星の寺院…ベルリン天文台の場合 ― 2009年02月03日 20時58分39秒
(出典:Marian C. Donnelly, A Short History of Observatory, University of Oregon, 1973, p.70)
建築様式を云々する場合、見た目の印象だけでなく、平面プランのような基本構造も重要だと思いますが、たとえばベルリン天文台の新館(1835年開所)の平面図を見てください。(設計したのはKarl Friedrich von Schinkel というドイツ人建築家。)
西欧の教会堂は、身廊と翼廊の交差したラテン十字形のプランが主流ですが、このベルリン天文台は明らかにそれを模しているように見えます。
ベルリン天文台の外観図と、その歴史は以下で見ることができます。
★ベルリン天文台(ウィキペディア)
http://tinyurl.com/33urow
上掲書の著者・ドネリーは、
「シンケル〔設計者〕は、建物外側を加工石による広い面として、そこに1階と2階を区切る飾り帯や、建物全体を取り巻くエンタブラチュア(長押〔なげし〕構造)を加えた。彫刻とアクロテリア(頂部飾り)のあるペディメント(三角形の切妻壁)のために、東側正面は寺院(temple)との類似性を備えることになった」
と述べており(p.68)、この天文台が細部の処理からも教会堂を連想させるものであることを指摘しています。
なお、この天文台落成時の台長は、土星の環の「エンケの間隙」で有名な、ヨハン・フランツ・エンケ(1791-1865)ですが、下記サイトによると、この十字型プランはそもそもエンケの考案で、シンケルはそれを具体化しただけのようなことが書かれています。となると、エンケの着想が何に由来するのか(ここで推測したように教会堂に由来するにしても、ではなぜそうしたのか)が気になるところです。
★Astronomy in Berlin: Berlin Observatory
http://bdaugherty.tripod.com/astronomy/berlin.html
建築様式を云々する場合、見た目の印象だけでなく、平面プランのような基本構造も重要だと思いますが、たとえばベルリン天文台の新館(1835年開所)の平面図を見てください。(設計したのはKarl Friedrich von Schinkel というドイツ人建築家。)
西欧の教会堂は、身廊と翼廊の交差したラテン十字形のプランが主流ですが、このベルリン天文台は明らかにそれを模しているように見えます。
ベルリン天文台の外観図と、その歴史は以下で見ることができます。
★ベルリン天文台(ウィキペディア)
http://tinyurl.com/33urow
上掲書の著者・ドネリーは、
「シンケル〔設計者〕は、建物外側を加工石による広い面として、そこに1階と2階を区切る飾り帯や、建物全体を取り巻くエンタブラチュア(長押〔なげし〕構造)を加えた。彫刻とアクロテリア(頂部飾り)のあるペディメント(三角形の切妻壁)のために、東側正面は寺院(temple)との類似性を備えることになった」
と述べており(p.68)、この天文台が細部の処理からも教会堂を連想させるものであることを指摘しています。
なお、この天文台落成時の台長は、土星の環の「エンケの間隙」で有名な、ヨハン・フランツ・エンケ(1791-1865)ですが、下記サイトによると、この十字型プランはそもそもエンケの考案で、シンケルはそれを具体化しただけのようなことが書かれています。となると、エンケの着想が何に由来するのか(ここで推測したように教会堂に由来するにしても、ではなぜそうしたのか)が気になるところです。
★Astronomy in Berlin: Berlin Observatory
http://bdaugherty.tripod.com/astronomy/berlin.html
コメント
_ S.U ― 2009年02月04日 20時48分10秒
_ 玉青 ― 2009年02月05日 21時43分47秒
ウィキペディアのエンケの項目を見たら、エンケの追悼記事への外部リンクが張られていたので、それをちょっと見てみました。
http://adsabs.harvard.edu//full/seri/MNRAS/0026//0000129.000.html
彼は1825年にベルリン天文台長に任ぜられると同時に、新天文台の建設と、天文台内部のアレンジを自ら指揮監督した…と書かれていて(p.131)、たぶんこれが上で参照した記事の出典なのでしょう。
そして、エンケは確かにちょっとお堅い、人格者然とした人物だったようです。
記事の最初の方で、彼は貧しい聖職者の息子で、しかも子ども時代に父親と死別し、苦労の末に学問の道を歩んだことが書かれています。そして末尾には、幼時の実直な信仰心を生涯保ち、息子の一人が聖職に就いてくれたことが最大の喜びだと、繰り返し周囲に語っていた…とも書かれています。
彼が信仰心のあつい人間だったことは確からしいので、その影響も大きかったかもしれません。(まあ、あくまでもベルリン天文台が本当に教会堂を模倣したと仮定しての話ですが。。。)
http://adsabs.harvard.edu//full/seri/MNRAS/0026//0000129.000.html
彼は1825年にベルリン天文台長に任ぜられると同時に、新天文台の建設と、天文台内部のアレンジを自ら指揮監督した…と書かれていて(p.131)、たぶんこれが上で参照した記事の出典なのでしょう。
そして、エンケは確かにちょっとお堅い、人格者然とした人物だったようです。
記事の最初の方で、彼は貧しい聖職者の息子で、しかも子ども時代に父親と死別し、苦労の末に学問の道を歩んだことが書かれています。そして末尾には、幼時の実直な信仰心を生涯保ち、息子の一人が聖職に就いてくれたことが最大の喜びだと、繰り返し周囲に語っていた…とも書かれています。
彼が信仰心のあつい人間だったことは確からしいので、その影響も大きかったかもしれません。(まあ、あくまでもベルリン天文台が本当に教会堂を模倣したと仮定しての話ですが。。。)
コメントをどうぞ
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でも、ルヴェリエがベルリン天文台に捜索を依頼したのは、エンケがまとめた星図がそこにはあったからだと言われていますので、結局、彼は地味に貢献したことになります。
以上のことから、エンケさんは、なんとなく極度に固い人のようなイメージです。教会型の天文台のデザインもこのエピソードと何となく結びつきそうな気もするような。