールはないように見受けられます。
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「-ley」の日本語表記が揺れているのは、Halleyの他にも、Stanley(スタンレー、スタンリー)やBentley(ベントレー、ベントリー)のように、いくらもあるでしょうが、私見によれば、この揺れの背後にある根本原因は、横文字を日本語で表記する際の「2大ルール」がコンフリクトを起こしていることで、その根はなかなか深いと思います。
全くの素人談義ですけれど、その2大ルールとは「原音主義」と「ローマ字準拠主義」で(勝手な命名です)、たとえば同韻の単語でも、potatoは原音主義により「ポテト」、tomatoはローマ字準拠により「トマト」となるように、英単語の表記は、この両者の間を歴史的に絶えず揺れ動いてきました。
前者は、音声言語でやりとりする際に利があり、後者は日本語から原綴を復元しやすく、文字言語でやりとりする際に利があります。(まあ、これはスペルと発音の乖離が著しい英語だから悩むのであって、独仏語なんかの場合は、ローマ字を持ち出すまでもなく、それぞれの発音ルールにしたがって音写すればことが足ります。)
ハリーとハレーの差も、結局は原音主義をとるか(ハリー)、ローマ字準拠主義をとるか(ハレー)の違いによるもので、それぞれ一長一短がありますから、なかなかすっきりと結論は出そうにありません。
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ただ、ハレーに関していうと、これはやや中途半端な表記で、完全にローマ字準拠主義をとるなら「ハルレイ」となるはずで、実際、明治期にその用例があります(下述)。おそらく、その後「ハルレイ」→「ハレイ」→「ハレー」という変化を経て、ハレーが定着したのでしょう。
昭和8年(1933)に出た、山本一清・村上忠敬著の『天文学辞典』では既に「ハレー」となっており、この頃には既にハレーがかなり一般化していたことを窺わせます(同時期、荒木俊馬は「ハレイ」を使っていて、昭和戦前は「ハレイ」と「ハレー」が混在していたようです)。
参考までに手元の明治期の本を見ると、
○小幡篤次郎 『天変地異』(1868) ハルリー
○西村茂樹訳・文部省印行 『百科全書 天文学』(1876) 哈勒(「ハルレイ」とルビ)
○文部省印行 『洛氏天文学』(1879) ハルレー
○横山又次郎 『天文講話』(第5版、1908) はれー
○本田親二 『最新天文講話』(1910) ハリー
○須藤傅治郎 『星学』(第9版、1910) ハーレー
○西村茂樹訳・文部省印行 『百科全書 天文学』(1876) 哈勒(「ハルレイ」とルビ)
○文部省印行 『洛氏天文学』(1879) ハルレー
○横山又次郎 『天文講話』(第5版、1908) はれー
○本田親二 『最新天文講話』(1910) ハリー
○須藤傅治郎 『星学』(第9版、1910) ハーレー
となっており、「リー」と「レー」の間で、表記がずっと揺れていますが、どうもこの頃から「レー」が優勢だった気配もあるので、ハレーの普及を抱影翁一人の責めに帰すのはやや酷かもしれません。(でも「あの」抱影がハレーと書けば、全国の天文ファンも当然右にならえしたでしょうから、抱影の影響も必ずやあったことでしょうね。)
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なお、抱影がどこからそれを引っ張ってきたかは不明ですが、「エドマンド」は明らかに「Edmund」を意識したものと思います。
コメント
_ S.U ― 2017年01月04日 13時31分52秒
_ 玉青 ― 2017年01月05日 07時24分28秒
しかし、この問題は考えれば考えるほど難しいですね。
星座和名関して言うと、ラテン語の表記を元にしたせいで、ギリシャ語による標準的な名称とずれてしまい、星座神話の本を編んだりする際、ちょっと問題になりますね。(原恵氏の『星座の神話』を覗いたら、星座はペガスス、地の文はペガソス…という便法をとっていました。)
それでも、星座名や元素名のように限られた語彙なら、学術会議あたりがエイヤッとトップダウンで決めれば、標準化も可能なのでしょうが、これからも続々と現れる新語に対して、標準的な表記を定める――というよりも、それを可能にするルールを定める――のは、言うなれば幕末・明治の学者が、欧米の学術用語に訳語を当てた苦労に匹敵するものかもしれませんね。
Tabur 彗星にしても、仮にアメリカにもう一人別のTaburさんというコメットハンターがいたら、その発見はたぶん「テイバー彗星」ということになるのでしょうけれど、そうすると和名で配列した場合、二つのTabur彗星は分離して登場することになり、何だかそれも分かりにくいですよね。
英語がさらに身近になっても、アップルがアポーに、マクドナルドがマクダーナルになることは多分ないでしょうし、ローマ字準拠主義は今後も生き延びるでしょうが、それと原音主義との兼ね合いをどのへんで付けるか、いちばん身近な英語にしてもそうなのですから、これがロシア語やアラビア語やウェールズ語になったらどうするのか、悩ましいことこの上ないです。
星座和名関して言うと、ラテン語の表記を元にしたせいで、ギリシャ語による標準的な名称とずれてしまい、星座神話の本を編んだりする際、ちょっと問題になりますね。(原恵氏の『星座の神話』を覗いたら、星座はペガスス、地の文はペガソス…という便法をとっていました。)
それでも、星座名や元素名のように限られた語彙なら、学術会議あたりがエイヤッとトップダウンで決めれば、標準化も可能なのでしょうが、これからも続々と現れる新語に対して、標準的な表記を定める――というよりも、それを可能にするルールを定める――のは、言うなれば幕末・明治の学者が、欧米の学術用語に訳語を当てた苦労に匹敵するものかもしれませんね。
Tabur 彗星にしても、仮にアメリカにもう一人別のTaburさんというコメットハンターがいたら、その発見はたぶん「テイバー彗星」ということになるのでしょうけれど、そうすると和名で配列した場合、二つのTabur彗星は分離して登場することになり、何だかそれも分かりにくいですよね。
英語がさらに身近になっても、アップルがアポーに、マクドナルドがマクダーナルになることは多分ないでしょうし、ローマ字準拠主義は今後も生き延びるでしょうが、それと原音主義との兼ね合いをどのへんで付けるか、いちばん身近な英語にしてもそうなのですから、これがロシア語やアラビア語やウェールズ語になったらどうするのか、悩ましいことこの上ないです。
_ S.U ― 2017年01月05日 18時48分55秒
>ロシア語やアラビア語やウェールズ語になったらどうするのか、悩ましいことこの上ないです
本当にそうです。すでに現実問題です。
ロシアで発見される彗星もけっこうあります。
さらに、最近、IAUは恒星名の公認を行いました。
https://www.iau.org/news/pressreleases/detail/iau1603/
https://www.iau.org/public/themes/naming_stars/
すでにご案内のように、アラビア語が多いんですよね。
本当にそうです。すでに現実問題です。
ロシアで発見される彗星もけっこうあります。
さらに、最近、IAUは恒星名の公認を行いました。
https://www.iau.org/news/pressreleases/detail/iau1603/
https://www.iau.org/public/themes/naming_stars/
すでにご案内のように、アラビア語が多いんですよね。
_ 玉青 ― 2017年01月06日 22時45分08秒
あ!ありがとうございます。
ついに恒星の固有名の標準化が行われたのですね。
これまた随分長いこと懸案だったと思いますし、東方由来の星名をアルファベット化する苦労は、日本人が西洋の名辞をカナ書きする苦労に匹敵するものがあったことでしょうね。この後、日本ではさらにアルファベットをカナに直す作業が続けられるのでしょうが、関係者の努力に期待したいです。
>ロシア語
そもそもロシア語には、日本人に発音できない音がいくつもあると思いますが、発音できない音をカナに直すというのは、黒を白と言うというか、木に竹を接ぐというか、とにかくかなりハイパーな作業であることは間違いないですね。(^J^)
ついに恒星の固有名の標準化が行われたのですね。
これまた随分長いこと懸案だったと思いますし、東方由来の星名をアルファベット化する苦労は、日本人が西洋の名辞をカナ書きする苦労に匹敵するものがあったことでしょうね。この後、日本ではさらにアルファベットをカナに直す作業が続けられるのでしょうが、関係者の努力に期待したいです。
>ロシア語
そもそもロシア語には、日本人に発音できない音がいくつもあると思いますが、発音できない音をカナに直すというのは、黒を白と言うというか、木に竹を接ぐというか、とにかくかなりハイパーな作業であることは間違いないですね。(^J^)
_ S.U ― 2017年01月07日 07時26分17秒
外国から入って来る膨大な数の物を一つ一つ丁寧に吟味し日本的な枠に収めていく、2000年間これを続けてきて、木に竹を接ぎ本来白であるべきところが黒くなっている壮大な細工が、良くも悪くも日本独自の文化ということができるでしょうから、これができないことはないと思います。
_ 玉青 ― 2017年01月07日 13時49分33秒
昔から、サンスクリットの「oṃ a vi ra hūṃ khaṃ svāhā」を中国の人が苦労して「唵阿毘羅吽欠蘇婆訶」に置き換え、それをまた日本人が「オンアビラウンケンソワカ」と読みこなし…なんていうことを延々と続けてきたわけですもんね。まこと、文化摂取のはるかな歴史に改めて感じ入ります。
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なお、私のご紹介したメーリングリストでも似たような調査がありました。でも、メーリングリストの会自体は、呼称の揺れの経緯を検討することが主たる目的ではなく、目的はあくまでも合理的な「標準化」にあります。ご紹介の通り、文科省のお達しは一般的にはごく緩いのですが、固有名詞的な理化学用語においては必ずしもそうではなく、星座名(「カシオペヤ」、「ペガスス」など)、元素、化学物質名(「キセノン」、「シクロヘキサン」など)は、一応、標準化されていて、その通り使わないと間違いとか違法とかではありませんが、権威ある学会や用語集でオーソライズされています。教育的な記事やマスコミに流す時にはそれに従うことが望ましいと考えられています。
同様に、天体名(恒星、衛星、彗星など)も何とかしたいというのはまっとうな望みなのですが、彗星の代表たる「ハレー」と「ハリー」をどちらでもよいと言ってしまうと、この有意義な望みをハナから放棄することになりかねず、この議論に固執することがいきなり牙城の防衛線になっているものと思います。
慣用に従うのがよい、というのがもっとも穏当な意見だと思うのですが、彗星は次から次へと新発見がなされ、しかも、存命している人の名前(それも「同業者」の名前)がつけられるので、原則としては慣用よりも本人の呼称が優先されるのが当然になります。ここで、世の慣用に頼ると、このネット、SNSが有力な現代社会では、明らかに誤った呼び方が広がってしまいかねません。というところで、何とか個々の例について「標準」案を出そうと苦労しているメーリングリストです。
ところで、「宮澤賢ズ」にちょっと似た例が彗星にもあります。Tabur彗星というけっこう明るくなった彗星があって、これは、Tabur氏というオーストラリアの人が発見したのですが、オーストラリアでは多くの場合、"a"や"ay"を米英人のように「エイ」とは発音せず「アイ」と発音するので、日本字では、Tabur彗星は、圧倒的多くの場合に「タイバー彗星」となっています。国立天文台のWebでもそうなっています。事情を知らない人には、Taburがなぜタイバーなのかわからないと思います。