夜空の大四辺形(1) ― 2024年06月02日 10時23分20秒
「星の文学者」を日本で挙げると、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人にまず指を屈することになり、この3人をかつて「夜空の大三角」と呼んだことがあります。
(宮沢賢治(1896-1933)、野尻抱影(1885-1977)、稲垣足穂(1900-1977))
■夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(1)
(記事の方はこのあと全5回にわたって続きました)
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この3人の中で、立ち位置がちょっと異なるのは賢治です。
彼の文名が上がったのは死後のことで、生前は目立たぬ地方詩人に過ぎなかったからです。言葉を変えると、抱影と足穂が“自らの作家像を自らの手で築いた人たち”であるのに対して、賢治の作家像は、その作品を他の人たちが読み込み、銘々がそこに多様なイメージを投影した結果の集積に他ならず、その意味で「作家・宮沢賢治」という存在は、後世の人たちが共同制作したひとつの“作品”なのだと思います。
もちろん「英雄は英雄を知る」で、繊細な詩心を持った人たちにとって、賢治は独特の魅力を放つ先人たりえたと思いますが、戦中・戦後の賢治評価を虚心に見るとき、賢治が『風の又三郎』的な「ほのぼの系童話作家」や、『雨ニモマケズ』の「通俗道徳の人」として受容され、単にそれだけで終わっていた可能性も十分にあった気がします。
★
賢治が天才作家の列に加わったのは、そこに有能なプロモーターが存在したからだ…というと、賢治ファンに怒られるかもしれませんが、でも、賢治の才能に惚れぬいたプロモーターの純な心と、そのプロモーションの才能もまた正しく評価されねばなりません。
そのプロモーターとして外せないのが、草下英明(くさかひであき、1924-1991)氏です。草下氏は「科学ジャーナリスト」や「科学評論家」という肩書で語られることが多く、たしかにそうには違いありませんが、氏はそれだけにとどまらない異能の人です。賢治が「星の文学者」というイメージで語られるようになったのは、明確に草下氏の功績であり、氏がいなかったら、賢治イコール『銀河鉄道の夜』とはなっていなかったでしょう。
(「星の文学者、賢治」のイメージを決定づけた草下氏の『宮沢賢治と星』。初版は1953年に自費出版され、1975年に改稿版が学藝書林の「宮沢賢治研究叢書」に収められました。右は氏の回想録 『星日記―私の昭和天文史[1924~84]』)
そして、草下氏は賢治のみならず、抱影や足穂とも密な関係を保っていました。以下、氏を夜空の大三角に輔(そ)え星して、「夜空の大四辺形」と呼びたいと思います。そして、この大四辺形は単に見かけ上の配位ではなく、重力的にも緊密に結びついた四重連星を構成しているのです。
(中央が草下英明氏)
草下氏のことはすでに「夜空の大三角」の連載の折にも触れましたが、なぜその名を今再び持ち出したか? かなりずっしりした話なので、その詳細は次回に回します。
(この項つづく)
夜空の大四辺形(2) ― 2024年06月03日 18時43分41秒
草下英明氏の回想録『星日記』(草思社、1984)に、草下氏と抱影、それに村山定男の3氏が写っている写真が載っています。あれは元々カラー写真で、「色の着いている抱影」というのは、AIによる自動着色以外珍しいんじゃないでしょうか。
あるいは、石田五郎氏が自著『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用された、抱影が草下氏に宛てた葉書。これは抱影が宮沢賢治を評したきわめて興味深い内容ですが、その現物は以下のようなものです。
なぜ私の手元にそれがあるか?もちろん元からあったわけではありません。
これらの品は、ごく最近、藤井常義氏から私に託されたものです。藤井氏は池袋のサンシャイン・プラネタリウムの館長を務められた方ですが、プラネタリアンとしての振り出しは渋谷の五島プラネタリウムでした。そして時期は違えど、草下氏も草創期の五島プラネタリウムに在籍していたことから接点が生まれ、以後、公私にわたって親炙されました。
そうした縁から草下氏の没後、氏の手元に残された星に関する草稿・メモ・書簡類を藤井氏が引き継がれ、さらに今後のことを慮った藤井氏が、私にそれを一括して託された…というのが事の経緯です。
この資料の山に分け入ることは、ブログで駄弁を弄するようなお気楽気分では済まない仕事なので、私にとって一種の決意を要する出来事でした。「浅学菲才」というのは、こういうときのためにある言葉で、本来なら控えるべき場面だったと思いますが、しかし浅学だろうが菲才だろうが、その向こうに広がる世界を覗いてみたいという気持ちが勝ったのです。
いずれにしても、これはすぐに結果が出せるものではないので、ここはじっくり腰を据えて臨むことにします。
(この項、間欠的につづく)
夜空の大四辺形(3) ― 2024年06月04日 18時20分20秒
この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。
日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。
(文面はアドレス欄の下部に続いています)
これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。
「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星の話は、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい。賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」
★
石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。
たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。
まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。
石田氏の読みは「刃金青といひなさい」ですが、ごらんの通り、実際には「…といひたい」です。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。
それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。
抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。
その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。
(誤) → (正)
○星の話 → 星の註
○吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
○アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
○「ペルセウス」の混沌 → 混淆
○〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落
重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。
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情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。
美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。
草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。
(この項、ぽつりぽつりと続く)
19世紀に登場した予言の書 ― 2024年06月08日 14時02分06秒
聖徳太子作とされる予言の書、『未来記』。
言うまでもなく後世の偽書ですが、こういうあからさまな偽書が存在すること自体、未来を知りたいという人間の欲求が、いかに強いかを示すものでしょう。
聖徳太子ほどの人でも、未来を見通すことはなかなか難しいです。
しかし、「予言の書」は確かに実在します。偽書なんかではなしに。不気味なほど未来を予見し、その予言は必中という本が―。
ただし、その本は何でも予言できるわけではありません。
ごく狭い範囲の予言にとどまるものの、その限られた範囲では文字通り必中です。
■Theodor von Oppolzer(著)
『Canon der Finsternisse』
『Canon der Finsternisse』
すなわち、ハプスブルク家治下のオーストリアで活躍したテオドール・フォン・オッポルツァーが著した『食宝典』。
(Theodor von Oppolzer、1841-1886)
『食宝典』というと何だかグルメ本のようですが、内容は過去から未来に至る日食・月食を総覧したデータブックです。収録されているのは、B.C.1207年からA.D.2161年までの8,000回の日食と、同じくB.C.1206年からA.D.2163年までの5,200回の月食。
(出版事項を記した副標題紙。中央には双頭の鷲。書名を記した本標題紙がこの後に続きます)
「帝国科学アカデミー紀要 数学・科学部門 第52巻」として、1887年にウィーンの帝室国立印刷局から刊行されました(原稿が提出されたのは、オッポルツァーが亡くなる直前の1885年10月で、本になったのは没後のことです。彼は本の完成を見ずに逝ったことになります)。
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タネを明かせば「なあんだ」ですけれど、人類がこの“予知能力”を身に着けるまでに費やした努力の総量と、灰色の脳髄と2本の手だけで、この膨大な計算をやり遂げたオッポルツァーの情熱は、手放しで称賛してもよいでしょう(加えて延々と版を起こし続けた植字工の仕事ぶりも)。
オッポルツァーの骨の折れる計算は、
375頁に及ぶ大部な表と、
160枚もの日食経路図に結実しました。
そこにはもちろん、2035年9月2日に本州の真ん中で見られる皆既日食もしっかり「予言」されています。
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そういえば、前回話題にした「夜空の大三角」という記事は、2013年、今から11年前のものでした。11年といえば長いようですが、私の中ではわりとあっという間で、過ぎてしまえばそんなものです。そのことを思えば、11年後の2035年もこれまたきっとあっという間でしょう。
11年後に私が生きているか。たぶん生きている確率の方が高いですが、高齢になればいつ何があるか分からないので、この世にいないことも十分考えられます。でも、生きてこの目で見たいなあ…と心底思います。私はこれまで皆既日食を見たことがないんですが、日食については「噂ほどでもない」という人より、「想像以上にすごかった」という人の方が圧倒的に多いので、さぞかし壮麗なのでしょう。
ただ、日食というのは、仮に生きていたとしても、お天気次第ですべておじゃんなので、あんまり楽しみにしすぎるのも考えものです。がっかりしすぎて頓死…なんてのも嫌なものです。
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オッポルツァーが45歳の若さで亡くなったのは、計算のやり過ぎのせいではないか?と真剣に疑っていますが、実は彼は生涯で一度も日食を見たことがなかった…となると非常にドラマチックなんですが、もちろんそんなことはありません。
1868年8月18日、南アジアで見られた日食の際、アラビア半島南端近くのアデンの町(現・イエメン)で彼はそれを観測し、それが『宝典』編纂のきっかけだそうです。このときは、フランスのピエール・ジャンサンが、後にヘリウム由来と判明したスペクトルをインドで観測しており、この日食は科学史上もろもろ意義深いものとなりました。
土御門、月食を予見す(前編) ― 2024年06月09日 08時41分38秒
日食の予測といえば、先日の宝暦暦(ほうりゃくれき)を思い出します【LINK】。
蘭学流入とともに、新しい天文学の風が吹き始めた18世紀半ばの日本で、過去の亡霊のような存在、陰陽頭・土御門泰邦が作った宝暦暦。
この暦にはいろいろ芳しくない評判がつきまといますが、施行9年目の宝暦13年(1763)、日食の予測に失敗し、暦に書き漏らしたことは、その最たるものです(日食・月食に関する情報は、毎年の暦に必ず書かれていました)。しかも、民間学者の麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)らは、独自にその予測に成功していたので、お上の面目丸つぶれです。
これに懲りた幕府は、麻田の弟子である高橋至時(たかはしよしとき、1764—1804)を天文方に取り立て、新たに寛政暦(寛政10年=1798年施行)を完成させますが、それはまだ少し先の話。
★
(明和3年宝暦暦、末尾)
宝暦暦のことを思い出したついでに、手元にある明和3年(1766)の宝暦暦(出版されたのは前年の明和2年)を素材に、これがどの程度の精度を持っているのか、裏返せばどの程度「ダメな」暦なのかを知りたいと思いました(意地悪な興味ですね)。
(「月そく(月食)」の文字)
この年は、ちょうど1月17日――グレゴリオ暦に直すと1766年2月25日――に月食が予測されているので、これが当たっているかを確認してみます。
結論からいえば、確かにこの日は月食が発生しているのですが、果たしてその生起・継続時間の予測精度はどうか?
(この項つづく)
土御門、月食を予見す(後編) ― 2024年06月10日 17時59分43秒
(昨日のつづき)
(画像再掲)
さて、改めてこの明和3年の月食予測の詳細を見ると、「月食五分。寅の一刻東北の方より欠け始め、寅の八刻甚だしく、卯の六刻西北の方終わり」と書かれています。
ここに出てくる「寅の一刻」とか「寅の八刻」の意味が最初分からなかったんですが、ものの本(※)を見て、ようやく合点がいきました。
★
よく知られるように、江戸時代の時刻表示は、日の出と日の入りを基準にした「不定時法」が一般的です。そのため、「子の刻」「丑の刻」「寅の刻」…等、1日を12区分した「辰刻」の長さは季節によって伸び縮みがあり、たとえば真夜中の「子の刻」は、短夜の夏場は短く、冬の夜長には長くなりました。真昼の「午の刻」ならばその逆です。
しかし、暦に記される時刻は、これとは違って(最後の天保暦を除いて)「定時法」を使っていたんだそうです。つまり、季節に関係なく子の刻なら23時~1時だし、丑の刻は1時~3時…という具合に固定されていました。これは現代の時間感覚と同じです。したがって同じ「子の刻」「丑の刻」といっても、日常生活と暦本ではその用法が微妙に違った…というのが、ややこしい点です。
暦ではそれをさらに「寅の一刻」とか。「卯の六刻」とか、細かく言い分けているわけですが、この辺は一層ややこしくて、当時の定時法では、1日を12等分した「辰刻」と、1日を100等分した「刻」という単位(1日=100刻)を併用していました。
「辰刻」と「刻」の関係は、
1辰刻 = 100÷12 ≒ 8.33刻 (8と3分の1刻)
であり、1刻を現在の時間に直せば
1刻 = 120分÷8.33 ≒ 約14分24秒
になります。何だかひどく中途半端ですが、実際そうだったのでやむを得ません。
そして、たとえば「寅の刻」だったら、以下のように呼び分けられることになります(時刻はすべて概数で示しました。「八刻」だけ他の刻より短いことに注意)。
寅の初刻 午前3:00~3:14
寅の一刻 3:14~3:29
寅の二刻 3:29~3:43
寅の三刻 3:43~3:58
寅の四刻 3:58~4;12
寅の五刻 4:12~4:26
寅の六刻 4:26~4:40
寅の七刻 4:40~4:55
寅の八刻 4:55~5:00
★
こうしてようやく、上記の月食記載の意味が理解できます。
すなわち、「月食五分〔食分0.5〕。寅の一刻〔3:14~3:29〕東北の方より欠け始め、寅の八刻〔4:55~5:00〕甚だしく、卯の六刻〔6:26~6:40〕西北の方終わり」です。
これがどの程度実際を反映しているか?
国立天文台の日月食等データベースに当たると、このときの月食(部分食)は、以下の通り3:45に始まり、4:52に最大食となり(食分は0.336)、5:59に終わっています。
比較してどうでしょう? 食甚の時刻および食の開始と終了の方位はほぼ正解ですが、食分を実際よりも多く見積もった関係で(つまり、月がもっと地球の影の中心に近い位置を横切ると予想したため)、食の始まりと終わりが前後に30分ほど間延びしています。この予測を以て、「それでも、それなりに当てたんだからいいじゃないか」と言えるかどうか?
★
西洋天文学を採り入れて宝暦暦を改良した「寛政暦」の場合と比較してみます。
手元に天保8年(1837)の暦があります。
年号は天保でも、当時はまだ寛政暦を使っていました(さらに改良を加えた「天保暦」は、天保15年=1844から施行)。
(「月帯食(げったいしょく/がったいしょく)」とは、月が月食の状態で昇ったり沈んだりすること)
この年は3月17日(グレゴリオ暦では4月21日)に皆既月食がありました。
暦には、「寅の三刻【3:43~3:58】左の上より欠け始め、卯の二刻【5:29~5:43】皆既〔みなつき〕て入【=そのまま沈む】」と書かれています。
上と同じように、国立天文台のデータベースを参照すると、「3:49に欠け始め、4:50に皆既となり、5:40が食の最大、そして6:31に皆既が終わる」となっています。上記の「卯の二刻」は皆既の開始時刻とずれていますが、これが「食の最大時刻」の意味だとすれば、まさにどんぴしゃりです。
★
まあ、それぞれ1つの例だけを取り出して、逸話的に比較しても意味は薄いでしょうが、「やっぱり宝暦暦はゆるいなあ…」と感覚レベルで分かれば拙ブログ的には十分で、当初の目的は果たせたことになります。
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(※)本項の記述にあたっては、橋本万平(著)『日本の時刻制度 増補版』(塙書房、昭和56年第2版)を参照しました(特にpp.125-8「暦に見られる定時法」の節)。
(同書127頁より参考図を掲げます(第15図)。当時は仮名暦(右)と七曜暦(左)の間でも――両者ともに定時法ですが――時刻の表示法が異なり、ややこしいことこの上ないです。本項で採り上げたのは、もちろん仮名暦の方です)
江戸の刻(とき) ― 2024年06月11日 18時00分28秒
そういえば、昨日は時の記念日でした。
思うに、お日様が日常生活を支配していた時代にあっては、不定時法というのは非常に合理的な考え方です。少なくとも、「サマータイム制」のようなぎこちない方法よりも、日脚の長短に応じて自分たちの生活をコーディネートする工夫としては、ずっとスマートです。
ただし、日時計ならいざ知らず、機械式時計で不定時法の時を知ろうと思うと大変です。才知に富んだ江戸の人たちも、「二丁天符」などの凝った機構を考案して、この問題に解決の道筋を付けたのは、江戸もだいぶ押し詰まってからのことと聞きます。
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不定時法の話題から、10年前に買った時計がそのままになっていたのを思い出しました。
「平成式和時計 江戸之刻」という商品名の、和装にも合う小ぶりの懐中時計です。
(下向きの大きな針が24時間で1回転するメインの時針。普通の12時間式時計としても使えるよう、小さな時針と分針、それに秒針もついています)
基本の文字盤はこんな風に12等分されています。
ここには往時の和時計のような、トリッキーな工夫があるわけではないので(ムーブメントは普通のクォーツ式です)、このまま使えば定時法の時計です。しかし江戸時代の気分を味わうため、あえてこの時計で不定時法の時を知るにはどうすればよいか?
メーカーが考えたのは、最もシンプルな解決法です。
すなわち季節によって文字盤を取り換えるというもの。
この製品には1月用から12月用まで、月ごとに12枚の不定時法に対応した文字盤が付属しており、蓋を外してそれを交換することで、「江戸の時」を読み取れるようになっています。
(左は12月用、右は6月用の文字盤。黒は「夜」、白は「昼」の時間帯です)
和時計の世界でも、不定時法に対応したからくり仕掛けが生まれる前は、文字盤を節気ごとに取り換えたり、文字の位置を動かせる文字盤を工夫したりしていたので、これは一種の「先祖返り」と見ることもできます。
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この時計は、世田谷でオリジナル時計を製作・販売している(有)キャストプランニングさんの製品で、名称こそ「令和版 江戸之刻」に変わっていますが、今でも現行商品として購入可能です(→ オンラインストアはこちら)。
銀河鉄道1941(前編) ― 2024年06月14日 05時17分21秒
世間には『銀河鉄道の夜』の初版本というのが流通しています。
(以前ヤフオクに出品されていた商品の画像を借用)
新潮社から昭和16年(1941)に出たものです。
一般に初版本は珍重されるし、ましてやあの名作の初版本ならば…ということで、15万とか20万とか、あるいはさらに高い値段がついていることもあります。
この初版本については、以前も書きました(17年も前のことです)。
■「銀河鉄道の夜」…現代のおとぎ話
でも、「銀河鉄道の夜」は賢治の没後に、すなわち賢治の文学的評価が定まってから出た「全集」に収録されたのが初出で、同名の単行本が作られたのは、さらにその後です。その点で、賢治の生前に出た『春と修羅』や『注文の多い料理店』の初版本とは、その成立事情が大いに異なります(発行部数や残存部数も当然違うでしょう)。以前の私は、その辺をちょっと誤解していました。
こういうことは今でもあります。たとえば雑誌に発表された作品が芥川賞をとり、その話題性を追い風に単行本化されたような場合、大量の「初版本」が存在するので、たとえ初版だからといって、当然それほど珍重はされません。
新潮社版『銀河鉄道の夜』も、事情をよく呑み込んだ良心的な古書店なら、そうあこぎな値段を付けることはないはずで、上の記事に出てくる5千円というのは、さすがに安すぎる気がしますが、それでも2万ないし3万も出せば、この本は手に入るんじゃないでしょうか(私も業者ではないので、そう自信満々に言うことはできませんが)。
★
その後、私も奮発してこの本を手に入れました。
上に述べたような次第で、私にも手の届く値段で売られていたからです。
でも、改めて手元の本を見て、「あれ?」と思いました。
上の写真を比べると分かる通り、ブックデザインが微妙に違うのです。
(左が手元の本。下段は裏表紙デザインの比較)
挿画・装丁はいずれも画家の野間仁根(のま・ひとね/じんこん、1901-1979)によるものですが、表紙絵がハチからチョウに、裏表紙は犬にまたがる少年から、犬とともに歩む少年に置き換わっています(ハチと思ったのは翅が4枚あるからで、アブなら2枚です)。
何でこんなことが起きたのか?本の奥付を見ると、
初版初刷りは、昭和16年(1941)12月に出ていますが、手元のは同じ初版でも昭和19年(1944)3月に出た第2刷で、増刷にあたってデザインを変更したことが分かります。
★
昭和16年12月、真珠湾攻撃によって日米開戦。
昭和19年3月、死屍累々のインパール作戦開始。
戦況の悪化とともに、国民生活がどんどん重苦しくなっていく中、賢治の童話を――それも「銀河鉄道の夜」を――子供たちに届けようとした、新潮関係者や野間仁根は、より平和的モチーフを採用することで、そこに密かなメッセージこめたのではないか?
(上図拡大)
もちろん真相は不明です。でも、「贅沢は敵だ」とばかり、奢侈品に対して昭和18年に導入された「特別行為税」が本の売価に上乗せされているのを見ると、時勢に抗してそんな行動に出る出版人がいても、ちっとも不思議ではない気がします。
★
本当は、昭和16年に書かれた坪田譲治の「あとがき」から、当時の「銀河鉄道の夜」に対する評価を振り返ろうと思ったのですが、いささか余談に流れました。以下、本題に戻します。
(この項続く)
銀河鉄道1941(中編) ― 2024年06月15日 09時45分35秒
(本のタイトルページ)
昭和16年(1941)に出た新潮社版 『銀河鉄道の夜』の中身ですが、
目次はこんな感じで、表題作「銀河鉄道の夜」が全体の半分以上を占め、あとは「なめとこ山の熊」や「雪渡り」などの短編を抱き合わせで収録しています。「銀河鉄道の夜」をメインに据えた単行本としては、たしかに最初のものでしょう。
構成は現行版と異なり、銀河鉄道の旅の前にカムパネルラの水没シーンが描かれ、ラストにブルカニロ博士が登場する「初期形」バージョンです。
★
本書末尾で、児童文学者の坪田譲治(1890-1982)が「あとがき」を書いています(239-242頁)。
「あとがき」の日付けは昭和16年11月で、この本が出る直前に書かれたもののようです。3頁余りのごく短いものですが、賢治が昭和8年(1933)に亡くなってから8年後という比較的初期に、賢治と「銀河鉄道の夜」に、どんな評言が与えられていたかを示す興味深い内容です。(以下、引用に当たって旧字体を新字体に改めました。改段落に伴う1行空けと文中の太字は引用者)
「このやうな人を、私は天才といふのだと思ひますが、生れつき大へん豊かな才能に恵まれてゐた人でもあります。〔…〕その想像の豊富さもさることながら、この人が科学者であったといふことは、ほんたうによく童話の中に出て居ります。これを知的といふ言葉で、私は言ひあらはしたいと思ひます。
それから、この人は、十八歳の時から仏教を信じましたが、二十歳頃からは非常に熱心な日蓮宗の信者となりました。この人生に対する熱心とか、熱情とかいふものも、またよく童話の中にあらはれて居ります。これを私は熱情的と言ふことにいたします。」(240頁)
それから、この人は、十八歳の時から仏教を信じましたが、二十歳頃からは非常に熱心な日蓮宗の信者となりました。この人生に対する熱心とか、熱情とかいふものも、またよく童話の中にあらはれて居ります。これを私は熱情的と言ふことにいたします。」(240頁)
賢治のライフヒストリーの中で、彼が農学校の教員であったことと、熱心な日蓮信者だったことを特筆し、それと彼の作品世界が分かちがたく結びついていると説くのは、賢治受容史の最初期から常道だったようです。
本当だったら、作者の実生活とその作品を、そんなにストレートに結び付けて考えて良いものか?…と、一応疑ってかかるべきだと思いますが、賢治の場合、それまで全く無名だった人が一躍「天才」として登場したので、実生活のエピソード以外に、解釈の材料がごく乏しかったという事情もあるのでしょう。この点は今に至るまで自明視されている気配があります。
ここで重要と思えるのは、坪田譲治が他にも一つ、賢治の文学的特質を指摘していることで、それは「滑稽味」です。
「けれども、この宮沢賢治の童話中にある純粋な滑稽味は、これはどう説明していゝか解りませんが、いたる処に出て来て、まるで宝を拾ったやうな喜びを与へます。吾国には曾てこのやうな芸術味豊かな滑稽味を有つ童話のあったことがありません。」(241頁)
これは坪田の慧眼であり、また賢治解釈の自由度(ないし許容度)が大きかった時代だからこそ可能だった評言ともいえるでしょう。現代では、賢治の作品に「滑稽味」を感じる人はごく少ないと思いますが、虚心に見るとき、賢治の作品にはまだまだいろいろな解釈可能性があると感じます。
坪田は以上をまとめて、賢治文学をこう要約します。
「知的で、熱情的で、しかも、いたる処に滑稽味を用意してある、大きな豊かな物語、それがこの人の童話であります。」(241頁)
こういう風に賢治を紹介した上で、坪田は「銀河鉄道の夜」についてコメントします。
(この項つづく)
【閑語】小人、首都に蟠踞す ― 2024年06月15日 10時03分57秒
他人が話しているのを聞いていると、「言葉」と「心」の距離ということについて、時折考えさせられます。たとえば、相手は盛んに言葉を発しているんだけれども、「ああ、この人の心は今ここにないな」と感じられる瞬間とかです。
典型的にはお役人の答弁だったり、政治家の記者会見だったりですが、最近話題の小池百合子氏にも、それを強く感じます。彼女の場合、メディアに露出している場面では常にそういう感を抱かせるので、一種の解離性障害ではないか?と、真剣に心配しています。
“脳の一部が単語列を生成し続けているが、心を司る部位がそこに一切関与していない”という意味で、ネットで瞥見した「AI ゆりこ」は、小池氏ご本人に生き写しで、本当によくできているなあと、感心することしきりでした。
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ただ、AIと違って生身の小池氏にも当然「心」はあるわけで、それが端無くも露呈する場面があります。すなわち、必要以上に薄ら笑いを浮かべて、人を馬鹿にする態度がありありと見て取れる場面です。あれはつまらないマウント取りなのか、それ以上の底意があるのかわかりませんが、たしかに不愉快ではあるけれども、そこには一人の生きた人間がいるという意味で、ちょっとホッとできたりもします。
とはいえ、そんな態度を露骨にとること自体、自分が愚昧な小人だと喧伝しているようなもので、もとより将の器に非ず、そんな人間が人の上に立とうなんておこがましいにも程があるぞ…と思わなくもありません。
好んであんな奸佞な人物を推戴するまでもなく、世間には立派な夫子(ふうし)も大勢いますし、首都に住まいする人々はよくよく考えていただきたいと、外野から願っています。
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