足穂の里へ(6)2011年09月05日 20時27分06秒

さて足穂探訪は、明石銀座をさらに北上し、こんどは駅北エリアを見に行きます。

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足穂は、小学1年生の2学期に大阪から転校し、明石第一尋常小学校に通いました。
場所は明石駅のすぐ南、今ではTSUTAYAやジュンク堂が立っている一角です。第一尋常小学校は、足穂が卒業後の大正12年に、赤石尋常高等小学校(現・明石小学校)が、お城のすぐ東隣に移転した際、そこに統合されました。ですから、母校そのものは無くなってしまいましたが、強いて言えば明石小学校がその後身。
 
(明石小学校。向こうに見えるのは明石市立天文科学館の展望塔。)

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ここから東の天文科学館に向けて歩きます。
それにしても、この天文科学館のロケーションはどうでしょう!
持参のポケット地図をしげしげと見て、それに気付いた時、私がどれほど感動したか。それがグーグルの地図では伝わらないと思い、版元の昭文社に詫びつつ、写真を撮らせてもらいます。赤丸で囲んだ寺社名が見えますか?
 

東経135度の子午線にちなんで科学館建設の議が起こる前から、ここには星を祀る「妙見社」があり、「月照寺」があり、「雲晴寺」がありました。そして、足穂はこの月照寺で、あの「星を売る店」を書いたのです。星と足穂を愛する人にとって、ここがただならぬ土地であることがお分かりでしょう。

まずこれらの寺社にお参りしてから、天文科学館に向かうことにします。

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◆妙見社◆
 

北斗ないし北極星を祀る妙見信仰は、神仏混交の最たるもので(というよりも、本来は神・仏いずれでもなく、道教系かもしれませんが)、ここも隣接する日蓮宗・本松寺と一体のものとして営まれ、現在も同寺の守護神として扱われています。

◆月照寺◆
 

正式名称は「曹洞宗人丸山月照寺」。江戸時代までは、隣の人丸社(柿本神社)と一体の存在でしたが、明治の神仏分離により寺と神社に分かれました。
 
(隣に建つ柿本神社々殿)
 
(山門の向こうには天文科学館がにょきり)

大正12年の夏、23歳の足穂は、兵役の簡閲点呼のために、東京から明石に帰省し(そのため9月の関東大震災を逃れることができました)、その間どういう事情によるのか、自宅ではなく月照寺境内の茶室を借りて過ごしました。そのとき執筆したのが、名作「星を売る店」です。

「星を売る店」は、神戸を舞台にしたキラキラとした幻想譚。
「紅いのはストローベリ、青いのはペパーミント、みどり色のは何とかで、黄色はレモンの匂いと味…。」星を鉱物に見立てたり、それをまたお菓子になぞらえたりというのは、長野まゆみ的趣向ですが、その嚆矢は足穂だと思います。

大正12年は、何といっても、彼が単行本『一千一秒物語』を刊行した記念すべき年です。さらにその勢いを駆って「黄漠奇聞」「星を売る店」「シガレット物語」を次々に発表し、足穂自身が超新星のように輝いていた時代。その光がこの人丸山からも放たれたわけです。そして、そのとき自分のお尻が東経135度の線に乗っていたことに、彼は少なからず意味を感じていたようでもあります。

「以前、人丸神社山門の少し西に、月照寺に属する茶室があって、ある夏、私はその狭い方形の畳の上に机をすえて、「星を売る店」を書いたのだった。この仕事のあいだじゅう、自分の首すじから体躯を貫いている鉛直線は、東経百三十五度線から東にも、西にも、おそらく十センチとはずれていなかったであろう。」 (「蘆の都」)

「帆掛舟の形に作られてた八房梅のかたわらに、下方の参詣道からの石段のかどに、以前、独立した茶室があった。私はその小室に朱塗のかきもの台を持ち込んで、「星を売る店」を書いた。その私が坐っていた所とちょうど同じ位置に、今日、星の測定にもとづく子午線標識が立っている。」 (「明石」)
 
(現在の八房梅。たぶん代替わりしているのではないかと思います。)

「私が机を据えて「星を売る店」を書き、月の位相について考えた茶室跡に立っていた子午線標示柱は、其後、夜には全体が真紅なネオンに輝いていると聴かされた。― それが今回は、高さ五七メートルの展望塔と、それに隣合ったプラネタリウムに入れ換わっている。又、四、五才の時に初めてこの海岸に立って頭に描いた淡路架橋も実現しそうになっている。」 (「明石」後の版への補注)
 
(昭和5年(1930)に立てられた子午線標識標、通称「トンボの標識」。設置当初は現在よりも11.1m西にありました。)

 
(天文科学館の展望塔から見下ろした月照寺境内。本堂のすぐ前に左右一対植わっているのが八房梅。右下隅にトンボの標識が見える。足穂が「星を売る店」を書いたのは、画面中央の階段脇あたりか。)

◆雲晴寺◆
 

山号が「月江山」というのも素敵です。曹洞宗のお寺です。
「南総里見八犬伝」のモデル・里見忠義の菩提を弔うため建立された寺で、寺号は忠義の法名「雲晴院殿心叟賢凉大居士」にちなむものだそうです。

(余談ですが、今ウィキペディアを見たら、八犬伝はもともと北斗七星をイメージした「七犬伝」として構想され、後に添え星のアルコルを入れて八犬伝になった…という説があるとか。八犬士のうち犬江親兵衛だけ童子なのはそのせいだという、なんとなく尤もらしい話。)

さて、星にちなむ寺社にお参りを済ませて、いよいよ天文科学館へ。

(この項つづく)

コメント

_ たつき ― 2011年09月05日 23時14分52秒

とても素晴らしいところですね。タルホが「星を売る店」を書くのにはぴったりの場所だと思います。「南総里見八犬伝」も星にまつわる話ですし、月照寺が柿本人麻呂のお寺というのもなかなか謎めいています(参考→水底の歌・猿丸幻視行)。関西には親戚が多いので子供のころよく行っていましたが、その頃の興味の範囲は考古学だけだったために神戸は一回も行っていません。タルホを探して私も神戸にいきたくなりました。ちなみに、長野まゆみが書いた「旅づくし旅物語 京都・神戸・奈良」という短編集がありますのでぜひ読んでみて下さい。これは女性の視点で描かれた、誰でも抵抗なく読めるものなので安心です。たしかJRの無料の冊子に載り「三都物語」なるキャンペーンに使われたものだったと思います。などと書くと年がばれるか。

_ 玉青 ― 2011年09月06日 20時26分48秒

あ、たつきさんは考古学にも関心がおありなんですね。
「梅原史学」をどう評価するかは私の手に余りますが、人麻呂という謎めいた人物は、古代へのロマンをはげしく掻き立てる存在ではありますね。そういえば、彼の代表歌「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」は、単なる曙や月の美しさを超えて、壮大な天体の運行そのものの謳いあげた歌だと私には感じられます。「天文の里」にこれまた相応しい感じです。

>「旅づくし旅物語 京都・神戸・奈良」

やや!この本には記憶があります。検索したら、以下に出てきました。
ttp://mononoke.asablo.jp/blog/2010/03/02/4916541
去年の1月末から2月にかけては、ほとんど神戸一色の記事を書いていて、その流れを受けて、この本のこともチラリと触れました。

神戸も明石も町歩きするには至極いいところですよ。機会があればぜひ。

_ 玉青 ― 2011年09月06日 23時37分09秒

ごめんなさい、URLの頭にhが抜けていました。

http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/03/02/4916541

_ たつき ― 2011年09月07日 02時24分33秒

失礼いたしました。私もこの記事を読んでいたのを思い出しました。年齢のせいか物忘ればかりして、周りにめいわくばかりかけています。今後は気をつけますので、お許しください。

_ 玉青 ― 2011年09月07日 21時09分41秒

いやあ、この際、年齢のことはお互いに(むにゃむにゃ)。
実は私も過去記事のことは大部分忘れていて、記憶を呼び覚ますのが大変です。たいてい泥縄で書いているので、忘れるのも早いのでしょう。(笑)

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