足穂の里へ(5)2011年09月04日 08時18分50秒

(9月10日記: 記事を改修云々といいましたが、末尾に【付記】を書くだけでお茶を濁しました。そちらもご覧ください。)

急いでいる割に、なかなか前に進まないこの企画。だんだん疲れてきました。
でも、とりあえず続けます。

   ★


上の写真は昨日と同じものの再掲です。
実は私はここで1つのしくじりをしました。
足穂のハイカラ趣味を養った「聖地」訪問の機会を失ったのです。

前述のとおり、写真中央を南北に縦貫するのが駅前通り(明石銀座/昔の錦江町)で、信号交差点を東西にクロスするのが、もう1つのメインストリートである本町筋。

この交差点の北西角、画面左手中央の、緑のアーケードをかぶった場所がその「聖地」。ここにかつて「赤松雑貨店」という店がありました。

「赤松雑貨店は、私の家の前を海の方に下って、西に続く本町筋への曲りかどにあった。〔…〕この我が家近くの新開業の洋品店ではその二面にわたった広い窓の内部において、私は日頃近付きがたい多くのハイカラーな品々を、眼の前に教えられることになった。

 例えば、ラケット、フットボール、ピンポン、野球のグラブ、ローラースケイト、コンパスのひと組、写生箱と三脚架等々である。チューブ入りの絵具もそうであった。〔…〕
 赤松洋品雑貨店の窓には、夏が近付くとアイスクリーム製造機械が現われた。その小形の桶に貼られているアルプス風景のラベルが好きで、私は毎年待ちかまえていた。他に、二匹の犬が一箇の中折帽子を争っている彩色画が、硝子の裏側に貼り付けられたことがある。晩方になって窓の内側に灯が点ると、そのイタリア=トリノ市のボルサリノ帽子会社の広告画が、半透明になって浮き出すのだった。この犬共がパテェ会社の雄鶏のように少うし動いたならば面白かろうな、と私は思うた。〔…〕

 乾いた涎(よだれ)の匂いがする水彩画用ワットマン紙も、模型飛行機用のどうさ紙〔原文4字傍点〕や色紙も、五線紙も、この赤松で買ったものだった。駅前筋にそうて隣接した洋菓子部には、夙くから食麺麭(パン)の用意があった。そこの棚には赤レッテルを貼ったソース壜が並んでいた。こんなソースの味と香りは、能くその日一日じゅうを西洋気分に導くものだ。一箇の錫箔包みのチョコレートだってそうである。パイナップルの缶詰の風景画ですら、私を南海の酋長にまで誘うのが常であった。」 (「パテェの赤い雄鶏を求めて」)

足穂がここまで書いた赤松雑貨店!
ここには後年親しむことになる、神戸のトアロードの空気を先取りする情緒が感じられます。足穂少年にとって、赤松雑貨店こそ「リトル神戸」。足穂が足穂たりえたのも、この店の存在によるところが大きいのではないでしょうか。

そして、何を隠そう、今でもここには「(有)赤松商店/アカマツメンズショップ」というお店があります。これぞ赤松雑貨店の後身に違いありません。ここは是非立ち寄るべきでした。たぶん今は普通の洋品店でしょうけれど、何かハイカラなものを探し出して、足穂に手向けたかったです。しかし、その場で気づかなかったのは一生の不覚。まさに後悔先に立たず…。

   ★

足穂の旧居は所番地まではっきり分かっています。すなわち全集所載の年譜には、関西学院の名簿から引いた「明石郡明石町大明石村西郭1204-1」という住所が出ています。この地名について、足穂自身はこう書いています。

「私の本籍の錦江町とは新規の町名で、以前は大明石村西廓というのだった。これが私は厭だった。自分の住まいは二の丸、ステーション、淡路島燈台の三点を結ぶ直線上にあって、明石のまんなかなのに拘らず、これを大明石村とは郊外のように受取られる惧れがあったからだ。それが大正八年の市制と共に錦江町に変わると、こんどは取ってつけたような感じがした。」 (「明石」)

で、私は最初、番地まで分かっていれば、それが現在のどこかすぐにも分かるだろうと思いました。でも、市役所に聞き、県立図書館に聞き、そして地方法務局にも聞きましたが、結局分からずじまい。中でも法務局は地番管理の総元締めですから、明快な答を期待したのですが、係の人の話によると、地番というのは、現在から過去に遡ることはできても、過去から現在へと辿るのは非常に難しいのだそうです。

いろいろな記述を総合すると、足穂の家は赤松雑貨店から少し北に寄った「魚の棚」横丁を越えた辺りだと想像していますが、正確な場所は不明です。ご存知の方はぜひご教示ください。
 
(足穂の旧居は赤丸の辺りか?奇しくも向かいは歯医者。緑の丸は赤松雑貨店の位置。)

(この日は、足穂旧居とおぼしい位置の寿司屋で昼食をとりました。大正創業で、戦後現在地に移ったという店の大将も、「この辺はみんな空襲で焼けたから。昔のことはさっぱり…」と、足穂一家の痕跡は、今ではまったく消えていました。)


【9月10日付記】

足穂旧居の位置は、9月10日の記事 [LINK]で、より詳細に検討しました。上図の赤丸の位置より、さらに1ブロック北の、三菱東京UFJ銀行の場所がそこだと考えています。また、私が入ったお寿司屋さんも、赤丸の位置ではなくて、UFJ銀行のすぐ南側でした。訂正します。

なお、赤松雑貨店は、昭和7年(1932)発行の明石市の商工地図(『昭和前期日本商工地図集成 第2期』、柏書房 所収)を見ると、呉服太物商の部に「赤松呉服雑貨店」として出てきます。位置は上に記した通りの場所で、現在のアカマツメンズショップさんがその後身であることは、いよいよ確かだと思います。



この商工地図で足穂の家の場所は、錦江町沿いの「シンガーミシン会社」の北側になります。彼の父親は、翌昭和8年に亡くなるのですが、この頃にはほぼ歯科医を廃業していたためか、その場所は空白になっています。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2011年09月06日 09時39分08秒

「明石」の再読は一応読了したので、同じ文庫本の他作に移りました。そこで、足穂氏の旧居の考証に関わる情報を得ました。以下すでにご検討済みの事項でありましたら、ご容赦下さい。

『彼等(they)』収録の(河出文庫版、初出本も同じ)「菫とヘルメット」の冒頭から以下の記述があります(以下引用)。

 私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。
 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向こう岸に立っている石榴の木を、(後略、引用終)

 別の作品に出てくるように「石榴の木」のある家は、足穂邸の「裏」の家ですから、「その正面」というのは西の方向になります。従って、足穂の屋敷の西の境界が外濠の向きが変わって南北になっていた部分であることになります。

 下記に、明石城の古地図があり、

(探って探って明石城(3) 若葉マークの都市建築研究所さん)
http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/16052420.html

外濠や城下を含んでこの地図は正確だそうですから、これを全く信用しまして、パソコンの液晶の地図に物差しを当てて測ると、これは、現在の国道2号南側「ジュンク堂書店」向かいの「明石追手ビル」あたりになるようです。

 多少、駅前通りの街並みより北西に寄っているようです。足穂邸の屋敷がそんなに東西に長くないとすると、古地図はそこまで正確ではないのかもしれません。足穂邸は、ご指摘の領域内の北よりにあって、現在では国道2号が南側に拡張されたため、今は国道のすぐ近くにあることになるのかもしれません。また、このあたりの駅前通りが多少東に移動した可能性もあるかもしれません。

_ 玉青 ― 2011年09月06日 20時28分24秒

おお、緻密な考証です。ご教示ありがとうございました。
ご紹介の古図は、仮に距離や方位に多少の甘さがあったとしても、町割と堀の屈曲の相対的な位置関係はきわめて正確なはずです。そして城下の碁盤割りも基本的に変わってないでしょうから、これはS.Uさんの推理に理があります。

実はお説を伺い、1つひらめいたことがあります。
現在、ちょっと裏をとるためにうごめいているので、とりあえず記事の方はいったん「準備中」の看板を出しておきます。今しばらくお待ちください。

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