世は金環食なれども ― 2012年05月21日 06時05分52秒
この1週間、金環食騒動を完全に忘れていました。
今ふと思い出して空を見たら、薄雲がかかっています。
リングを拝めるかどうかはちょっと微妙ですが、とりあえず日食グラスを持参して出勤します。
今ふと思い出して空を見たら、薄雲がかかっています。
リングを拝めるかどうかはちょっと微妙ですが、とりあえず日食グラスを持参して出勤します。
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補償交渉の方はいろいろ試行錯誤中です。
取り急ぎ、前々回書いた内容の訂正。
「補償金額がいったん3万円と決定したら、請求者(=私)が不服申し立てをする制度はないそうです。」
この点について、もう一度日本郵便に確認したら、そういう制度はあるとの回答がありました(具体的な仕組みは未詳)。
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あまり気鬱に陥ってはいけないので、明日あたりから本来の記事を再開することにしましょう。
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(2) ― 2012年05月22日 07時18分56秒
思わぬアクシデントで連載が中断しましたが、「『けいおん!』の理科室」と称して、滋賀県湖東地区に立つ豊郷小学校の理科室をながめようという企画が進行中でした。さらに、狭義の理科室に限らず、屋外施設も含めた、広義の「理科教育空間」を、昭和懐古モード全開で、存分に愛でてみようと思います。そういうわけで、前回とタイトルが変わっていますが、続き物なので今回を(2)とします。
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豊郷小学校の旧校舎は、昭和12年(1937)5月に落成し、理科室はその2階部分にあります。大きさは、タテ11m×ヨコ9m、面積は99平米。隣接する理科準備室は、同じく8m×8m、64平米で、これらはいずれも小学校の理科施設としては最大級のものです。
…と、知ったかぶりできるのは、以下の本が手元にあるからです。
この本には、昭和30年代に追求された「理想の理科教育の姿」が詰まっています。中でも豊郷小学校への言及の多さは目立ちます。データ的なことを続けると、同小学校の理科室には、69平米の「科学室」と称する部屋と、4.7平米の「暗室」までもが付属し、昭和36年(1961)には、その理科教育の充実ぶりが認められて、ソニーから100万円が贈られた…と、上の本には書かれています。
そう、ここはアニメの舞台というだけではなく、それ自体が注目に値する空間であり、多くの昭和理科少年にとって、「ああ、そういえば…!」と昔の記憶を蘇らせてくれる光景に満ち溢れた場所なのです。(といっても、その光景も今や過去のものですが…)
(この項つづく)
【余談】
○ふと気付いたこと(その1)
今回の金環食のリングが太かったのは、半月前に「スーパームーン」が
見られたことと、対の現象であること。
○ふと気付いたこと(その2)
6月に見られる金星の太陽面通過。あれも、ささやかな「金環食」であること。
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(3) ― 2012年05月23日 06時07分37秒
ここでまず、落成間もないころの同校の様子を見ておきます。
昭和13年(1938)に、「青年学校教育研究会」というのが同校で開かれ、それを記念して作られた絵葉書セットが手元にあるので、真新しい校舎を見て回りましょう。
昭和13年(1938)に、「青年学校教育研究会」というのが同校で開かれ、それを記念して作られた絵葉書セットが手元にあるので、真新しい校舎を見て回りましょう。
↑ヴォーリズの設計になる白亜の学び舎。瀟洒という言葉が似合います。
右上の銅像は、古川鉄治郎(1878-1940)。豊郷出身の財界人で、丸紅の専務などを務めた人。豊郷小学校の建物がこれほど立派なわけは、彼の莫大な寄付があったためだそうです。
上に掲げた絵葉書のうち、上の画像は、校門から校舎に至る道の左右に設けられた農場(学校園)。ここも理科教育の場として、大いに活用されました。
ここに写っているスペースだけでも、並の小学校のグランドぐらいありますが、本当の運動場は校舎を越えた、さらにその奥に広がっています(下の画像)。空間の取り方が実に贅沢です。
普通の講堂のようにも見えますが、考えてみれば体育館とは別にこうした講堂があるというのは、相当贅沢です。私の母校(旧校舎)も戦前に建てられた鉄筋校舎で、それなりに堂々としていましたが、講堂は体育館と兼用でした。
↑こちらが体育館(右図)。バレーやバスケのコートが作り付けになっているのは、戦前としてはずいぶんハイカラだったのでは。
なお、左の「手工動力室」は、理科教育空間の1つとして、後ほど話題にします。
(この項つづく。本来の理科室は次回登場します。)
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(4) ― 2012年05月25日 06時02分31秒
いよいよ本連載の本丸、豊郷小学校の理科室に入ります。
左は図画習字室で、右が理科室。
画像が粗くなりますが、臨場感を高めるるために、さらにドンと大きくスキャンしたので↓、クリックして、その内部をじっくりと堪能してください。
画像が粗くなりますが、臨場感を高めるるために、さらにドンと大きくスキャンしたので↓、クリックして、その内部をじっくりと堪能してください。
教室内には全部で12卓の生徒用机が置かれ、教卓に視線が集中するように配置されています。1卓あたりの児童数は4名で、教室定員は48名。
この理科室の特徴の1つは、何といっても部屋全体がゆったりしていることとで、空間の贅沢さがここにも表れています。
教卓の背後に、壁を隔てて位置するのが理科準備室。理科室とは2つのドアで結ばれています。上の画像では、教卓に向って左側のドア(肖像画の真下)が開いて、その内部がチラリと見えています。
この理科室の特徴の1つは、何といっても部屋全体がゆったりしていることとで、空間の贅沢さがここにも表れています。
教卓の背後に、壁を隔てて位置するのが理科準備室。理科室とは2つのドアで結ばれています。上の画像では、教卓に向って左側のドア(肖像画の真下)が開いて、その内部がチラリと見えています。
ちなみに、このドアとシンメトリーの位置、教卓の右側に立つ黒い装置は、「理化実験電源装置」で、これぞ戦前の理科室のシンボルともいうべき存在。 例えば、以前も登場した(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/01/544600)、京都の室町小学校の理科室にも全く同じタイプのものが置かれているのが見えます(画像を大きなサイズでスキャンし再掲↓)。乾電池やポータブル電源が普及する以前は、こういう物々しい装置を使って、各生徒用の机に必要な電流・電圧を配電していました。
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全体の構造を理解しやすくするために、近畿教育研究所連盟編の前掲書からとった豊郷小学校の理科室平面図を下に掲げます。
階段を上がってすぐが理科室入口。絵葉書では右端に見えるのがそれです。
理科室の右手が理科準備室(斜線網掛け)で、その右下隅の交差斜線部が暗室。理科室の下に「科学室」というのが又別にありますが、ここは一種の「ミニ科学館」のようなもので、テーマを決めて理科教具のディスプレイがされていたようです(後述)。
理科室の右手が理科準備室(斜線網掛け)で、その右下隅の交差斜線部が暗室。理科室の下に「科学室」というのが又別にありますが、ここは一種の「ミニ科学館」のようなもので、テーマを決めて理科教具のディスプレイがされていたようです(後述)。
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さて、絵葉書の画面にもどって、ここでパッと目を引かれるのは、椅子のデザインがいかにも凝っていること。「理科室の椅子」という瑣末なネタについても、このブログでは以前話題にしたことがあります(以下の記事のコメント欄参照)。
そこでも書いたのですが、日本の理科室の椅子には背もたれがないのに、欧米のそれには背もたれがある…という著しい特徴があります。そして日本における数少ない例外が、この豊郷小の理科室で、これはたぶん設計者ヴォーリズの意向が、内部の家具調度の選定にまで及んでいたからではないかと思います。
この清新でハイカラな空間は、その後、全国的な理科室伸長期だった昭和30年代を迎え、理科教育の爛熟ぶりを存分に見せつけてくれます。
次回以降、そのありさまを具体的に見ていきます。
(この項つづく)
笑う維管束 ― 2012年05月26日 20時21分21秒
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(5) ― 2012年05月27日 22時34分13秒
(一昨日のつづき)
さて、昭和10年代から時代を下って、昭和30年代の豊郷小を見にいきます。
以下の図版や解説は、特に断りがない限り、すべて昭和39年(1964)に出た、近畿教育研究所連盟(編)『理科教育における施設・設備・自作教具・校外指導の手引』(以下、『手引』)に拠るものです。
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まずは下の写真をご覧いただきたいのですが、この先生たちの熱気はどうでしょう!
おそらくこのシーンは、時間外や休日に食い込んでいるはずですが、3人の先生はトンテンカンテン、飛び散る汗をものともせず、製作活動に余念がありません。

豊郷小に限らず、当時は自作教具の製作がさかんでした。
これについて、『手引』には、次のような説明があります。
「理科という教科の特質は「事物現象から直接学ぶ」にあるから〔…〕理科教育のあり方を正常ならしめるには、直接子どもの学習指導にあたる教師も、学校管理者も、また、教育行政者も、それぞれの立場から、理科学習の「物」の整備、充実を意図しなければならない。〔…〕この問題解決の一手段としての自作教具の製作に大きな意義と価値を認めざるを得ないであろう。」(p.122)
特に豊郷小の場合は、「手工動力室」という強力な援軍があったので、教具の製作には大いに力が入ったことでしょう。
(昭和13年の絵葉書から。既出)
(昭和39年現在の動力室の状況)
こうした豊かな人的・物的資源を背景に、自作教具は日々生み出され、それらは理科準備室の棚を徐々に占領していきました↓。
上で引用した一節からも分かるように、当時はモノにこだわることが、すなわち理科教育の王道とされた時代です。そして買うのでも、作るのでも、とにかく教材を充実させることが(たぶん)至上命題でしたから、いきおい理科室はヴンダーカンマー化することになったわけです。
教具や標本であふれかえった理科準備室に入ることを許された、当時の子供たちの心境やいかに?うやうやしく棚から教材を取り出す、下の少年たちの横顔と手つきに、一種の誇りと憧れを感じとるのは、私だけではありますまい。
もちろん、今では昔の先生が作ったお手製の教材など、すべて廃棄されているでしょうが、とにかくすばらしく力が入っていたことは確かで、そうした時代を素朴に懐かしく思います。
(この項つづく)
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(6) ― 2012年05月28日 21時21分40秒
校舎落成から四半世紀。理科室の内部はどう変わったか?

(昭和13年の絵葉書より)
(昭和39年刊の『手引』より)
基本的なレイアウトは戦前と変わりませんが、黒板の向って右、電源装置の隣にあった理科準備室への扉をふさいで、その前に標本棚らしきものが置かれています。また、向って左の扉のさらに左手にも、新たに整理棚のようなものが見えます。
両者を比べて、戦前のスッキリした雰囲気をより好ましく思う方も多いでしょう。
しかし、良くも悪くも、これが時代のパワーであり、教材・教具類の急速な増加は、理科準備室のみでは吸収しきれず、理科室にもあふれ出ることになりました。
(細かいことですが、いかめしい肖像画が外され、「よく見る よく考える」という標語に替わっているのも、時代の変化を感じさせる点です。総じて言えば、戦前の取り澄ました雰囲気から、少なからず庶民的になったような気がします。)
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ところで、豊郷小の理科室の隣には、理科準備室とは別に「科学室」という部屋があったことを前に書きました。
この部屋の様子は今もってはっきりしないのですが、『手引』にはそれらしき写真が出てきます。それが↓の宇宙に関する展示スペース。
部屋の造作が、理科室とは異なって見えるので、おそらくこれが「科学室」であり、こんなふうに教材展示のためのスペースとして使われていたのではないか…と推測しています(確証はありません)。ごらんの通り、ここにも先生の工作心が、繚乱たるありさまを見せています。
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「1957年10月、ソ連が人工衛星の打上げに成功して以来、先進諸国間における、科学、技術教育刷新、強化の熱は拍車づけられ、今や全世界は、この面の教育に最大の努力を傾けつつある。」
『手引』冒頭の「推薦」の辞は、こういう書き出しで始まります(筆者は全国教育研究所連盟会長・平塚益徳氏)。
当時はしきりにこういう物言いがされました。戦後の理科教育推進の牽引役は、米ソを中心とした宇宙開発競争であり、理科教育全体の中で占める天文分野の地位も、今より格段に高かったように思います。これは単純に授業の単元数がどうという話ではなくて、人々のイメージの中で「宇宙」というものが輝いていた、いわば「華のある存在」だった、という意味合いにおいてです。
「天文古玩」的には、当時の「華のある」天文教育の実態と、先生たちが心血を注いで作り上げた天文教具類に、特に目を引かれるので、これは豊郷小学校以外の小学校も含めて、別項でまとめて紹介する予定です。
(この項つづく。次回は校舎外の施設に目をむけます。)
豊郷小学校に見る、昭和の理科教育空間(7) ― 2012年05月30日 17時46分55秒
小学校の校舎の周辺には、実にいろいろなモノがありました。
以下に出てくる写真をご覧いただくと、大抵の方は「そういえば…」と思い当たる節がおありでしょう。しかし、「へえ、あれは理科に関係するものだったのか」という方も少なくないはず。
これは世代差、時代差も関係すると思います。
それが作られた場面をリアルタイムで経験した世代ならば、「ボクたち・私たちのもの」という意識を持ちえたでしょうし、先生も鼻高々、熱心に教育に活用されたと思いますが、生徒も先生も代替わりするうちに、だんだんメンテナンスが行き届かなくなり、ついには「意味不明の施設」と化す…ということが全国で繰り広げられたんじゃないでしょうか。(=守成は創業より難し。)
以下に出てくる写真をご覧いただくと、大抵の方は「そういえば…」と思い当たる節がおありでしょう。しかし、「へえ、あれは理科に関係するものだったのか」という方も少なくないはず。
これは世代差、時代差も関係すると思います。
それが作られた場面をリアルタイムで経験した世代ならば、「ボクたち・私たちのもの」という意識を持ちえたでしょうし、先生も鼻高々、熱心に教育に活用されたと思いますが、生徒も先生も代替わりするうちに、だんだんメンテナンスが行き届かなくなり、ついには「意味不明の施設」と化す…ということが全国で繰り広げられたんじゃないでしょうか。(=守成は創業より難し。)
各地の小学校で、雨後の筍のごとく生まれた理科教育施設群を、豊郷小を例に、当時(昭和30年代)の熱気とともに回顧してみます。
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まずはベーシックな栽培編。
小学校には必ず何らかの植え込み、畑や花壇があったと思います。もちろん、あれは単に目を楽しませるためだけのものではありません。
『手引』 曰く、「自然に親しみ科学的な芽をのばすための、第一の施設は、栽培施設」であり(p.64)、それによって、
・植物の生育を継続的に観察して、その生育のようすを知ることができる。
・植物と動物との関係を観察することができる。
・栽培の技術を身につけられる。
・理科学習のための生きた教材が得られる。
・自然に直接に接して、植物に親しみ、植物愛護の念が培われる。
・情操のじゅん化がはかられる。
という効用が、期待されていたのです。(その成果がどうであったかは、皆さん、ご自分の胸に手を当てて考えてください。)
栽培施設というのは、いわゆる「学校園」ですが、これもさらに目的に応じて、以下のように細分化しうると『手引』は述べます(p.67)。
学校園…学校の環境整備のために、学年、学級に関係なく全体的に利用される。
学級園…学級別の学習のために使用する。
作物園…特別な目的のために使用する(水田など)。
栽培園…特定植物を栽培する。例えば、水生植物園、隠花植物園、湿地植物園、
薬草園、雑草園、竹材園、樹木園、熱帯植物園、果樹園などがこれに入る。
私の母校には、学年に応じてアブラナ、へちま、ジャガイモを育てるスペースがありました。あとは一般的な花壇がちょっとと、桜の木やなんかで、立派な植物園はありませんでした。しかし、私は今でもこの3種類の植物を何となく偉く感じますし、見事なイングリッシュガーデンよりも、ダリアや、カンナや、グラジオラス、ヒマワリが、平凡な顔つきで咲いている花壇のほうを好ましく思います。これは間違いなく児童期の刷り込みのせいで、子ども時代の経験の重要性を今更ながら痛感します。
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前口上が長くなりましたが、豊郷小に話を戻すと、同校の栽培施設としては以下の写真が載っています。
手入れの行き届いた、整然とした花壇です。
たしかに立派は立派ですが、5月23日の記事に登場した、広々とした農場を見れば明らかなように、同校の栽培施設の全貌は、こんなものではなかったはずです。おそらく他校とのバランスの関係で、たまたま『手引』では取り上げられなかったのでしょう。
他方、栽培から飼育に目を転じると、同校の充実ぶりは遺憾なく明らかとなります。
(この項つづく。)
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