煉瓦造りの天文台の思い出。過去から未来へ。2011年02月06日 22時08分23秒

アメリカに特徴的な教育機関に、自由学芸大学(リベラル・アーツ・カレッジ)があります。青年子女に豊かな教養を授けることを目的とした、教養学部のみの単科大学で、小規模な全寮制学校であることが多いようです。

そこに併設されている天文台も、高度な研究というよりは、もっぱら教育目的の施設で、よく絵葉書の被写体にもなっていますが、大天文台とは一味違った、こぢんまりとした風情はなかなか良いものです。

そうしたリベラル・アーツ・カレッジとその天文台について、「ちょっといい話」を目にしたので、ここに書いておきます。

(↑手元の絵葉書から。マサチューセッツの名門女子大、スミス大学の天文台。1905年頃、手彩色)

   ★

元記事はこちら。
■Return to the Observatory(Jeffrey Ross氏)
  http://www.insidehighered.com/views/2010/09/14/ross

書き手のジェフリー・ロス氏は、ネブラスカ州にあるリベラル・アーツ・カレッジ<ドエイン大学 Doane College>を1976年に卒業し、現在は別の大学で教鞭をとっている先生です。昨年の7月、ロス氏はある意図を持って、9歳になる息子さんを連れて母校を訪ねることにしました。

建物も、木々も、石橋も、昔そのままの姿。懐かしい風景。池にはかつての白鳥の遠い子孫が、昔と同じように遊泳しています。(以下意訳まじりの適当訳)

    ★

 「クインテンは、ニンテンドーDSで遊ぶ手を休め、吹雪のこと、教授たちのこと、以前の世間の有り様など、今では遠い昔語りとなった話に耳を傾けた。21世紀の典型的な9歳の少年である彼の目には、このキャンパスは古い建物と美しい芝生、花壇、そして舗道の集合体に過ぎないし、この昔の思い出の地に私が抱く感傷とは、もちろん無縁だった。それでも、彼はこの訪問を楽しんでくれたし、私が1、2回ドエイン湖に落っこちた話を聞いて大笑いした。

 彼は今、時間と空間を越えた、おそらくドエイン卒業生だけが持ちうる、貴重なドエイン体験を私と共有しているのだ。

 私はボズウェル天文台の脇に息子を立たせて写真を撮った。この天文台は1883年にできた愛らしい小さな煉瓦造りの施設で、運用中の望遠鏡を今でも備えている。

 さて、話はさかのぼって1959年前後、私がまだ5歳の頃だ。ネブラスカ州オーロラに住んでいた私の祖父母は、私を連れてドエインまで旅をした。当時ドエイン大学で学んでいた、叔母のディアンナを訪ねようというわけだ。私は今でも、ボズウェル天文台のそばに立って、そのザラザラした煉瓦に触れ、絡まる蔦を眺めたのを、はっきり覚えている。後年、自分がドエインに行こうと決めたのは、あの訪問が大きく関係しているに違いない。あの霧のかかった朝、私はほとんど畏敬の念に近い思いを抱き、あの古い天文台のそばに立ち、その迫力、感情的訴求力、存在感 ― 当時の私の理解を超えた、いわく言い難い象徴性 ― そうしたものに、言いようのない魅力を感じたのだ。
天文台の建物、鈍く光るドーム、子ども心に浮んだ、大学をめぐる神秘の謎…。19世紀の科学の建物の前に、ほんのちょっと立っただけで、どれほど大きな感情的・認知的衝撃が私を襲ったことか。

 ドエインで経験した教育的な旅は、今でも私の人生と価値観、それに私の将来にも大きな影響を及ぼしている。〔…〕

 私はクインテンが、我が母校と魔術的関係を取り結んだと考えているのだろうか?息子がボズウェル天文台のそばに立った時、私の感情ははげしく揺さぶられた。まさに私の巡礼行が成功したかのように。私は、息子を人生のリトマス紙ともいうべき空間上の一点、すなわり私の性格、私という存在、私自身を最終的に形作った場所に連れて来たのだ。

 たしかに、私は彼がいつかドエインに入るのを望んでいる。私はぜひとも、もう一度息子の写真を撮りたいと思う。2023年頃、角帽とガウンを身に着け、ボズウェル天文台のそばに立つ息子の写真を。

 小さなリベラル・アーツ・カレッジは(その美しいキャンパスや、大事な使命とも相まって)、多くの人々に、満足のいく素晴らしい人生を用意してきた。

 古い天文台は、新しい覚醒と新しい知識、そして最も純粋な学習を、人類が絶えず追い求めてきたことを力強く象徴している。喜びのために学ぶことを重視するのは、社会にとっても重要だと思う。〔…〕リベラル・アーツ教育は、我々をより慈愛に満ちた存在としてくれるし、過去から学ぶのに必要な力を与えてくれると同時に、遠い将来を見通すのに必要な力も与えてくれる。

 知識と品性があれば、大抵の状況は乗り越えられるものだ。私は、教育とはそれ自体が目標となりうるものだと確信している。〔…〕

 ひょっとしたら、これを読んでいる方の中には、私のことをアナクロな人間と考える方もいるかもしれない。日常生活にどっぷりとつかり、地下鉄の車内で、あるいは会議に出席するために離陸したばかりの機内で、この記事をスマートフォンで読んでいる方にとっては、私の意見は奇妙で時代遅れの、そして時と所を隔てた黴臭いだけの退屈なつぶやきと思えるかもしれない。

 だが、たとえそうだとしても、あの天文台は運用中の望遠鏡と共に、今もたしかに生き続けており、白鳥たちは今日もドエイン湖をゆったりと泳いでいる。」

    ★

アメリカは広いので、古き良き教養主義を是とする価値観も一部には強固に残っているということでしょうか。

それにしても、古い天文台が無言で人類の知の営みを子どもに語りかけるというのは、とてもいいシーンですね。ロス氏はいい経験をされました。が、その思いがクインテン君に伝わるかどうかは…?

コメント

_ S.U ― 2011年02月07日 20時06分49秒

あぁ、いい話ですね。
 子どもは存外古い物が好きですよね。自分が子どもの時のことを思い出すと、世の中に目にする物はたいていどれも自分より古い。それなら、タルホ少年でなくても、古ければ古いほど偉い! と考えても不思議はありません。
 大人は、流行を追い、仕事に追われていくうちに、「古い物はダメで、新しい物がよい」という誤った考え方に陥っていくのかもしれません。そういう考えを大人が子どもに押しつけているとしたら、... ちょっとこれは反省せにゃならんと思いました。

_ 玉青 ― 2011年02月08日 19時58分22秒

いい話ですよねえ(しみじみ)。

ところで、S.Uさんは、「新し物好き」と「古物好き」を世代差に帰しましたが、どうでしょう、案外世代差よりも個人差が大きいかも。S.Uさんや私は子供の頃から一貫して古物好きでしょうし(違いますか?^_^)、反対に一貫して新し物好きの人もいそうですね。もちろん途中で「宗旨替え」する人もいるでしょう。

話が横滑りしますが、そもそも「古い」と「新しい」は、対義語としては一寸中途半端というか、非対称的ですよね。

古い物は時が経っても古いまま。
でも、新しい物は一瞬。

「だから、古い物の方がエライのだ」
という人もいれば、
「だから、今という一瞬を生きる新しい物の方が貴いのだ」
という人もいます。

まあ、元々対になってないので、どちらも独自の価値があるのでしょう。(不易流行というやつですね。)

私自身は、一瞬のうちに永遠を見たり、永遠を一瞬に感じたりするのが好きなので、新古を超えた「存在」そのものを称揚したい気分もありますが、でも、それは理念先行というか、頭でっかちな論であって、素朴な感覚としては、言うまでもなく古物好きです。自分の思いを打ち明けるのは、やっぱり「長老」の方がしっくり来るといいますか。

_ かすてん ― 2011年02月08日 21時54分07秒

面白い話題ですね。
S.Uさんや玉青さんは子どもの頃からの古物好きですか?私も子どもにしては古物好きだったかもしれません。古いものの評価には十分な時間がすでに費やされていて自分の下した評価といえども他人の追認になることが多く、間違いは少なくなります。それに対して新しいものの評価に使える時間は一瞬でかつ自分の感性に依る部分が大きいです。私の新し物好き部分としては、Appleの新製品に目が無いことでしょうか(盲信と言うべきか、、、)。
かつて、「モニュメントが無くては大学とは言えない」と言った先輩がいました。その大学が歴史を刻み、過去からの知を継承し、次の継承者たらんとの志を持って今ここに学んでいる自分がいることは紛れも無い事実ですが、古びたモニュメントの存在が、そうした心を強化するということは大いにあり得ることだと感じたものです。

_ S.U ― 2011年02月08日 22時56分22秒

玉青さんもかすてんさんも子どもの時に古い物好きであられたようですね。子どもは古い物が好き、という私の予想に合致しますが、お二人ではあまり参考になりません(笑)。私は子どもの頃、今よりも古い物好きで、特に古銭と化石が好きでした。今は多少宗旨替えをして、新しい物につい手を出して引っかかってしまう場合があります。

 Appleファンはどうか知りませんが、WindowsではXPをVistaに買い換えて古い物の良さを認識した人も多かったのではないかと思います。

_ 玉青 ― 2011年02月11日 12時05分33秒

○かすてんさま

過去の物って、なんか安心感があるんですよね。
遠慮せず、言いたい放題言える気安さもあるし、過去に属するが故に許せる部分もあります。ほどよい距離感と言いますか。同時代の物は密着しすぎて、落ち着いて見ることができにくい感じです。まあ、これは物よりも、人について一層当てはまることかもしれませんが(笑)。

学びの場に、古くてどっしりしたものがあるのはいいことですね。
たとえ最先端の科学であっても、そこには歴史性の刻印が深く刻まれているでしょうし、それを忘れてしまうと、ちょっとおかしなことになる気がします。

○S.Uさま

>今よりも古い物好きで
どういう少年ですかね(笑)。古銭と化石ですか、うーん、渋いですね。

私が子供の頃はオカルトブームでしたから、古物への志向性は、そういった世界と絡み合って、なんだか不健全な成長の仕方をしたような気がします。(固有名詞をあげると、諸星大二郎作「妖怪ハンター」の印象が強烈にあります。その影響で、「古事記に秘められた暗号」といった類の本を図書館で借りてきたり…。ちょっと極端でしたね。)

_ S.U ― 2011年02月12日 07時58分51秒

>古銭と化石
 問題は小学生の小遣いでは専門ショップで買えないことでした。古銭は近くで「発掘」しました。天保通宝と明銭を地面から掘り出したことがあります。化石は、身近には石炭以外は見当たらず、科学館で見るだけでした。(今の子には石炭のほうが珍しいかも)

>「古事記に秘められた暗号」といった類の本
大陸書房というのがはやりましたね。その手の本が書店にずらっと並んでいたのは壮観でした。

_ 玉青 ― 2011年02月12日 20時31分23秒

発掘、いいですね。
目の前の地面に過去の世界が埋まっていることを知るのは、貴重な体験でしょうね。言うなれば、眼前に見えるものだけが現実ではなく、その奥に幾種類もの現実が重なって存在することを学ぶことにも通じます。ええ、金にあかせて専門店で買うよりも、よっぽど意味のある経験でしょう。

_ S.U ― 2011年02月13日 08時32分19秒

高いご評価ありがとうございます。現在は、宅地は舗装され、土があるところの多くは造成地で、子どもが身近に「発掘」をできる場所は少なくなりました。小学校の地層見学や河原の石見学は貴重な機会で、強い印象が残っている方も多いのではないでしょうか。

_ 玉青 ― 2011年02月13日 18時05分17秒

…というわけで、化石趣味回顧の記事に突入です。

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