「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(5)2018年06月20日 20時38分53秒

今日は激しい雨。
暑さも一段落ですが、うだるような日々の到来も近いことを予期して、うんざりされている方も多いでしょう。私も暑さにはめっぽう弱い方ですが、でも夏は大好きな季節です。四囲に生命力がみなぎり、草も木も動物たちも、ことのほか勁(つよ)く感じられます。

以下は、ライクロフト氏の夏の思い出。


<夏 第8章>

私はある八月の銀行休日のことを覚えている。ちょうどそのときはなにか用事があってロンドンの町を歩きまわらなければならなかったのだが、ふと気がついてみると思いがけなくも私はネコの子一匹いない大きな通りの不思議な光景に見ほれていた。しかし私のその気持ちは、なんの変哲もない街路樹の見通しやどすんとした建物の中に、今まで気づかなかった独特の美しさ、独特の魅力を感じて、やがて驚きと変わっていった。夏でもごくまれにしかみられないような建物の濃いくっきりした影は、ただそれだけで大変印象的なものだが、人っ子一人いない大通りにそれが射している姿はいっそう印象的なものである。見なれた建物や尖塔や記念碑の形を、なにか目新しいもののように見たことを覚えている。私がそのあとで河岸通りのどこかで腰をおろしたときも、それは休むためというよりゆっくりとあたりを眺めるためであった。というのは、私は少しも疲れていなかったからである。太陽はまだ真昼の光線を頭上にふりそそいでいた。それは私の血管に生命をみたしてくれるかのようであった。

 あの感じを私は二度と味わうことはないだろう。私にとって自然は慰めや喜びではあるが、もはや元気づけてくれる力ではない。太陽は私の命を維持してはくれるが、昔日のように、私の存在そのものに生気を吹きこんではくれない。ものを思うことなく、ひたすらに喜びにひたるすべを習いたいものだと思う。

 真昼時の散歩のさい、私は大きな「とちのき」のところまで行く。その根のところはちょうど木陰で手頃な腰かけとなっている。この休息所には別に広い展望があるわけではないが、私にはただそこから目に入るものだけで充分なのである――つまり、麦畑の端にある、「けし」「チャーロック」の花が一ぱい咲き乱れている荒地の一隅で充分なのだ。そこではあざやかな赤や黄の色が真昼の輝きと美しく調和している。その上すぐ近くには「野生昼顔」の大きな白い花におおわれた生垣もある。私の目はなかなか退屈なぞしないのである。

 私の大好きな小さな植物に「はりもくしゅく」がある。太陽がその上でぎらぎら照りつけると、花はえもいわれぬ馥郁たる香を放つが、それが私にはたまらなく快いのだ。なぜ特にこの香がそうなのか、その原因は私には分かっている。「はりもくしゅく」は海岸のすぐ近くの砂地によく生えているもので、少年時代、しばしばそんなところで赫々たる日の光を浴びて寝そべったものであった。そんなとき自分でも気がつかなかったが、ついその小さな桃色の花が私の顔にふれるたびに、その芳香を私は味わっていたのだ。今では、その芳香をかぐだけで、あの当時のことがよみがえってくるのである。北の方セント・ビーズ岬まで走っているカンバランドの海岸線や水平線上にかすかに浮かぶマン島の姿が私の眼前に浮かんでくる。陸地の方では、当時の私にとって、未知の驚異の国を守るかと思われた山々がそびえている。だが、それも遠い昔のことなのだ。

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「とちのき」 Horse-chestnut

(Aesculus hippocastanum)

「けし」 Poppy

(イギリスの野に咲くポピー。「Poppies near Kelling, North Norfolk, UK, June 2002」のキャプションとともに掲載の図。詳細な種名は不明)

「チャーロック」 Charlock

(Sinapis arvensis)

「野生昼顔」 Bindweed

(Calystegia sepium(Headge bindweed))

「はりもくしゅく」 Restharrow

(Ononis repens(Common restharrow))

   ★

これを読んで、私が夏を好むのも、実は「子供の頃に感じた夏」を懐かしんでいるからに他ならない…と気づきました。でも、あの時感じたようには、もはや感じることができないのを、私もライクロフト氏と共に寂しく思います。

それにしても、根っからの都会人の印象のライクロフト氏ですが、少年時代には、夏ともなれば、こんなふうに自然の中で伸び伸びと過ごしていたのですね。となると――文中にはっきりとは書かれていませんが――他の少年と同様、氏も昆虫や貝や石やその他もろもろの自然物に一通りは親しんだことでしょう。そう思うと、氏の存在がますます近しいものに感じられます。

(この項つづく)

コメント

_ S.U ― 2018年06月21日 07時57分46秒

 私の子供の頃の環境は、田んぼや畑の多い農村でしたので、屋外、つまり、自宅あるいは友達宅以外、で遊ぶとしたら、農地周辺、あるいは山林の自然の中で遊ぶしかありませんでした。そういうところには、えてして、「この木何の木」ではありませんが、気になる木や座るにちょうど良い切り株があり、強い日差しを避けて一休みができたものです。近くで、時々、珍しい種類の植物を見つけることもできました。農道には、目立つかたちで2~3本の木が植えられているところがところどころありました。かつては牛や馬を休ませたのでしょう。

 こういうことは、日本の普通の田舎で平凡に遊んでいても体験できたことですから、世界共通ですね。逆に、あまりにありふれた体験だから、何らかの事情がない限り作家が文章に残さなかっただけかもしれないと思います。

 いっぽう、子供の頃の夏休みのあの気持ちがもはや帰って来ないことについては、ありふれていますが、多くの人が語っています。これは何なんでしょうね。

_ 玉青 ― 2018年06月22日 21時26分38秒

遠い夏の日の思い出―。
何だか蝉時雨が耳の奥で聞こえます。
ふと切り取られた一瞬が、いつまでも心に畳み込まれる不思議。
そうした何ということもない情景こそが、人間の経験の根幹を形成しているのではないか…と、以前S.Uさんが述べられていたのを思い出しました。

_ S.U ― 2018年06月23日 07時39分05秒

最近の傾向かもしれませんが、よく子供に対して「思い出づくり」と称して、旅行に行ったり、晴れやかなイベントを開いたりしていますが、あれなども親が世話をしたというエクスキューズにはなっても、実際的には感謝されるほどの思い出になっているかわからないと思います。親としてできることは、せいぜい子供の自然の感性を鈍らせないようにすることくらいかもしれません。

 それから、子育て時の家屋敷の環境として、子供にわけのわからない空間があること(つまり、わけのわからない道具や資材が置いてある物置とか、有効利用されているか不分妙な建物・空き地など)の存在がかなり重要であると指摘した人がいました。

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