ネットの穴を覗く2018年02月18日 12時31分55秒

インターネットには実に多くの情報が堆積しています。

でも、仮にその情報量が無限だとしても、「すべての」情報がそこに乗っかるわけではありません。ちょうど無限にあるはずの有理数だけでは、数直線は埋まらず、漏れ落ちる情報も、また無限であるようなものです。(これは先日コメントをいただいたzam20さんの「ミクロ・マクロ・時々風景」で拝読し、思わず膝を打った比喩。)

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先日、飛行機乗りのための星座早見盤の話題を書きました。
それを受けて、今度は船乗りのための星図を探しました。探してみると、実際そういう航海用星図はたくさんあって、船乗りは海図片手に水平線を眺めるばかりでなく、星空にも親しんでいることが、改めてよく分かりました。

船乗りが眺めた星空の件は、また別に記事にしたいと思いますが、その手の星図を買ったら、売り手の人がオマケとして、マップ・ディバイダを付けてくれました。


マップ・ディバイダは、2本の脚を開閉して、地図上の任意の2点間の距離を拾い上げる器具です。コンパスタイプの品もありますが、これは上部の丸い部分を握ると脚が開くタイプ。これだと片手で操作できるので、すこぶる作業効率が良いです。


本命の星図は1947年刊行だったので、このディバイダも同年代のものかなと思いますが、最後まで分からなかったのは、その素性です。


ディバイダの最上部、両足の回転軸を留めるビスには、「W & HC」というメーカーの記載があります。また裏側には「BRITISH MADE」の刻印もありました。検索すると、この「W & HC」ブランドのディバイダは、新品・中古を含めて大量に売られており、時代も1930年代と称する品から、ごく最近の物にまで及びます。まあ、おまけに付けてくれるぐらいですから、品物の価値は最初から知れており、そう古いものでないことは確かですが、それでも、この「W & HC」とは何のイニシャルなのか、それだけでも知りたいと思いました。

で、早速調べたのですが、これだけ流通している「W & HC」の正体が杳として知れないのです。「まさか、そんなはずはない」と思って、いろいろ検索したのですが、まったく分かりませんでした(唯一このイニシャルで見つかったのは、Wallsend & Hebburn Coal Company という、50年前に廃業したスコットランドの石炭商だけした)。

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ディバイダの正体はさておき、ことほど左様に、ネット情報には意外な穴がポコポコ開いています。裏返せば、ユニークな情報は意外と身近なところにゴロゴロしていて、今日も誰かに発見されるのをひそかに待っているのでしょう。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

昨日の記事を書いた後で、古武道の士にして、フリーランスの記者でもある瀬沼翠雨氏のブログ、「新・流れ武芸者のつぶやき」を拝読しました。その2月16日の記事、「メメント・モリ」に接し、深く歎息するとともに、大いに頷いたことがあります。

昨日の私は、ジャーナリズム退潮の背後に、権力者が使嗾(しそう)する後ろ暗い力の存在を憂慮しましたが、実はそこにはもっと即物的で、もっと暴力的な力が作用していたのです。

それはお金です。

今は活字商売がひどく左前だ…ということは承知していましたが、これほどの窮状にあるとは、瀬沼氏の文章を読むまで、実感していませんでした。かくて、その影響は業界の隅々にまで及び、今や老舗出版社であれ、大新聞社であれ、とにかく金になる仕事が先だ…というわけで、きわめて良識的な出版社であったはずの某社ですら、最近は“ネトウヨ本”に手を染めたりしているわけです。

もちろん、それが媒体の変化だけのことで、知性と人間主義に基づく言論空間が、新たにネット上に形作られているのならば、これほどの不安感は覚えないでしょうが、それもすこぶる怪しい気がしています。


【閑語のおまけ】
 ときに昨日の「閑語」の末尾。唄を忘れたカナリアが棄てられるのは「後の山」でしたね。そして「裏の畑」で鳴くのはポチです。威勢よくジャーナリズム批判を展開したわりには、どうも知性と教養に欠ける記述でした。

コメント

_ S.U ― 2018年02月18日 15時45分59秒

>閑語
 そういえば、日本で「拝金主義」がはびこるようになったのはいつからなんでしょうか。

 もちろん、拝金主義は貨幣経済が始まった頃から普遍的にあったと考えられますが、ここで言っているのは、手段を選ばぬ拝金至上主義が堂々と正当にまかり通るようになったのはいつからかということです。

 私は、時代劇が好きで、江戸の時代劇を見ていると、悪徳商人が出てきて、悪代官と「えちごやよ、おぬしも悪よのう」、「それをおっしゃるお代官様こそ、ヒヒヒ・・・」とやるのをよく見ますが、彼らは自分が悪であることを認識しているだけ現代から見るとマシではないか、えちごやもお代官も大した悪人ではないと、いつも思って見ています。

 で最初の疑問ですが、明治30年代頃に、大本教の出口なおや夏目漱石が日本の近代化について感じた漠然とした疑問、これの一部が拝金主義の変化(=公認化)であり、彼らがこの部分に強く反応したということではないかと思っています。これが正しいかどうかはわかりませんが、こういうところから洗い直してこそ、「明治150年」の歴史の真実を学べるというものではないかと思います。

_ Nakamori ― 2018年02月19日 10時14分15秒

最近、雑誌って読まなくなってきています。そういう人、多いのではないでしょうか。出版に関わっている友人も同じようなことを言っています。出す方がそうなので、出版不況というのも宜なるかな、と理解できます。一方で面白いと思える本(自然史系)は結構出ているのです。しかし、それら全てフォローしていくには時間もお金も足りない、と感じています。

読み手の変化は何に起因しているのか?そのあたりが鍵のような気がします。

_ 玉青 ― 2018年02月19日 20時22分49秒

○S.Uさま

明治になって導入された、一つの分かりやすいシンボルは「株」ですかね。
ああいう博奕に猫も杓子も狂奔して、日露戦争から第一次大戦にかけては、軍事特需による株長者と成金を輩出しましたが、あれぞ拝金主義の実に分かりやすいイコンでした。

つらつら思うに、拝金主義が幅を利かせるようになった、そもそものきっかけは、明治になって、それまでの米本位制(建前は銀本位制)から、金本位制にドラスティックに移行したことがあるかもしれませんね。金という、労働投下量とはまるで関係のない一鉱物資源が、人々の暮らしを徹底的に縛るようになって、まともに働くのが馬鹿らしい…という空気が醸成されたのかなと、ぼんやり想像します。

明治になって、江戸の町にはついぞ存在しなかった「貧民窟」が、東京のあちこちに形成されたことも、明治社会の暗部を象徴するものでした。拝金主義と並んで、社会格差のとめどない拡大を、明治の良識派はいたく憂えたことでしょう。

その基本構図は今も変わっていないように思います。まことに忌まわしいことです。

○Nakamoriさま

軟らかい雑誌はもちろんですが、硬い本なんかでも、自分では真面目な動機で読んでいると思っていましたが、実際には単なる消閑の具として、いわば目で見るチューインガムとして読んでいた部分もあるかな…と、今にして思います(少なくとも自分の場合、そういう部分が少なからずあったと思います)。となると、チューインガム役には、ネットの方がずっと向いていますから、その部分がネットに置き換わるのも止むを得ないのかもしれません。

_ S.U ― 2018年02月20日 07時20分40秒

>「株」
 確かにそうですね。ぱっと目の前が明るくなった心地です。

 江戸時代には、先物取引、頼母子講など合資組合やバクチ的なものはすでに発達していましたが、米本位制があり、米は武士の給金ですから、幕府は実体経済からはずれることは表向きは禁じていました。

 また、商人も、私利私欲の賭博感覚ではなく、自身の財力を通じて天下に資本や品物を回しているというのが本来の考え方であったはずです。だから、えちごやは自分が悪であることを十分認識できたでしょう。株はなかったでしょうね。他人のヴァーチャルな評判で一儲けするなど江戸時代人は思いつかなかったと思います。

 漱石の「吾輩は猫である」に株が出てきますね。鈴木君と多々良君が株で儲けたことを誇っても、苦沙弥先生はまったく関心がない、といか毛嫌いして相手にしないという場面がありました。ヴァーチャルで儲けてそれを他人に誇ることは堅物の明治人には容認できないものであったのだと思います。社会主義思想が、その頃からインテリや良家の子息から流行り始めたのも経済的な倫理観からではないかと思います。

 基本的には、漱石の悩みは今も変わらないというか、さらにモラルのない者がどんどんはびこるようになっており、目立った現象としては、つい10年程ま前までは、与党・保守政治家が愛国心や儒学的倫理を国民に説いたものですが、今や自分らがそういうことを顧慮していないことが衆知になったものだから、開き直ってしまってそういうことを言わなくなり、かわりに旧来のモラルを捨てたことを誇るようになったことが挙げられます。

_ 玉青 ― 2018年02月22日 06時32分44秒

明治150年を唱える人も、教育勅語とか持ち出さずに、「拝金150年」という視点から、過去を振り返ってほしいものです。それならば、私も素直に頷くことができます。

_ S.U ― 2018年02月22日 08時32分02秒

>「拝金150年」
 どうもそういうことのようですね。お陰様で明治の頑固人の慨嘆が良く理解できました。

>「教育勅語」
 アベさんと籠池さんの関係があるので、当分表向きに出しづらくなったと思います。事件が大ごとになって良かったと思います。

 しかし、 今に政治家連は忘れてしまい、いずれは我々が政治家に、教育勅語を知らんのか、「恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器󠄁ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益󠄁ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ」だぞ、意味がわかるか・・・、と説くようになるかもしれません。

_ 瀬沼翠雨 ― 2018年02月22日 19時06分09秒

 『天文古玩』、いつも楽しく拝読させていただいております。

 拙ブログの記事にご言及いただきまして、ありがとう存じます。

 紙媒体に携わる職業や産業そのもの退潮や衰退は、ある意味で第一次産業革命で滅びた織物職工のようなもので、もはや逃れようのない時代の趨勢と感じております。

 ただ、

>知性と人間主義に基づく言論空間が、新たにネット上に形作られて
>いるのならば、これほどの不安感は覚えないでしょうが、それもすこ
>ぶる怪しい気がしています。

 とのご指摘の通り、紙メディアに代わり、しかも本来、人間の知性や教養、民権の醸成に大きく資する可能性に富んだwebメディアが、実際には無法で偏向した、恣意的なあるいは暴力的な言語空間となりつつあることは、まことに残念です。

 一方で私は、『天文古玩』というブログと、それを取り囲む読者の皆さんが醸し出す静謐で理知的な在り様に、ひと時の安らぎとwebメディアという言語空間へのささやかな希望も感じております。

_ 玉青 ― 2018年02月24日 11時33分39秒

○S.Uさま

いやはやです。(籠池さんの薫陶を受けた園児は大丈夫でしょうが、ひょっとすると、かの云々(デンデン)氏は、これはカタカナしか読めないかもしれませんねえ。)

○瀬沼翠雨さま

こちらこそいつも興味深い記事をありがとうございます。
勝手に言及した上に、勝手なことを書き散らかして、さぞご迷惑だったのでは…と懼れますが、瀬沼さんの思いも同じであると知り、ほっとするとともに、大いに勇気づけられました。そして、こんな拙いブログでも、なにがしか瀬沼さんの心に響くものがあるならば、こんなに嬉しいことはありません。
武とは縁遠い文弱の徒ではありますが、今後も思いのたけを訥々と綴ってまいりますので、引き続きご笑覧いただければ幸いです。
(思わぬ火傷の件、遅ればせながらお見舞い申し上げます。稽古に障りがないことをお祈りしています。)

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