足穂の里へ(4)2011年09月03日 17時15分48秒

「評伝・足穂」を編んでいるわけではないので、先を急ぎます。

漁師町から駅の方に戻る途中、祖父・利吉の家から東寄りに「岩屋神社」という立派なお社があります。利吉は香具師の顔役として、この神社の出店の差配を任されていました。この神社で、足穂は不本意な経験をしています。

「私が当初住んだ戎町は、この拝殿わきから西へ続く通りであるが、ちょうど修築があって、正遷宮の当日に、私は特別注文の衣装に鉢巻をして岩屋神社にお詣りした。神事(行列)にも加わった。これは前後ただ一回強制された甚だ自分らしくない、いやな経験であった。」 (「明石」)

足穂はいやな経験と言っていますが、稚児姿の足穂少年はなかなか可愛かったでしょうね。

(脇を通っただけなので、おざなりな写真で恐縮です。「明石市 岩屋神社」で検索すると、境内の写真はたくさん見ることができます。)

現在位置を確認しておきます。


左下が祖父の家のあった浄行寺前、そのそばに岩屋神社が見えます。
私はその脇を通って港にそって歩き、明石警察署本町交番のわきにある錦江橋に向かいました。

(港から瀬戸内へ出て行く船)

(錦江橋)

錦江(きんこう)とは、明石城下に広がる海の美称。
明石城は別名「錦江城」ともいい、駅からまっすぐ海に向かうメインストリート(明石銀座)沿いの街区には、以前「錦江町」の名がありました。足穂の明石での第2の住居があったのもここです。その南端に架かるのが「錦江橋」です。

錦江橋の架橋は明治44年6月で、足穂が10歳のときです。
足穂の一家は、その渡り初めをつとめる「三代夫婦」に選ばれました。すなわち、祖父・利吉と父・忠蔵の両夫婦、それと大阪に住む姉夫婦です(姉も養子婿を迎えたので稲垣姓)。木の香もゆかしい新橋の上を、一族が仲むつまじく渡った…のであればいいのですが、一家の行く手には徐々に暗雲がただよい始めていました。

「互いに不和であったがともかく三夫婦揃った一族は、橋の渡初式に引張り出されたことがあって、利助〔註:利吉の作中での名〕は味を覚えて四夫婦拡張を目論んでいた。けれども同じ調子で行くものでもあるまい。そろそろ何物かが…人々がそれを惧れて世のおきてを遵奉しているのだと思われるような…根元的な何物かが迫って来ているようであった。」 (「父と子」)

足穂が祖父の家から、錦江町に転居したのが正確にいつかは分かりません。たぶん小学2、3年生の頃でしょう。父・忠蔵が、駅前通りに家を新築し、独立開業するために転居したのです。

(錦江橋のたもとから明石駅を見たところ。突き当りが明石駅。この通りに沿って足穂の父の歯科医院がありました。今でも歯医者が妙に多いのは偶然か?)

この新居で過ごした当座の時期が、怪人・足穂の人生において最も甘美で、人間として整った時期だったようです。その後の凋落との対照が鮮やかなだけに、いっそう彼の心には美しく感じられた時代でもあります。
(下の引用で「董生(ただお)」は足穂、「周蔵」は忠蔵を指します。)

「こうして董生らは、折鶴が天井一面に吊るされている新居に起臥することになった。デトロイトから届いた大嵩な荷物が解かれて、階上の広いリノリウムの上には治療椅子が三台並んだ。接続した薬局や技工室と合わせて、総ては活動に便利なようにとの周蔵の建前に生れ、従業員は何処でも立ちづめである。然し此処に人影が忙しく動いて、患者待合室に仏手柑だの山芋だの粉がふいた紫色の木の実だのを盛った籠が置かれ、正月毎に表に馬蹄形の緑門が設けられたのは、僅か四、五年に過ぎない。董生に取っても、喩えば庭のアヤメに柔らかい雨脚が降り注いでいるような、甘美な、核心的幼年期は、いまの期間中に於ける正味二年に限られている。」 (「父と子」)

「あらゆる家族、風景等には、その最も良き時期というものがある。それはキリストの活動期間のように、二年以上は続かないものだ。董生の場合、それは三色菫がまだ異質な人工花の魅力を保っていたあいだで、小学三、四年生間の束の間であった。」 (同)

父はその養父とも、娘夫婦とも不仲でした。そして家業に熱意を失い、謡道楽にのめりこむのと並行して、固定客も次第に離れていき、一家の経済は徐々に左前になっていきます。足穂は足穂で、学業も二の次に、芸術やら、ヒコーキ乗りやらに入れあげて、家に寄り付かず…というような、世間の物差しに従えば悲劇的な展開をたどることになります。

足穂が東京での文士崩れの生活の果てに、30過ぎで戻ってきたのもこの家で、父の死後は、素人商売の古着屋をやったりしたものの、結局破産。

「父の三周忌がやってきた。その夏の初めに、董生の家の目立たぬ隅に仮執行の札が貼られた。老母と息子は、横丁の履物職の離れ六畳に、わずかに残った調度と炊事道具を運ばねばならなかった。」 (「地球」)

さらにひと月後には、借金の催促に耐えかね、母は大阪の孫娘のもとへと移り、足穂は東京に遁走。後に何も残さぬ一家離散です。足穂と明石の縁はついに絶えたのでした。昭和11年(1936)のことです。

   ★

先を急ぎ過ぎたので、話を足穂の少年時代に戻します。

(この項つづく)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック