幻燈に浮かぶ星の世界 ― 2008年10月28日 20時39分17秒
見た瞬間、「買わねば」というモノが、時々あります。
この幻燈のガラススライドもそうでした。
くだくだしい説明は不要でしょう。
透過光で見る、素朴なガラス絵や天文古写真には、時にこの世のものならぬ美が感じられることがあります。
“Astronomy Lecture”と題されたシリーズものの、巻頭を飾る1枚。
メーカー名がはっきりしないんですが、シールにはY字にコブラが巻きついたロゴと、”Cobra Series”という文字が書かれています。サイズは8センチ四方の英国サイズ(アメリカ製は8×10cmの長方形が標準規格です)。時代は20世紀の第1四半期だと思います。
この間のウェールズ語の本を買ったのは、単なるケルト憧憬だけではなくて、例のワッペン模様の正体、つまり上のガラススライドの原画を知りたいという実際的な意味もありました。が、それは依然謎のままです。
この幻燈のガラススライドもそうでした。
くだくだしい説明は不要でしょう。
透過光で見る、素朴なガラス絵や天文古写真には、時にこの世のものならぬ美が感じられることがあります。
“Astronomy Lecture”と題されたシリーズものの、巻頭を飾る1枚。
メーカー名がはっきりしないんですが、シールにはY字にコブラが巻きついたロゴと、”Cobra Series”という文字が書かれています。サイズは8センチ四方の英国サイズ(アメリカ製は8×10cmの長方形が標準規格です)。時代は20世紀の第1四半期だと思います。
この間のウェールズ語の本を買ったのは、単なるケルト憧憬だけではなくて、例のワッペン模様の正体、つまり上のガラススライドの原画を知りたいという実際的な意味もありました。が、それは依然謎のままです。
コメント
_ ami ― 2008年10月29日 16時31分58秒
_ 玉青 ― 2008年10月29日 19時24分04秒
>amiさま
「この世のものならぬ美」と書いたのは一寸言い過ぎでしたが、でも、この深い、青い光はなかなかいいでしょう。彗星だけが、かすかにシューと音を立て飛び、あとはシンと静まり返ったこの場所は一体どこなのか?見ていると不思議な気分になってきます
「この世のものならぬ美」と書いたのは一寸言い過ぎでしたが、でも、この深い、青い光はなかなかいいでしょう。彗星だけが、かすかにシューと音を立て飛び、あとはシンと静まり返ったこの場所は一体どこなのか?見ていると不思議な気分になってきます
_ とこ ― 2008年10月29日 21時00分14秒
これは、水彩画が原画なのかしら?
印刷と違い、光を透過させてみると鮮やかさがちがうんですよね。
青は特に顕著です。
原画をプリントでご覧になったら、
もしかしたらがっかりなさるかも。
見つからないほうがいいのかもしれません…。
印刷と違い、光を透過させてみると鮮やかさがちがうんですよね。
青は特に顕著です。
原画をプリントでご覧になったら、
もしかしたらがっかりなさるかも。
見つからないほうがいいのかもしれません…。
_ S.U ― 2008年10月29日 23時59分29秒
美しい青い空と三日月(向きは有明月ですが)。
1970年代前半まで売られていたフジカラーR100でこのような写真を撮ったことを思い出しました。このリバーサルフィルムは、明らかに現実より美しい色で写りましたが、のちに改良されてマトモな発色になってしまいました。(現在ではフジクロームになっています)
1970年代前半まで売られていたフジカラーR100でこのような写真を撮ったことを思い出しました。このリバーサルフィルムは、明らかに現実より美しい色で写りましたが、のちに改良されてマトモな発色になってしまいました。(現在ではフジクロームになっています)
_ 玉青 ― 2008年10月30日 20時01分54秒
>とこさま
確かにそうかも。透過光の魅力はやっぱり大きいですね。今の季節だと、紅葉や黄葉なども、光を透かして見ると、まるで宝石のようにきらめいて美しいですね。ましてや透明感を重んじる青においておや。
>S.Uさま
写真とは「真を写す」ものではないなと、常々感じています。でも、写真でしか到達できない「真実」というのも確かにあるのでしょう。「現実」と「真実」の違いといいますか…。
確かにそうかも。透過光の魅力はやっぱり大きいですね。今の季節だと、紅葉や黄葉なども、光を透かして見ると、まるで宝石のようにきらめいて美しいですね。ましてや透明感を重んじる青においておや。
>S.Uさま
写真とは「真を写す」ものではないなと、常々感じています。でも、写真でしか到達できない「真実」というのも確かにあるのでしょう。「現実」と「真実」の違いといいますか…。
_ S.U ― 2008年10月30日 21時28分54秒
玉青様、このことは、今考えると「類型化」ということの両面を物語っているように思います。
つまり、昔のフジカラーR100は性能が低かったので、極端に言えば空は昼でも夜空でもあくまでも濃い青に、星雲や夕焼け雲はとにかく真っ赤に、そして月ははっきりと黄色に...と類型化したのです。これは、日頃から色を見いだしにくい天体写真を撮っている私たちにはわかりやすい発色であり、うれしいことでした。しかし、昼間の地上の写真を撮る普通の写真家にとっては、類型化は芸術性の追求を妨げるまったくありがたくないことだったはずです。そして、カラーフィルムは、よりおとなしい色だけれども微妙な発色ができるよう改良をされていきました。
写真の「真実」とは、とりあえずは、撮影した人の心にある風景ということになるのでしょうか。そして、人は、手の届かない宇宙にこそ自分の期待通りの「かたち」を要求してしまうのではないか、と今思いつきました。
つまり、昔のフジカラーR100は性能が低かったので、極端に言えば空は昼でも夜空でもあくまでも濃い青に、星雲や夕焼け雲はとにかく真っ赤に、そして月ははっきりと黄色に...と類型化したのです。これは、日頃から色を見いだしにくい天体写真を撮っている私たちにはわかりやすい発色であり、うれしいことでした。しかし、昼間の地上の写真を撮る普通の写真家にとっては、類型化は芸術性の追求を妨げるまったくありがたくないことだったはずです。そして、カラーフィルムは、よりおとなしい色だけれども微妙な発色ができるよう改良をされていきました。
写真の「真実」とは、とりあえずは、撮影した人の心にある風景ということになるのでしょうか。そして、人は、手の届かない宇宙にこそ自分の期待通りの「かたち」を要求してしまうのではないか、と今思いつきました。
_ 玉青 ― 2008年10月31日 21時58分28秒
「分かりやすい発色」の「分かりやすさ」を自覚して用いる分には問題ないのでしょうが…。要は、人が主体となってフィルムの特性を使いこなすか、それとも人がフィルムに使われるか、ということでしょうか。
「まこと」というのは、言葉ではなかなか掬い取れませんが、確かに心に響くので、「ある」ということは分かります。それは言葉ではなく、一種の象徴を通じてのみ接近できるのだ…というようなことを言う人もいますが、あるいはそうなのかもしれません。
「まこと」というのは、言葉ではなかなか掬い取れませんが、確かに心に響くので、「ある」ということは分かります。それは言葉ではなく、一種の象徴を通じてのみ接近できるのだ…というようなことを言う人もいますが、あるいはそうなのかもしれません。
_ S.U ― 2008年11月01日 08時01分39秒
玉青様、そういわれれば、「自覚しながらも、自ら進んでフィルムに使われていた」ようです。これはデジカメには無い楽しみでした。
学生時代に量子力学を、「『自然の真理』というものは結局は数式の中にしかないのか」、「人はそれを具体物を用いた『比喩』においてしか理解できない」などと議論したことがあります。現在、私もおおむねそのように考えますが、人間というのは頼もしいというかいいかげんなもので、抽象的な数学の公式でも何回か使うと比喩がなくても心底理解した気になれます。「真実」というものは人間の心が認めるものでしょうから、これが案外正しいのかもしれません。
写真も、この「数式」に似た手法によって真実を伝えているような気がします。
学生時代に量子力学を、「『自然の真理』というものは結局は数式の中にしかないのか」、「人はそれを具体物を用いた『比喩』においてしか理解できない」などと議論したことがあります。現在、私もおおむねそのように考えますが、人間というのは頼もしいというかいいかげんなもので、抽象的な数学の公式でも何回か使うと比喩がなくても心底理解した気になれます。「真実」というものは人間の心が認めるものでしょうから、これが案外正しいのかもしれません。
写真も、この「数式」に似た手法によって真実を伝えているような気がします。
_ 玉青 ― 2008年11月01日 22時03分32秒
数式というのは、一部の人にとっては立派な「言語」ないし、思考の具なのでしょうが、私にとっては一種の「象徴」のまま現在にいたっています(苦)。しかし、この象徴を通じて真実に接近するのは難しそうですねえ(苦苦)。象徴というより、暗号に近いかも。
_ S.U ― 2008年11月02日 21時22分01秒
暗号というか仲間内でしか通じない符牒のようなものですね。そうでないと限られた紙面というか、人間の視野に収まらないというやむを得ない事情もあるのでしょう。自然の真理が数式なら、たとえ暗号であっても紙の上に表現できるということ自体、注目すべきことだと思います。
_ 玉青 ― 2008年11月02日 22時01分43秒
よく分かります。ただ…肝心の数式が分からない(笑+涙)。
自分に数学マインドがないことは、いい年をした今でも、かなり大きな劣等感になっています。数学が理解できないという事実は、理科少年としての当時のアイデンティティを打ち砕くのに十分な、衝撃的な出来事でした。そのことが尾を引いているのでしょう。
自分に数学マインドがないことは、いい年をした今でも、かなり大きな劣等感になっています。数学が理解できないという事実は、理科少年としての当時のアイデンティティを打ち砕くのに十分な、衝撃的な出来事でした。そのことが尾を引いているのでしょう。
_ S.U ― 2008年11月03日 07時54分01秒
うーん。ひとことで「理数」といっても理科と数学は感覚上は独立のものなのでしょう。または、そのようにおっしゃる方にこそ、数学分野オールマイティではなくても、ある方向に傑出した「独特の数学感覚」というものが発揮されているのかもしれませんよ。
逆の方もいるようです。数学は大得意だが、自然界には全く興味がない、あるいは、自然現象へ計算の適用ができない。適当な例かわかりませんが、ルヴェリエは海王星の位置を予言する計算はしましたが、一生この星を望遠鏡で見ようとはしなかった、という伝説がありますね。
逆の方もいるようです。数学は大得意だが、自然界には全く興味がない、あるいは、自然現象へ計算の適用ができない。適当な例かわかりませんが、ルヴェリエは海王星の位置を予言する計算はしましたが、一生この星を望遠鏡で見ようとはしなかった、という伝説がありますね。
_ DryGinA ― 2008年11月03日 12時26分16秒
またもや楽しい会話をされていらっしゃる…。
そんな所へ横からの口出しで申し訳ありません。
楽譜を見詰めて涙を流す音楽家も、数式を眺めて心躍らせる物理屋も、特殊領域の存在だとは思います。しかしたいがいの人もまた、それとは気付かずにその近傍を通過しているのだろうと思うのです。
独学可能な数学に魅了されて邁進した十代前半から、抽象化された構造の美しさより具体的な巷の情緒に想いを馳せた十代後半…の最後に、僕は物理に転びました。式や項…その変形手法にすら具体的な“意味”を見付けられる物理は、私にとってまさに読書の楽しさでした。でも最近は、まったく数式を使わずに“現象”を反芻しています。
森羅万象の真実を凝視める手法は様々です。
ですから玉青さん、ここ“天文古玩”の手法もまた
人を哲学へ誘うりっぱな“路”だと思えます。
私は覗きカラクリで星空を観るのが好きです。
その理由は…まだ判りません。
2008-11-03 DryGinA
そんな所へ横からの口出しで申し訳ありません。
楽譜を見詰めて涙を流す音楽家も、数式を眺めて心躍らせる物理屋も、特殊領域の存在だとは思います。しかしたいがいの人もまた、それとは気付かずにその近傍を通過しているのだろうと思うのです。
独学可能な数学に魅了されて邁進した十代前半から、抽象化された構造の美しさより具体的な巷の情緒に想いを馳せた十代後半…の最後に、僕は物理に転びました。式や項…その変形手法にすら具体的な“意味”を見付けられる物理は、私にとってまさに読書の楽しさでした。でも最近は、まったく数式を使わずに“現象”を反芻しています。
森羅万象の真実を凝視める手法は様々です。
ですから玉青さん、ここ“天文古玩”の手法もまた
人を哲学へ誘うりっぱな“路”だと思えます。
私は覗きカラクリで星空を観るのが好きです。
その理由は…まだ判りません。
2008-11-03 DryGinA
_ 玉青 ― 2008年11月03日 14時53分18秒
>S.Uさま
言わずもがなですが、私の発言は全て「私にとって」ということですので、その点ご諒察ください。
数学の有用性、数学の愉悦、そして数学の美。自然科学とは別の王国を形成している、数学独自の価値は、かなたから仰ぎ見て十二分に感じ取れます。(「博士の愛した数式」も大いによかったですし。)ただ、残念ながら、私にはその入場チケットが、C席ですら与えられていなかった、ということです。本当に残念ですが…。
もっとも、「心の計算理論」によると、私が数式に頭を悩ませている心的状態そのものが、膨大な量の計算の結果であり、私の心は原理的には数学的表現が可能だということになります。「私」とは畢竟、数と式の束なのだ…と考えると、事態はまたちょっと面白く感じられます。(一寸負け惜しみです。)
>DryGinAさま
どうぞどうぞ、どんどん「口出し」をして、議論を活性化してください。
音楽家の例を出していただいたのは良かった。そう、数学と音楽は深い関係があるらしいですが、才能という点でも共通するものがありますね。もちろん、後天的な訓練の効果は大きいわけですが、一部の人は生得的な(つまり訓練で矯正できない)「音痴」だそうで、私の「数痴」も、たぶんそれに近い状態で、もうちょっと程度が甚だしければ学習障害のレッテルを貼られても止むを得ないと思っています。
まあ、先天盲の人が聴覚や触覚において鋭敏になる如く、私も数学が不得手な分、別の能力を発達させている…とすれば、大いに救われるのですが。
「天文古玩」は、あまり哲学に通じない散文的ブログだと思いますが(笑)、森羅万象に思いを馳せ、世界の驚異を愛でる心は持ち続けていきたいと思います。
言わずもがなですが、私の発言は全て「私にとって」ということですので、その点ご諒察ください。
数学の有用性、数学の愉悦、そして数学の美。自然科学とは別の王国を形成している、数学独自の価値は、かなたから仰ぎ見て十二分に感じ取れます。(「博士の愛した数式」も大いによかったですし。)ただ、残念ながら、私にはその入場チケットが、C席ですら与えられていなかった、ということです。本当に残念ですが…。
もっとも、「心の計算理論」によると、私が数式に頭を悩ませている心的状態そのものが、膨大な量の計算の結果であり、私の心は原理的には数学的表現が可能だということになります。「私」とは畢竟、数と式の束なのだ…と考えると、事態はまたちょっと面白く感じられます。(一寸負け惜しみです。)
>DryGinAさま
どうぞどうぞ、どんどん「口出し」をして、議論を活性化してください。
音楽家の例を出していただいたのは良かった。そう、数学と音楽は深い関係があるらしいですが、才能という点でも共通するものがありますね。もちろん、後天的な訓練の効果は大きいわけですが、一部の人は生得的な(つまり訓練で矯正できない)「音痴」だそうで、私の「数痴」も、たぶんそれに近い状態で、もうちょっと程度が甚だしければ学習障害のレッテルを貼られても止むを得ないと思っています。
まあ、先天盲の人が聴覚や触覚において鋭敏になる如く、私も数学が不得手な分、別の能力を発達させている…とすれば、大いに救われるのですが。
「天文古玩」は、あまり哲学に通じない散文的ブログだと思いますが(笑)、森羅万象に思いを馳せ、世界の驚異を愛でる心は持ち続けていきたいと思います。
_ S.U ― 2008年11月03日 17時14分53秒
物理学者にとくにモーツァルトを高く評価する人が多いところから見て、抽象的に緻密に組み上げられているところが共通しているのだと思います。でも、音楽にも様々あって、モーツァルトの才能が特殊なようにも感じますので、数学(あるいは物理)と音楽の関係はそんなに単純ではないのでしょう。
それから、音楽といえば、W・ハーシェルですね。音楽家であったことと、宇宙を広げた彼の天文学の間にどんな関係があったのか気になります。また、おいおいお考えをお聞かせいただければ幸いです。
それから、音楽といえば、W・ハーシェルですね。音楽家であったことと、宇宙を広げた彼の天文学の間にどんな関係があったのか気になります。また、おいおいお考えをお聞かせいただければ幸いです。
_ 玉青 ― 2008年11月03日 21時56分18秒
ハーシェルと音楽については、思うことがあります。おいおいとお話ししましょう。
_ S.U ― 2008年11月04日 16時55分27秒
ぜひともよろしくお願い致します。 あっ、それから、ハーシェルとモーツァルトが活躍した時期はまったく同じ(1780年代)なのですね。
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きれいな色ですね
実物は青い光が空間を漂うように感じるのかなぁ なんて思いました
みるく色した上部のとんがってるのと下部の丸いのは、
次の瞬間、別のところに移動してるんじゃないかって、そんな気がしました