驚異の部屋に弱点あり2011年10月01日 15時42分11秒

驚異の空間を求めて、部屋に異常なモノを並べては、これまで一人悦に入っていました。
個人の趣味ですから、別にそれはそれで良いわけですが、しかし、いざ「日常」と対峙するときに、恥ずかしい思いをすることもあるゾ…ということを、他の方への警告として書いておきます。

先日、光回線の工事にNTTの人が来た時が、まさにそうでした。
工事の担当者は特に何もおっしゃらなかったですが(客商売としては当然でしょう)、工事に立ち会った私としては、よくて変人、悪くすると変態と思われるんじゃないか…と、内心ヒヤヒヤしていました(私にもまだ人の目を気にするだけの分別はあるのです)。

あるいは自意識過剰なのかもしれませんが、しかし部屋に入ったら、いきなり人体模型や骨格模型がお出迎えというのは、相手にとってはイヤじゃないでしょうか。少なくとも、得体の知れない部屋の主と、人体模型の前で差し向いで過ごすのは、気詰まりな経験には違いありません。予めケースの前に布を垂らそうかとも思いましたが、はく製や標本は隠しきれないし、中途半端に隠すと、かえってものすごく怪しいような気がして、結局、豪放磊落なふりをして素のままで先方を迎え入れたのでした。

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待望の光がやってきましたが、依然通信の不調は続いています。
とりあえず「つながらない」状態はなくなりました。しかし、つながっても異常に遅いときが頻繁にあります。そういうときは、計測すると0.1Mbbsを切っていて、ウェブはまともに見れないわ、メールは受信中にタイムアウトになるわで、もうどうにもなりません。でも、たまに30Mbbsを超えるスピードで、何でもサクサク動くときもあります。その差が何に由来するのか、さっぱり原因がわかりません。しばらくは試行錯誤の日々が続くでしょう。

そんなわけで、例の仕事もまったくはかどらず、出るのはため息ばかりです。

やっつけ2011年10月05日 20時45分05秒

ご無沙汰をしております。

日本ハーシェル協会の用務は、何とか片付けました。
昨晩、会誌を発送したので、多くの地域では明日にはお手元に届くでしょう。
(これは本来、協会の掲示板に書くべきことですが、あまり見る人もいないので、こちらに書いておきます。)

あと天文とは関係ない仕事を金曜日までに片付ければ、当分はお役ご免です。
もうひと踏ん張りです。
それにしても、いつもやっつけ仕事で反省しきり。でも、これはもう直らんでしょう。
座右の銘は、日々是やっつけ。

フラマリオンとジュヴィシー天文台2011年10月09日 16時59分12秒

秋深し。穏やかな秋晴れが続いています。

昨日今日と、エアコンの掃除をしたり、机のニスを塗ったり、ブラインドを直したり、わりとまっとうな生活を送っています。驚異の部屋も結構ですが、人間にはそういう営みも大切だなと感じる日々です。

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さて、そろそろ記事を再開します。
久しぶりなので何を書こうかと思いましたが、ここはやはり天文古玩の王道から入ることにします。

写真は昨日届いた絵葉書です。
被写体となっているのは、フランスのみならず世界中の天文趣味に影響を及ぼした、カミーユ・フラマリオン(1842-1925)と、彼の個人天文台の内部。


この天文台の外観は、以前記事にしましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/01/27/228532)、当時はまだ画像拡大機能がなかったので、あらためて下に貼っておきます。今回の絵葉書は、このてっぺんにあるドーム内部の光景です。


壁には星図や月面図、それに土星の絵が麗々しく貼ってあります。
この辺は、普通の天文ファンとも共通する感覚で、何となく微笑ましいですが、しかし、隔絶しているのは、何といっても巨大なドームと機材です。彼はこの天文台の台長兼オーナーとして、誰に気兼ねすることもなく、好きなだけこれらを使えたのですから、何ともうらやましい話。

この機材のスペックについては、「The Observatory」 誌、第128号(1887年10月)p.364の彙報欄に紹介されているのを見つけました。(http://books.google.co.jp/books?id=XHEKAAAAIAAJ&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false

例によって適当訳ですが、参考までに訳出しておきます。

「新天文台(New Observatory)

フラマリオン氏は、最近、新天文台の建設を成し遂げた。ここはパリからフォンテンブローへと向かう街道沿いのジュヴィシーに位置しており、見事な構えを見せた小さな城館の屋上に建てられている。フラマリオン氏を天文学の面で崇拝する者は多いが、この城館は、その崇拝者の一人が、周囲の公園ともども1882年、彼に寄贈したものだ。この建物は1730年に女子修道院(a convent)として建てられたもので、壁は十分に厚く、頑丈なので、ドームと赤道儀の基礎としては申し分がない。

赤道儀式望遠鏡は、口径9.5インチ〔約24cm〕、焦点距離は12.5フィート〔約3.8m〕、対物レンズはバルドー(Bardou)製で、ヴィラーソー(Villarceau)式調速機付きのブレゲ(Bréguet)製追尾装置を備えている。また隣接するテラスには、より小型の2台の望遠鏡が置かれている。

羨ましいことに、フラマリオン氏は素晴らしい天文学ライブラリーも所有しておられ、現在、博物館を設立中である。」

この記事が書かれた1887年、フラマリオンは45歳。
45歳で「城主」に収まり天文三昧とは、何度も言うように羨ましい限りです。
「それに引き替え…」とは、思っても口に出しませんけれど、まあ外形的にはともかく、その精神においては、フラマリオンに劣らず、自由を旨としたいものですね。

昔日のジュヴィシー天文台2011年10月10日 17時01分03秒

ジュヴィシー天文台を別の位置から撮った絵葉書(手彩色)。
1905年の消印があるので、城主のフラマリオンはまだ60代。かくしゃくとして望遠鏡を覗き、文筆活動にいそしんでいた頃の館の様子です。
冬枯れの庭には明るく日が射し、手前の小屋では慰みに家禽が飼われていたようです。のどかな初冬の一日…といった光景。

フラマリオンの「城」は、表から見ると中世城郭風ですが、裏手(庭側)に回ると、ご覧のとおり一転して近世居館風です。王政期のキッチュな趣味が、こうしたゴシックと古典主義の意図的な混交を生み出したのでしょう。

キャプションを見ると、この建物は、かつて王族がフォンテンブローへ御成りの際に休息所として使われた時期もあり、また1814年、対露戦に敗北して落ち目となったナポレオンが、パリ降服の報に接した場所でもある…というようなことが書かれています。

フラマリオンの「星の城」は、なかなか歴史性に富んだ場所でもあるのですね。

ところで館の正面中央には、高々と星のマークが掲げられていますが、これはフラマリオンが取り付けたのでしょうか。だとすれば、その稚気がいっそ微笑ましく、この館に詰まった彼の夢を象徴しているように感じられます。

(と思ってよく見たら、昨日の外観の写真にも、正門の上に星マークがあるので、やっぱりこれはフラマリオンの「星の城」を意味しているのでしょう。)

ジュヴィシー、夜2011年10月11日 21時06分08秒



ジュヴィシー天文台の夜景(※)。
これにも1905年の消印があります。


拝星教徒のみが、くぐることを許された、「星の門」。


城主は満月を眺め、何を思いやっているのか…
それとも今宵は館の窓にすべて灯が入り、星の宴が開かているのか。


城主をたたえる金文字。
  冬の夜も 夏の夜も 星々をじっと見つめ、
  偉大なる学者は 崇高な無限の帳(とばり)を貫く。


(※)昼間撮った写真に彩色して、無理やり夜景にしたものですが、ここでは素直に夜ということにしておきましょう。

神戸・ランスハップブックへ2011年10月13日 22時45分49秒

そういえば(だんだん物忘れがひどくなります)、「足穂の里・明石」について書いていたとき、「明石は神戸での用事のついでに足をのばした」みたいなことを言いました。
もう2か月近く前のことですが、その神戸でのことをあらためて書いておきます。

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8月の神戸には、あのヴンダーなお店、「Landschaoboek ランスハップブック」を再訪する目的で行ったのでした。(昨年の「不思議を売る店」と題した訪問記事はこちら


(8月下旬、夕刻のトアロードはときどき小雨がぱらつく中、はっきりしない表情を見せていました。現代のトアロードはいくぶん散文的です。)

ランスハップブックは、同じ路地に、同じ表情で立っていました。
そして、私は今回も同じように道に迷いながらたどり着きました。
ただ1つ違っていたのは、お店の内部です。



新たに間仕切りが設置されて、以前よりも店舗面積がぐっと小さくなり(感覚的には半減)、それによって商品の陳列密度がいっそう上がった感じです。お店の方の話によると、店舗を改装されてからもう1年以上になるそうです。

今回、ランスハップブックに向かったのは、取り置きをお願いしていた品を取りに行くためでした。それは大層繊細な品であるため、宅配で送ってもらうことが困難で、直接取りに上がったわけです。

(この項つづく)


※余談ですが、お店の方から「玉青さんって女性の方だと思っていました」と言われました。これはありがちな間違いで、これまでも同じことを何度か(ときにガッカリした表情で)言われたことがあります。いっそ「たまお」改め「ギョクセイ」にしようかとも思うのですが、それにしても、私の書く文章にはやや柔弱の気味があるんでしょうか。と、こう書くと、女性の方からお叱りを受けるかもしれませんが…

ランスハップブックからやってきた箱2011年10月14日 23時34分48秒

夜半から激しい雨。
いろいろあって心も波立っています。

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ランスハップブックで購入したヴンダーな品とは、B5よりもちょっと大きめの、古びた箱です。この箱がとびきりヴンダーであるわけは、心を静めてから書くことにします。
(妙に思わせぶりですが、これはサッと書き流すのが惜しい品でなので、ゆっくりと紹介します。)

昆虫宝石箱(前編)2011年10月15日 22時34分53秒

今日は所用で京都へ。
そのついでに「京都ヴンダー散歩」を敢行したのですが、その件はまた後日。

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さて、昨日の続きです。
ぼんやりとガラス越しに見えるモノから予想が付いた方もいらっしゃるでしょう。
 

ランスハップブックからそっと持ち帰った品とは、小昆虫の詰まった標本箱でした。
 

ガラスの蓋を開けると、小さな虫たちがピンに留められてズラリ。
 

(小さな瑠璃色の粒)

内容はおもに甲虫類ですが、よく見るとカメムシの仲間も混じっています。
 

(この箱の正体に迫りつつ、さらにこの項つづく)

昆虫宝石箱(後編)2011年10月16日 20時00分28秒

(昨日のつづき)

ラベルには1930年代の日付とベルギーの地名、それに「Coll. A. Fouassin」という文字が見えます(Coll.は、collectionの略?)。文字は手書きと印刷が混在しており、フアサン氏は、あらかじめ自分用のラベルを特注していたようです。
 

 

ただし、ラベルは箱の隅に2枚留められているだけて、個々の標本には付いていません。すくい網とか、叩き網とか、そんな方法で一網打尽にした虫たちを、名前調べは後回しにして、とりあえず標本に仕立てたのかもしれません。

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ここまで読んでこられた方は、「ランスハップから来たヴンダーな箱とは、実は箱よりも中身がヴンダーだったのだね」と思われるでしょう。実際、その中身は「70年余り前のベルギーの昆虫標本」という、なかなかディープな品です。

しかし、実はやっぱり箱そのものが一層ヴンダーなのでした。
それは箱の裏側に貼られた1枚のラベルから明らかになります。

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パリにあるヴンダーショップ、デロール好きの方にとっては、「バック街46番地(46, rue du Bac)」という地名が、耳に親しく感じられると思います。デロールは130年前の1881年から一貫してここに店を構え、現在に至るまで博物学の聖地として君臨してきたのですから、それも当然です。
 

しかし、この標本箱に貼られたラベルを見て、私はあっと驚きました。
デロールの住所が「モネ街23番地」になっている!

ここはデロールの初代、ジャン=バプティストが1831年に創業した場所で、3代目のエミールが現在地に移転するまで、半世紀にわたって商売を続けた縁故の地です。
つまり、この標本箱は、中身の標本からさらに半世紀以上遡る19世紀の品で、デロール初期の歴史を雄弁に物語る証人だったのです。

この品をランスハップブックさんのサイトで見た瞬間、「これは<絶対に>手に入れなければ!」と思い、お金のことは放念し、震えがちの手で電話をかけたのでした。
いささか病んでいる感じはありますが、それはともかく、これでデロールの生の歴史に、また一歩近づけたような気がしています。(だからどうした?という疑問は、ここではどうかグッと呑み込んでください。)

千年の古都で、博物ヴンダー散歩…益富地学会館(1)2011年10月18日 21時59分29秒

最近、ちょっと関西づいている気がしますが、先週の土曜日に京都へ行った話を書きます。今回の京都行きは、この前の神戸と同じく、ある品物を受け取りに行くのが本来の目的でしたが、そのついでに、これまで行く機会のなかった場所を大急ぎで回ることにしました。

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この日は、まず京都駅からまっすぐに北上し、益富地学会館を訪ねました。
地下鉄丸太町で降り、広大な京都御苑の脇を通り、日本聖公会アグネス教会(明治31=1898年竣工)の瀟洒な建物をこえると、間もなく益富地学会館です。

(京都御苑)

(赤煉瓦のアグネス教会)

(益富地学会館外観)

■財団法人 益富地学会館公式サイト
 http://www.masutomi.or.jp/

創立者の益富寿之助(ますとみかずのすけ、1901~1993)氏のことは、以前このブログの中で、「鉱物界の牧野富太郎」とお呼びしたことがあります。氏は本業の薬局経営のかたわら、「日本鉱物趣味の会」を設立し、戦前から戦後にかけて、鉱物趣味の育成に努めた鉱物界の偉人。

(階段の踊り場に貼られた、益富氏の写真パネル)

その経歴から分かるように、氏はもともと鉱物学専攻の学徒ではありませんが、鉱物学プロパーの学者よりも、いっそう鉱物を愛し、鉱物に耽溺された方だったようです。(もっとも、「薬石効なく…」という慣用句が示すように、鉱物学と薬物学は歴史的に密接な関係があり、まったく無縁というわけではないでしょうが。)

益富地学会館は、昭和48(1973)にオープンした、鉱物趣味の西の聖地…といった場所らしいので、私自身鉱物のことは皆目分からないながらも、そのオーラに憧れて、一度行ってみたいと思っていました。

メインの3階展示室は、土日祝日のみ公開されています。



(この展示に触発された思いを振り返りつつ、この項続く)