姓は針井、名は江戸主水2017年01月03日 11時42分36秒

新年から小ネタです。

なんとなくウィキペディアのハレー彗星の項を見ていたら、この「ハレー彗星」という表記は間違いで、「ハリー彗星」と書くのが正しいのだ…という議論があることを知りました。ウィキペディアだと、本編の記述ではなく、ノートのページでその議論が行われています。傍から見ると、かなり感情的な言葉の応酬で、ちょっと身構えるものがありますが、そこまで情熱的になれるのは、ある意味すごいことです。

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「ハリー派」の論拠は、主にネイティブの発音は「レー」より「リー」に近いというもので、私の耳にも確かにそう聞こえます。

でも、そうすると Edmond Halley のファーストネームの方は「エドモンド」のままでいいのか、NHKのアナウンサーはこれを「江戸主水」と同じ読み方をするでしょうが、これは元の「Edmond」の発音とは相当距離があって、そっちはそのままでもいいのか?…という疑問が頭をもたげます。

では、他にどう書けばいいのか?と問われても、特に名案はなくて、結局のところ英語の音韻を、日本語の五十音(限られた子音と母音)で表記するのは、最初から無理なのだ…と達観するほかない気もします。その意味では、ハレーもハリーも五十歩百歩だというのが、偽らざる感想です。

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で、今日改めて知ったのは、実はこのハレー彗星とエドモンド・ハレーの発音をめぐっては、ネイティブの間でも意見が分かれているということです。ただし、それは「レー」と「リー」の違いではなく、冒頭の「ハ」の字の部分です。

Wikipediaの「Halley's Comet」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Halley's_Comet)を見ると、一番最初に「発音 Pronunciation」という節があって、

 「ハレー彗星は、通常『valley』と同韻の /ˈhæli/〔ハリー〕、もしくは『daily』と同韻の /ˈheɪli/〔ヘイリー〕と発音される。Edmond Halley の名前の綴りは、彼が在世当時、Hailey、Haley、Hayley、Halley、Hawley、Hawlyと様々であり、同時代にどのように発音されたかははっきりしない。」

と書かれています(出典として、ニューヨークタイムズの「サイエンスQ&A」の記事が挙がっています)。要は「ハリー」か「ヘイリー」かで、向うの人も悩んでいるようなのです。

このことは、「Edmond Halley」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Edmond_Halley)を見たら、「発音と綴り Pronunciation and spelling」の節で、さらに詳しく書かれていました。ざっと適当訳してみます(改段落は引用者による)。

 「Halley という姓には3通りの発音がある。
イギリスでも
アメリカでも、最も普通なのは、/ˈhæli/〔ハリー〕である。これは、現在ロンドンで暮らしている Halley 姓の人の多くが、自ら用いている発音である。

それに代わる/ˈheɪli/〔ヘイリー〕というのは、ロックンロール歌手のビル・ヘイリーと共に育った世代が、エドモンド・ハレーとその彗星を呼ぶ際に、しばしば好んで用いる発音である。ビル・ヘイリーは、ハレー彗星の読み方として、当時〔1950年代〕のアメリカでは一般的だった発音〔ヘイリー〕をもじって、自分のバックバンドを「コメッツ」と呼んだ〔最初は「Bill Haley with Haley's Comets」、後に「Bill Haley & His Comets』が、そのグループ名〕。

ハレーの伝記作家の一人であるコリン・ロナンは、/ˈhɔːli/〔ホーリー〕という発音を好んだ。

同時代の記述は、ハレーの名前をHailey、Hayley、Haley、Haly, Halley、Hawley、Hawlyと綴っており、おそらく発音も同様に多様だったろう。」

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そして、「エドモンド」というファーストネームについても議論があるようで、Wikipediaは上の説明に続けて、

 「そのファーストネームに関していうと、1902年の〔タイムズ紙掲載の〕ある記事は、『Edmund』という綴りの方がずっと一般的ではあるが、『Edmond』こそ、ハレー自身が用いた綴りだとしている。

しかし、2007年の『International Comet Quarterly』誌掲載の論文は、これに異を唱えている。同論文は、ハレーの公刊された著作の中で、『Edmund』は22回も使われているのに、『Edmond』はたったの3回しか使われておらず、また他にもラテン語化された『Edmundus』のような、いくつかのバリエーションが用いられていることを指摘している。

こうした議論の多くは、ハレーが生きた時代には、英語の綴字の慣習はまだ標準化されておらず、したがってハレー自身も複数のスペリングを用いたという事実に由来している。」

と、その間の事情を明かしています。

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こういうのは、行き過ぎると「言葉咎め」や、さらには「言葉狩り」のようになって良くないですが、しかし一歩踏み込んでみると、興味深い事実が分かりますし、いろいろ考えさせられます。

(本人自身がどう発音していたかは、最も重要な基準でしょうが、これも行き過ぎると、「宮沢賢治を欧文表記するときは、“Miyazawa Kenzu”が正しい」…ということにもなりかねません。)

コメント

_ S.U ― 2017年01月03日 14時03分37秒

「ハレー彗星」は周期彗星界の並ぶもののないスーパースターなのに、カタカナでどう表記すべきか迷うとなるとやっかいなことですね。
 実は、私も、この方面のさる熱心なメーリングリストで(JANNETというメーリングリストです)、議論をさせていただいたことがあります。このメーリングリストは学術・普及分野での積極的、合理的な日本字による表記の「標準化」を目指すという真面目な意図のもので、感情的な議論はありません。そこで、興味深い議論があったので、この場を借りて紹介させて下さい。

 それは、ある方が、ハレー彗星は、過去には(戦前?)には「ハリー彗星」というより適切な表記があったのに、なぜそれが廃れて「ハレー彗星」一点張りになったのかという問題意識を持たれ、その理由は野尻抱影である、という説を掲げられたことでした。私は、この説を支持しようとしたのですが、他にも2人くらいの方のご意見や調査があって、ここに意見を述べられた方の実名やその調査結果の詳細を書くことは控えさせていただきますが、諸氏の意見や調査を聞いた私の印象の中の結論としては、

 野尻抱影はかつては「ハリー彗星」と書いていたのに、戦前のある時点で「ハレー彗星」に乗り換え、その後の著作は「ハレー彗星」一点張りになった。これは英語の発音表記に拘りのあった抱影には珍しいことで、マスコミに合わせた(心ならずも迎合した??)可能性がある。1950~60年代の抱影の天文入門書を読んで育った天文家が1980年のハレー彗星接近時に一様に「ハレー彗星」の表記を使い(あるいは、ここでもマスコミに迎合?)、現在の状況になった。従って、野尻抱影の影響が大きかったことが主原因であると考える。

 もちろん、これはメーリングリストで合意を得られた結論ではなく、私の個人の説です。さらに深く調べて下さる人があると有り難いので、この場をお借りして紹介させていただきました。

 それから、抱影は、「針井江戸主水」ではなく「エドマンド・ハレー」と書いていました)(『天体と宇宙』(1953))。ちょっと不自然なので、私は「姓だけマスコミに迎合したため」という可能性を考えましたが、現在の標準(Edmond)とは違って、抱影はEdmundのスペルのほうを意識していたのかもしれない、と今日御ブログを拝見して思いました。

_ Nakamori ― 2017年01月03日 15時12分39秒

"Kenzu"、笑わせてもらいました!

_ 玉青 ― 2017年01月04日 07時30分26秒

○S.Uさま

ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。

(…と書き出したら、思いのほか長くなったので、記事本編に挙げることにしました。)

○Nakamoriさま

賢治は英語で自署するときは、もちろん「Kenji」と綴ったんでしょうが、それを読むときは多分「Kenzu」と読んだでしょう。こうなると何をもって正しいとすべきか、本当に悩ましいです。

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